第358話 からかい

 一波乱のあった会食を終え、あとは客室で休むばかりになった夜。


 貴族として王城の客室に泊まるノエイン、ユーリ、ペンス、グスタフが明日以降のことを軽く話し合い、兵たちに出すべき指示をまとめると、マチルダはその言伝を届けるために王城の隣の国軍施設に出向いた。


 そして、そこの兵舎に宿泊する兵をまとめる従士ダントに会い、指示を伝達。再び王城に戻り、ノエインの待つ客室を目指して廊下を歩いていると――不意に呼び止められる。


「ねえあなた、ちょっといいかしら」


 マチルダが振り返ると、そこに立っていたのは王女ヘルガ・レーヴラントだった。


「……何かご用でしょうか? 主にお伝えするべきことがあるのでしたら、言伝をお預かりしますが」


 ヘルガはこの国の貴人だが、つい先ほどの食事の席で自身の主人に失礼な言動を働き、自身の立場にも安易に言及してきた彼女に、マチルダが好印象を抱けるはずもない。応える声は、どうしても冷たくなる。


「いえ、あなたに話があるのよ。さっきアールクヴィスト大公が言っていたこと……彼の獣人への扱いの話なんだけど」


 まだその件に触れるのか、と思いつつも、マチルダは表情を殺して無言を保つ。


「彼はあなたのことを愛して大切にしていると語っていたけど、本当なの? あなたは彼の奴隷として傍にいることを、本当は強いられているんじゃないの?」


 そう聞いてくるヘルガの口調や表情は、会食の席でノエインに向けられたものとは打って変わって優しく、同情的だった。


 なんと、自分は彼女に心配されているらしい。マチルダは思わず呆れを顔に出しそうになって、それを堪えるために目を細め、口を強く結ぶ。


 それをどう捉えたのか、ヘルガは微笑んでくる。


「大丈夫よ、ここは獣人が多い国だから。獣人が虐げられることも、奴隷にされることもないの。だから安心して本当のことを――」


「畏れながら、殿下は誤解されているようです。私はノエ……アールクヴィスト閣下より、これ以上ないほどのご寵愛を賜っています。私もまた、閣下を心よりお慕いしています。私は最上の幸福を得ています。ご心配いただくようなことは何もございません」


 マチルダが答えると、それが意に反するものだったからか、それとも言葉を遮られたからか、ヘルガの笑顔が崩れた。


「……あなた、何歳で奴隷になったの?」


「はっきりとは憶えていませんが、幼少の頃です。アールクヴィスト閣下には十五の時よりお仕えしています」


「なら、奴隷以外の人生をほとんど知らないんじゃない。それで奴隷身分のまま幸せなんて、間違ってるわ。あなたはきっとアールクヴィスト大公に騙されてるのよ。南部の野蛮な奴隷制度のせいで可哀想に……とても放ってはおけないわ。私があなたに正しい幸せを――」


「お止めください」


 語気が強まるのを抑えられないまま、マチルダは言った。


「アールクヴィスト閣下は貴国に助力するために軍を率いて来訪し、私は閣下の従者として同行している身です。私が殿下とこのような話をすることを、閣下は快く思われないでしょう。どうかご容赦ください」


 自分は今、不愉快に思っている。丁寧な言葉づかいを崩さないのは、お前が自分の主人にとって重要な隣国の姫だからでしかない。そう伝えるように、マチルダは毅然とした態度で、有無を言わさぬ口調で語る。


「っ! 私はあなたのためを思って言ってるのよ!」


 ヘルガは顔を真っ赤にして、悔しげな表情で言った。怒らせたらしい。どうしたものか。マチルダがそう思っていると――


「マチルダ、大丈夫?」


 言い合う声が聞こえたのか、ノエインが廊下に顔を出した。


 ノエインの方を振り向いたヘルガが、苦虫を噛み潰したような表情になる。一方のノエインは、あからさまな作り笑顔を見せる。


「これはヘルガ殿下。どうかなさいましたか? マチルダが何か失礼を?」


「……アールクヴィスト大公閣下。あなた、この子に一体何を吹き込んだのですか? どうやってここまで洗脳したの?」


 そう言われたノエインは思わず苦笑した。今の言葉で、ヘルガがマチルダにどんな話をしていたのか大体想像がついた。


「私とそのような話をしてよろしいのですか? またお父様に叱られますよ?」


 半笑いで尋ねるノエインが癪に障ったのか、ヘルガの表情が歪む。


「この子は奴隷身分のまま自分が幸せだと語っていますが、私にはとても信じられません。こんなのおかしい。私だったら、本当に愛している相手のことはすぐに奴隷身分から解放して自由にしてあげます。閣下はどうお考えなのですか?」


 言い訳があるなら言ってみろ。そう主張するように、ヘルガは挑発的な顔を見せる。


 それに対してノエインは――作り笑顔を止め、真顔でため息をついた。


 貴族社会を十年以上生き抜き、いくつもの戦争を戦い抜いてきたノエインから見れば、このような世間知らずの小娘の鳴き声は怒るに値しない。それでも、あまり絡まれ続けるのも面倒だ。


