第301話 嫌な噂
八月の下旬に入ったばかりのある日の正午。ノエインは屋敷の食堂で、家族と――マチルダ、クラーラ、エレオスと食卓についた。
確実に九月上旬に王都に着くために、ノエインとマチルダは明日にはアールクヴィスト領を発つ。そのためこの日は、家族で一緒に過ごす休日にしていた。
「はい、じゃあ皆、手を取って」
給仕のメイドが数人控える食堂で、テーブルの上座に座ったノエインは、右手をマチルダの左手と、左手をクラーラの右手と繋ぐ。さらにクラーラは左手を、隣に座るエレオスと繋ぐ。
そして、ノエインたちは目を閉じた。
「大空の父、そして大地の母たる神よ。あなたより賜りし今日の恵みに感謝します。家族と共に恵みを囲むこの時間に感謝します。これを糧とし、巡る世界の中を生きていけますように」
ノエインがミレオン聖教における食前の祈りの言葉を唱えると、マチルダとクラーラもそれを復唱する。エレオスはさすがに復唱まではできないが、それでも場の雰囲気を感じ取って静かにしていた。
「……それじゃあ、食べようか」
祈りを終え、ノエインたちはパンと肉とスープの昼食に手をつける。エレオスはまだ大人と同じものは食べられないので、彼の前には柔らかく煮込まれた肉と野菜入りの麦粥が置かれている。
ベトゥミア戦争を経て、ノエインは以前よりも少し信心深くなった。食前の祈りの習慣を作ったのもその影響だ。
ノエインは戦争の中であまりにも多くの死を目の当たりにし、あまりにも多くの人間を殺した。そして、危機の中で奇跡のような幸運を経験した。
願えば神が助けてくれるから大丈夫などと安易に思うわけではないが、命を削って限界まで頑張り、覚悟を見せたときには、人智を超えた何かが幸運がもたらしてくれるのかもしれない。人は歴史の中で、それこそを神と呼んできたのかもしれない。そう考えるようになった。
だからノエインは、今ここに自分を生かしてくれている奇跡に感謝を示す習慣を作った。
「……はあ」
「ノエイン様、大丈夫ですか?」
スープを口に運びながらうかない顔でため息をついたノエインに、マチルダが心配そうな表情で尋ねる。
「大丈夫だよ、ありがとう。ただ、またしばらく家で昼食をとれなくなると思うと、ちょっと気分が沈むなぁと思って」
「今回は一か月半ほどのご不在になるのでしたね。お帰りを待つ私たちも寂しいです」
そう言いながら、クラーラが隣の息子にも「ねえエレオス?」と同意を求めた。が、当のエレオスは麦粥を頬張るのに夢中だ。ようやく二歳の彼には、親たちの細かな事情はまだ理解できない。
「今年は半分以上は領地にいないことになっちゃうね。エレオスの成長を近くで見守れないのが辛いよ」
食欲旺盛で無邪気な我が子を見ながらノエインは苦笑した。
ようやく自我らしきものが芽生えてきたエレオスの中で、おそらく父親とは「いつも長く家を空けていて、帰ってきたら可愛がってくれるが、またすぐにどこかへ行ってしまう人」になっている。マチルダも同じような扱いだろう。
「今度こそ王国は安定の道に進むはずです。今回の王都訪問さえ終われば、当面はここでずっと一緒にいられますわ……と言ったら、また少し縁起が悪く聞こえてしまいますけど」
「あはは。確かに、これが物語なら『もう大丈夫なはず』は禁句だよね」
口を押さえたクラーラに、ノエインは苦笑する。
「ランセル王国との講和も正式に成立したんだ。復興途上の南部や東の国境地帯はともかく、少なくともアールクヴィスト領に関しては、これから平穏になるはず……明日から王都に行くのだって、ご褒美をもらって晩餐会でお喋りしてくるだけで、仕事自体は辛くないからね。旅行だと思えば気持ちも上向くかな」
「まあ、では私を置いて、マチルダさんと二人で王都旅行ということですか? 羨ましいです」
