第364話 期待

 レーヴラント王国とアールクヴィスト大公国の連合軍は、国境のフィオルーヴィキ峡谷まで退いた。


 もとは峡谷を通る街道の脇に石造りの関所があるだけだったこの場所は、今は峡谷の全幅が丸太の壁で塞がれ、壁の敵側の表面は火攻め対策として土で固められている。防壁の裏には足場が組まれ、上から攻撃することも可能となっている。


 さらに、物見台も二つ作られ、関所と併せて三か所の高所から攻撃を行えるようにもなっていた。急ごしらえの砦としては十分に頑強な造りだ。


 そんな国境の砦に撤退してきた初日の夜。砦の奥側、糧秣をはじめとした物資の集積場に、ヘルガ・レーヴラントは数人の兵士と共に立っていた。


 時刻はそろそろ日付が変わる頃合いだ。このような時間にヘルガが見張りの責任者を務めているのは、彼女の立場に理由がある。


 建前上は一騎士とはいえ、ヘルガは王国のたった一人の姫。危険が少なく、なるべく一般兵と親密に接しない仕事を与えられることが多い。


 多少の眠気を感じつつも毅然と立っていたヘルガに、スルホ・ハッカライネン候が近づいてきた。


 軍では上官である彼にヘルガは敬礼を示すが、ハッカライネン候はそれには応じず、臣下として礼をした。


「殿下。国王陛下がお呼びです。この場には他の者を立てますので、陛下の天幕へお行きください」


「……分かりました」


 軍務中にこのような言われ方をするということは、ガブリエルは王女としてのヘルガに用があるということだ。ヘルガは少し訝しく思いつつも、急ぎ父の天幕へ向かった。


 入り口で名乗り、許可を得て天幕に入ると、ガブリエルは軍装のまま組み立て式の椅子に座って待っていた。


「父上。ご用でしょうか?」


「ああ。まずは座れ」


 ガブリエルに促され、ヘルガは彼の向かい側に座る。王の天幕とはいえ椅子はひとつしかないので、木箱を椅子代わりにする。


「これからレーヴラント王国の存続をかけた決戦に臨むにあたり、王女であるお前に話しておかなければならないことがある」


 その言葉に、ヘルガは緊張した面持ちで姿勢を正した。


「この戦いでレーヴラント王国の運命は決まる。もちろん私は勝利するつもりでいるが、戦いに絶対の勝利はない。今の王家によるレーヴラント王国の統治が、終わりを迎える運命もあり得る。お前もそのことは理解できているな?」


「……はい」


 声を詰まらせながらも、ヘルガは答える。


「そのときは私もお前の母も、国と運命を共にする。この砦が落ちれば、一人でも多くの民を逃がすために後退しながら戦い続け、そして死ぬ。それが国王と王妃の責務だ……だがな、ヘルガ、お前を死なせるわけにはいかん」


「……っ」


 ヘルガは口を開き、しかし何も言わずに閉じた。


 自分も王女として最後まで戦う。そう言おうと思った。しかしできなかった。


 怖かった。齢十七にして死ぬのは嫌だと思ってしまった。もし殺されずに生け捕られたとしても、侵略者の戦利品となった亡国の姫がどんな目に遭うかと思うと恐ろしくてたまらなかった。


「お前は我が国の希望だ。王家の血を継ぐお前が生きていれば、いつの日かレーヴラント王国が再興を果たす可能性が残る。生き残ることがお前の役目なのだ……それに、お前が生きていると思えば、私たちも安心して国を枕に死ねる」


 ガブリエルに優しく微笑みかけられて、ヘルガは涙を溢れさせた。


 レーヴラント王国が無くなるかもしれない。自分は祖国を、家族を失うかもしれない。


 今まで頭では理解していてもどこか非現実的に感じられた、ふわふわとして掴みどころのない話に感じられたその事実が、急に生々しい輪郭と手応えを帯びてくる。無意識に考えないようにしていた悲しみが沸き起こってくる。


「なので、敵を退けられないときは、お前はアールクヴィスト大公国に逃げろ。ノエイン・アールクヴィスト大公には話をつけた」


「っ!?」


 その言葉を聞いたヘルガは目を見開いた。


「お前には騎士ベーヴェルシュタムと、他にも貴族やその子弟を何人かつける。いつか国を再興するときに必要な国宝や史料の類も、今頃は城からいつでも運び出せるよう準備がされていることだろう」


「ち、父上! どうしてアールクヴィスト大公国なのですか!」


 ヘルガが思わず立ち上がって声を上げると、ガブリエルは険しい顔をした。


「声を抑えろ。王女が騒ぐと兵士たちが不安に思う」


 気まずさを感じたヘルガは、また木箱に腰を下ろすと、抑えた声で抗議を続ける。


「アールクヴィスト大公国は獣人を奴隷にしている国です。よりにもよって何で……他にも友好国はあります」


「我々が敗北すれば、その後の大陸北部がどうなるかは未知数だ。周辺国がいざヴィルゴア王国に迫られたら、国を失ったお前をどう扱うか分からんのだ……その点、アールクヴィスト大公国は大丈夫だ。山地越しならばヴィルゴア王国を容易に退けるだろうし、アールクヴィスト大公がカドネに恭順を示すことはあり得ないだろう」