 少しばかり虐めてやろうと、そう考えた。


「失礼ながら、ヘルガ殿下は大陸南部における獣人の現状をよくご理解されていないようですね」


「馬鹿にしないでくださる? 南部で獣人がどれだけ虐げられているか、私はよく学んで――」


「確かに、そうした現状について知識としてはよくご存知なのでしょう。ですが、大陸南部の社会というものにはとても疎いようだ」


 ヘルガの言葉を遮りながら、ノエインは彼女に冷めた視線を向ける。


「当時のアールクヴィスト士爵領と引き換えに生家を放逐され、このマチルダの所有権を得たとき、私は民の一人も持たない、貴族としてまともな資産や後ろ盾も持たない存在でした。私には最底辺の爵位以外には何もなかった。そのような状況で私がマチルダを解放して傍に置き続けたらどうなったか、想像できないのでしょう。お幸せな方だ」


 馬鹿にされていることは察しながらも、ノエインの語る真意を理解できないヘルガは黙り込む。


「マチルダは主人の愛を受け、解放されて自由を得る。なるほど確かに言葉の上では美談に聞こえますね。ではその後はどうなります? おとぎ話ではないのだから、めでたしめでたしと言って終わりではありません。私は愛するマチルダとずっと一緒にいたかった。彼女もそう思ってくれていた。二人で幸福になりたかった。そのために私たちはこの関係を選んだのです」


 そう言いながら、ノエインはヘルガの横を抜けてマチルダの隣に来る。マチルダはノエインに寄り添うように、腕が触れ合う距離まで近づいた。


「ロードベルク王国では獣人は差別を受けます。私一人が好むまいがそれは事実です。そんな社会で私が獣人を愛し、それを公言していたら。妻にしていたら。迫害は私にも及び、私は貴族として力をつけることもままならず、没落したでしょう。獣人でありながら貴族の妻となったマチルダはあらゆる嫌がらせを受け、場合によっては保守的な貴族から暗殺さえされていたかもしれませんね。貴族社会の品位を乱し、王国貴族を汚す存在として」


 実際は王国貴族にもごく僅かに獣人がいるが、それはミレオン聖教伝道会のような特殊な後ろ盾を持つか、類まれな功績を挙げて国に貢献し、国王から一代限りの名誉貴族に叙されるか、いずれも例外的なものだ。普通の領主貴族が獣人を妻にして平然と暮らせた例は、ノエインは知らない。


「奴隷はものと見なされます。確かに残酷な制度かもしれません。しかし、この制度を利用することでマチルダは私の傍に立ち続けることができました。獣人の妻を連れていれば私は異端と見なされますが、獣人の奴隷を伴っていれば単なる変わり者、酔狂人です。マチルダは貴族夫人になれば他貴族から敵と見なされますが、私の奴隷であれば、ひどく趣味の悪い持ち物で済みます」


 お気に入りの奴隷を常に伴うのは、言わば溺愛する愛玩動物をどこの場にも連れて来るようなものだ。度が過ぎれば呆れられ、嘲笑されるが、そうした嘲りを受けることを許容するかは当人の個人的な問題となる。


 所詮は他人の奴隷だ。悪趣味な所有物だ。たかが獣人奴隷に本気でむきになるのも馬鹿馬鹿しい。そんな保守的な貴族たちのプライドを逆手にとることで、ノエインとマチルダは常に一緒にいる自由を得てきた。


「幸いにも、私は奇人という評価を乗り越えて成り上がる程度の才は持ち合わせていました。ですが、異端と扱われながら生き残り、今の立場を得ることはできなかったでしょう。これを私の力不足と言われてしまえば、仰る通りと答えるしかありませんが」


 マチルダの手をそっと握りながら、ノエインは自嘲気味に笑った。


「私たちにはこうした事情がありました。抗い難い現実のなかで知恵を巡らせ、私なりに努力し、今があります。マチルダと離れることなく二人で支え合い、生き残り、今では彼女に名誉士爵位を与えることさえできました。同じ立場から人生を始めたとして、もっと上手く世を渡る方法があったのであれば、ご教授いただけると嬉しいですね」


 それはあからさまな皮肉で、そのことはヘルガにも伝わる。ヘルガの顔が羞恥に歪む。


「で、では、今もまだ彼女を奴隷身分に置いていることはどう説明するつもりですか? 大公国に奴隷制度を据え置いてることは? あなたは二年前、ロードベルク王国から独立して一国の君主になったのですよね? 誰からも口を出されない立場になっても、そうした問題を放置していることはどう言い訳できるの?」


「……んん~」


 ノエインは呆れと苦笑が入り混じった表情で唸り、ヘルガから顔を逸らして頭をかく。


 しばし考えて、またヘルガの方を向いた。


「ではお尋ねしますが、奴隷制度のないレーヴラント王国では、全ての臣民が自身の立場に満足し、何ひとつ不満を抱かず暮らしていると、あなたは王女として断言できますか?」