クラーラがおどけて頬を膨らませると、ノエインも、マチルダも小さく吹き出した。
「次に王都に出向くときには、エレオスももっと大きくなってるだろうからね。家族四人で王都に旅行しよう。そのときだけは領地運営はユーリたちに全部押しつけてさ」
冗談や軽口を交わし、和やかに笑い合い、家族の時間を楽しみながら昼食を食べ進めていると、食堂の扉が開いて家令のキンバリーが入室してくる。
それが目に入って初めて、ノエインはつい先ほどまで給仕を務めていた彼女が一度退室していたことに気づく。キンバリーはいつも、主君の邪魔にならないようにと影のように立ち回ってくれている。
「キンバリー、何かあったの?」
「お食事中に失礼いたします。先ほど従士バート様が領外よりお戻りになり、たった今お屋敷を訪ねられました」
「ああ、間に合ったんだね。よかった」
外務担当の従士であるバートは、今回はスキナー商会の商品輸送に同行して王国北西部の南側あたりを回り、市井に紛れての情報収集を行っていた。
ノエインの出発までにバートが帰還できるか微妙で、間に合わない場合は領主代行となるクラーラが情報を受け取ることになっていたが、魔導馬車の使用を許可していたこともあって早めに帰り着いたようだった。
「本日は執務はお休みとのことですが、どういたしましょうか?」
「報告だけならそんなに時間もかからないだろうから、昼食のあとに聞こうかな」
「かしこまりました。ではバート様にはしばらくお待ちいただきます」
キンバリーはそう答えて静かに一礼し、静かに食堂を出ていった。
・・・・・
昼食と食後のお茶を終えたノエインは、マチルダを伴って領主執務室に入り、バートと顔を合わせる。
そして、やや気になる報告を受け取った。
「妙な雰囲気?」
「はい。なんというか……アールクヴィスト家への隔意というか、警戒心というか。なかにははっきりと嫌悪感を持たれていると感じることもありました。一部の貴族領の、一部の者からですが」
そう言って、バートは今回の渉外任務での体験を語っていく。
例えば、街や村の中を歩いているとき、料理屋で食事をとっているときなどに、自分たちに視線を向けてぼそぼそと噂話をしている気配があった。
例えば、ある下級貴族領の村に宿泊し、宿屋がないので村内の空き地を借りようと領主家に挨拶に行った際に、受けた応対がそっけなく、「なるべく早く帰ってほしい」と思われているように感じられた。
極端な例だと、アールクヴィスト家に仕える従士だと知られた途端に露骨に顔色を変えられることもあった。
「見た目がいかにも軍人らしい俺や部下たちは大丈夫でしたが、スキナー商会の商会員が一人で歩いていたときには、難癖をつけて絡んでくるような奴もいたらしいです。それを近くで見ていた他の領民が仲裁に入ってくれたそうなので、そのときは大事には至りませんでしたが……」
「……ベトゥミア戦争で目立ち過ぎた弊害が出てきたのかな」
ノエインは強張った笑みを浮かべながら呟いた。
「戦争に関連した噂が流れているのは間違いないと思います。商会員が絡まれたときも、相手は『悪魔の領地から来た奴か』なんて言っていたらしいので」
「あはは、悪魔の領地か。また凄い言葉が出てきたね」
ノエインが『天使の蜜』を使った策を提示したとき、悪魔の発想だと保守派の貴族たちから凄まじい非難を受けたことは従士たちにも伝えられている。笑い話として。
「僕について悪い噂を流してるのも、僕のやり方が気に入らなかった貴族たちなんだろうけど……世の中は面白いね。『救国の英雄』なんて言われながら、同時に悪魔扱いもされるなんて」
「……ノエイン様は、お怒りにはならないんですか?」
バートは少し意外そうに尋ねた。
「バートは怒ってるの?」