「で、でも……アールクヴィスト大公だって、私をどう利用するか分かりません。レーヴラント王国を再興させるために助力するふりをして、大陸北部に影響力を持とうとするかも」


「それもあり得るな。だが、それも覚悟の上で私は決めたのだ。例えアールクヴィスト大公国の影響力を内包するかたちでレーヴラント王国が復活するとして、それもまたひとつの選択肢にして構わないと思っている。そのときにどれほど国家としての自決権を保てるか、それはヘルガ、お前にかかっている」


 ガブリエルの言葉に、ヘルガは慄く。


 自分が最後の王族として一人生き残ったら。レーヴラント王国の運命が、歴史が、誇りが、全て自分の肩に乗るのだということを、今改めて自覚した。


「ヘルガ。私は父としてまだまだお前を見守る時間があると思っていたから、今までは可愛い一人娘であるお前を甘やかしていた。しかし、もう時間がなくなるかもしれん。だからあえて厳しい言葉を選ぶ……今のままのお前では、たとえ生き延びても自力でレーヴラント王国の再興など果たせない。私はそう思っている」


「……え」


 ヘルガは絶句した。その顔が真っ青になった。


「唯一可能性があるとすれば、アールクヴィスト大公国の傀儡国家として名ばかりの復活を果たすこと。それしかないと思っている。お前にはできないが、ノエイン・アールクヴィスト大公であればレーヴラント王国の国土を再征服し、そこにお前を女王として置き、表向きは対等なふりをして手綱を握ることもできるだろう。彼にはそれだけの才覚がある」


「いやっ、いやですっ、父上……」


 ヘルガは涙を浮かべながら耳を塞ぐ。


 愛する父は娘の自分に期待していない。娘の自分よりもアールクヴィスト大公の方を為政者として評価している。それは、真正面からいきなり受け止めるにはあまりに残酷な言葉だった。


「聞くのだ、ヘルガ」


 ガブリエルはヘルガの手を掴み、耳から離した。ヘルガが逃げることを許さなかった。


「お前とアールクヴィスト大公の最大の違い。それが何か分かるか」


「……」


 その問いに、ヘルガは呆然としながら首を横に振った。


「アールクヴィスト大公は行動している。世の不条理の中で、可能な限り、自分の手の届く限りにおいて状況を改善しようとしている。結果も残している。獣人の扱いだけではない。その他の全てについてもそうだろう。一方でお前は、理想を語るだけで何もしていない。それが、私がお前を信じずアールクヴィスト大公を信じる理由だ」


「で、でも……私はまだ王女で」


「そうだな。だが、王女のうちからでもできることはあった。獣人を少しでも援助するために、大陸南部に何かしらの伝手を作ろうと思えばできただろう。実際に南部まで足を運び、獣人の現状を見て知ることもできただろう。お前がそれを望めば、私はその手助けをしてやるつもりだった。だが、お前は王城の中で夢のような理想を語るだけだった。もう何年もな」


 そう言われて、ヘルガは返す言葉がなかった。


 絶望的な顔のヘルガを見ながら、ガブリエルは険しい表情を解く。


「だが、私はお前に失望しているわけではない。お前は今のままでは、レーヴラント王国を再興することはできないと思う。だが、お前が永遠に今のままだとは思っていない」


 ヘルガははっとした顔になる。ガブリエルが何を言わんとしているかを理解する。


「お前はまだ若い。そして、お前は本当は賢い。私はそう思っている。もしレーヴラント王国が敵の手に落ちるのであれば、生き延びたお前はこれから多くのことを学び、一から国を作り直す君主となるために成長するのだ。王国が生き永らえるとしても、成長の重要性は変わらない。お前ももう大人になったのだ。これを機に学び、これから次代の君主にふさわしい人間になっていけ」


「……どうやって、」


 震える声で、ヘルガは口を開いた。


「どうやって学べばいいのですか? 私には……どうすればいいのか、何から始めればいいのか、想像もつきません」


「そうだな。まずは実際に行動して成果を収めた者を、例えば、それこそアールクヴィスト大公を見るといい。彼が何を考え、何を語り、周囲の者をどう扱い、周囲の者が彼をどう見ているかを知るといい。そうすれば、君主としての器の差が見えてくるだろう」


「……」


「分かったな? 愛する我が娘よ」


 ヘルガは涙で赤くなった目元を拭い、こくりと頷いた。ガブリエルはそれを見てフッと笑みをこぼし、ヘルガの頭に手を置き、やや荒っぽく撫でる。


「こんな話をされて疲れたであろう。だが、これを受け止めたことがお前の成長の第一歩だ。戻ってよい。今日はよく休め」

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