 まさか質問を返され、しかもそのようなことを問われるとは思ってもみなかった様子で、ヘルガは面食らった表情になる。


「あなたは『奴隷』という言葉についてこだわりをお持ちのようだ。私がマチルダの扱いを今までと全く変えずとも、奴隷身分から解放するだけで彼女が途端に幸福になるかのような物言いに聞こえます。我が国の奴隷身分の臣民たちについても、『奴隷』という言葉さえ使わなければ彼らが全てにおいて報われると思っておられるようですね。では、『奴隷』と名のつく立場の者がいないあなたの国の民は、皆が自分のあり方に満足して幸福を感じているはずだ。違いますか?」


 たたみかけられたヘルガは答えに詰まる。ヘルガとて、レーヴラント王国が完璧な国だとまでは思っていない。貧富の差も、小さなものだが種族間の壁もある。他国の君主の前で「あなたの国と違って、我が国の民は一人残らず幸福だ」と言い切るほどの自惚れ屋ではない。だからこそ黙り込む。


 その反応を見ながら、これが論点を逸らす詭弁であることは、ノエインも自身で理解していた。その上であえて詭弁でヘルガを黙らせた。


 マチルダが様々な経験や思考の末に、心理的な安心感を求めて今の身分を選んでいること。マチルダとクラーラの独特の協力関係。そうした事情をこのヘルガに語り聞かせるのは嫌だった。


 奴隷制度についても、据え置いている理由を説明しようと思えば語ることはできる。


 急な社会変革は痛みを、場合によっては流血を伴う。奴隷を所有する民の財産権や心情を安易に侵害すれば、様々な場面で対立や衝突が生まれ、国の秩序が乱れ、それは結局は民の損害になるだろう。


 今までは言われたことだけやっていれば良かった生まれながらの奴隷たちが、いきなり自由を言い渡され、読み書き計算もできないのに、仕事の工面も生活の自立も納税その他の手続きも全て自分でやるよう言われたらどうなるか。考えなしの奴隷解放は、かえって不幸になる者をも生むだろう。


 独立したばかりのアールクヴィスト大公国に、そんな混乱をもたらすわけにはいかない。


 そうした話をヘルガに長々と説明してやるのは面倒だった。


「……そもそも、あなたは友軍の将である私にそのような話をすることが何を意味するか理解していますか? 自分の政治的な正しさを主張するために、国の存亡を左右する現実の利益を排する覚悟がありますか? あなたは父君を、国の実益を考えて行動される理性的な君主だけを見て育ったのでしょう。ですが、世の中には感情で動く君主もいるのです。私がそういう人間だったらどうします?」


 そう言われて、ヘルガは露骨に怯えるような目を見せた。それに対して、ノエインはまたため息をつく。


「この程度で怖がるのであれば、そもそもあなたは言動を慎むべきだった。叱責だけで済ませてくださった父君の優しさに感謝をして、以降は大人しくするべきだった。明日の朝、私が今の話をあなたの父君に伝えて、内政干渉を受けて不愉快だから帰ると言い出したら、あなたはどう責任を取ります? 父君が私に『貴殿の望む通りに娘を処罰するから共に戦ってくれ』とでも仰ったら?」


 ノエインはわざとらしく悪辣な笑みを浮かべ、それを見たヘルガの顔が青ざめる。


「そういうところまで考えが及ばないようだから、あなたはお幸せだと言ったのですよ。今の会話はなかったことにしますが、次は国同士の問題になると思ってください……申し訳ないが私は疲れています。貴国に助力するために、半月かけてレスティオ山地を越えてきたばかりなので。今日のところはもう休んでいいでしょうか?」


「……っ、それは、失礼しました。い、今の話も、謝罪します」


 一応は詫びを示したつもりか、ヘルガはまるで中空に頭突きでもするかのように頭を下げると、踵を返して去っていった。


「まったく、若いし甘いね。付き合わされるこっちはたまったものじゃない。親じゃないんだから」


「まさしく仰る通りです、ノエイン様」


 ヘルガの姿が見えなくなってから、ノエインは小さな声で呟く。マチルダがいつもより感情を滲ませながら同意の言葉を返す。


 自分が賢しいと信じて、その賢しさを見せびらかしたい痛い年頃なのだろう。これが我が子ならノエインも丁寧に言い聞かせてやるが、彼女の教育はガブリエルの仕事だ。今日の会食の一件を経て、彼も王女の教育を考え直すことだろう。


 自分は小娘を言い負かすために来たのではない。義理人情で軍を動かしたのでもない。自国の都合でレーヴラント王国を生き永らえさせに来たのだ。


「部屋に戻ろうか、マチルダ……久しぶりにゆっくりできるね。今夜は甘えさせて」


 そう言いながらマチルダを振り返り、その手を取るノエインは、これから好きなものを独占しようとする子供のような無邪気な表情をしていた。


「……はい、喜んで」


 マチルダは女の顔で応え、ノエインに手を引かれて部屋に戻った。

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