「もちろんです。敬愛する主君がそんな言われ方をされて、怒りを感じない従士はいませんよ。噂をしている者たちだって、ノエイン様の戦略があったおかげで命が無事だったのに」
普段は端正な顔立ちに似合う柔和な笑みを浮かべていることの多いバートが、珍しく憤慨した表情を見せる。
「そう言ってもらえるのは領主冥利に尽きるよ……だけどまあ、世の中そんなものかな、とも思う。僕が子どもの頃に読んだ書物の中でも、英雄なんて平時は厄介者扱いが常だったし」
危機的状況を逆転させられる者は、すなわちそれほど異常な思考回路や歪な力を持つ者だ。そういう者は平時は扱いづらい存在となり、孤独に生きるか、酷い場合は排除される。歴史書にも、物語本にも、そうした英雄の悲しい人生の描写はあった。
「貴族も皆が皆、理性でものを考えてるわけじゃないからね。特に下級貴族には保守的な思考の人間が多いって聞くし。上級貴族も……今も僕と仲良くお喋りしてくれるのは、半数以上はいると思いたいけど、僕を嫌いな人もそこそこ多いんじゃないかな」
数年にわたって派閥の仲間として過ごした北西部閥の上級貴族にさえ、ノエインの発想に嫌悪を隠さない者たちは何人もいた。そういう者たちは戦争では中央主力に配属され、そのおかげでノエインは西部軍を大過なくまとめることができたが。
おそらく戦後になっても彼らの考えや態度は変わらない。むしろ今までは「国と領地を守るために仕方ない」と堪えていた部分がなくなって、さらに遠慮なくノエインを異端視するだろう。
「……なんというか、やるせないですね」
「あはは、確かにね。だけど領外の人たちについてはどうしようもない。僕の幸福の本質は領内にある。家族や部下や民の愛を守れるなら僕はとりあえずそれでいい……君みたいに、僕のために怒ってくれる忠臣もいるから大丈夫だよ」
ノエインが微笑むと、バートは少し照れたような苦笑いで返した。
「とはいえ、君たちみたいな外務担当の部下や、スキナー商会の人たちが嫌な目に遭うのは問題だね。明日には王都に出発して、国王陛下と直接話す機会もある。陛下からいただく戦争の褒賞によっては状況が改善されるだろうし、場合によっては僕から陛下に口添えをお願いするよ」
そこで、ノエインは不敵な笑みを浮かべた。
「王家は僕のことを『救国の英雄』だなんて公言してくれたんだ。アールクヴィスト家の関係者や御用商会を快く思わない人たちの内心までは変えられなくても、表立って絡まないよう各貴族領に釘を刺すことくらいはしてもらえると思うよ」
「王家に直接の口添えを要求ですか……俺がこんなことを言うのも変ですけど、ノエイン様も随分と出世なされましたね」
バートは息を吐きながらしみじみと言った。まだテントと畑しかなかったアールクヴィスト領に最初に移住してきた五人のうちの一人である彼には、感慨深く思うところがあるようだった。
「そうだねえ。テント暮らしの名ばかり士爵だったのに、今じゃ国王陛下と直接話す立場なんて、ときどき自分でも驚くよ……まあ、幸福を守るためには権力があるのは都合がいいからね。悪目立ちするのは苦手だけど、出世自体は悪いことじゃないかな」
ベトゥミア戦争の褒賞も、得体は知れないが、自身の立場向上に繋がる何かではあるだろうとノエインは予想している。
それが具体的に何なのかを知るためにも、明日、王都に向けて出発するのだ。
★★★★★★★
本編がついに300話を越えました。
ノエインたちと一緒にここまで歩んでくださり、本当にありがとうございます。
これからも彼らの人生を見守っていただけると嬉しいです。どうぞよろしくお願いいたします。
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