第297話 ジュリアンの覚悟
六月も終わりに近づいたある日の午後。ノエインはジュリアン・キヴィレフトとエルンスト・アレッサンドリ士爵を屋敷へと呼び出した。
およそ半年前、いきなりアールクヴィスト領へと逃げ込んできた彼らと面会したときのように、応接室で二人と対峙する。
「……王家から、今後のキヴィレフト伯爵家の処遇について『遠話』で指示が届いた」
「は、はい」
ノエインが切り出すと、ジュリアンは顔を青くしながらも頷いた。その後ろに立つエルンストは、無言と無表情を保ち、従者としての立場を崩さない。
そんな彼らの様子を見ながら、ノエインは小さく嘆息すると、話を続ける。
「キヴィレフト伯爵家も、その領地も、現状のまま維持される。ジュリアン、君はラーデンに帰り、亡き父上の跡を正式に継いで、伯爵家当主になる」
「……へ?」
ノエインの言葉が予想外だったのか、ジュリアンは呆けた顔になった。
「王家が何故このような判断を下したか、君には理解できる?」
「い、いえ……どうしてでしょうか」
「分からないか。ではアレッサンドリ卿はいかがです?」
「……言葉を選ばずに申し上げると、王家の体面を保ち、戦前のような貴族社会を維持するための政治的な判断、ということになりますでしょうか」
困惑した様子で首を横に振ったジュリアンとは違い、エルンストは淡々とした口調で考えを語った。
「ええ、私もそうだと思います……ジュリアン、つまりこういうことだ」
キヴィレフト伯爵家は王国で最大の港湾都市を領都としながらも、港の防衛については大きな予算を割いてこなかった。
交易を行っている近隣諸国には大規模な海上戦力を保有する国などなく、ベトゥミア共和国に関しては、今まで長年にわたって友好的な関係を維持していた。王国が海から攻められるわけがない、と伯爵家は油断していた。
それはロードベルク王家も同じだった。建国以来、王国は大規模な海戦の経験もなければ、海から大戦力をもって攻めてくるような国と敵対したこともなかった。その歴史が油断を生み、今回ベトゥミア共和国の奇襲上陸を許すこととなった。
敵の上陸を防げなかったことでキヴィレフト伯爵家を責め、無能な貴族として罰するのであれば、同じ理由で王家が責められても文句を言えなくなる。
さらに、「ベトゥミアの侵攻を押さえきれなかった」ことを罪とするのならば、その責任はベトゥミア戦争の前半で敵の手に堕ちた貴族領の領主全員にあることになってしまう。そんな理屈を許せば、誰がどこまで責を負うかで北部と南部、中央部の貴族たちが争い始め、貴族社会の秩序が崩壊する。
地方貴族閥のバランスが極端に崩れている今、政治的・社会的な分断が起こるのを防ぐためにも、王家としてはそんな混乱を防がなければならない。だからこそ、キヴィレフト伯爵家をはじめとした南部貴族たちの責任を問うわけにはいかない。
こうした「大人の事情」が絡み合った結果、キヴィレフト伯爵家の爵位や領地はそのまま安堵されることとなった。
「というわけだけど、この説明で理解できた?」
「は、はい。そういうことだったんですか……」
ジュリアンが一応は納得した様子になったので、ノエインはさらに話を続ける。
「だけど、これを額面通りに受け取ったら駄目だ。王国にとって要所であるキヴィレフト伯爵領は、王家としては真っ先に立て直したい場所のひとつだろう。とても優秀には見えない次期キヴィレフト伯爵に、その仕事を一任しようとは思わないはずだ」
ノエインが厳しい目を向けながら容赦のない言葉を選ぶと、ジュリアンは緊張した面持ちで唾を飲んだ。
王国がラーデンの港で交易を行っていたのはベトゥミア共和国だけではない。再び友好関係を結んだランセル王国も、そのさらに西の国や、パラス皇国のさらに東の国も、アドレオン大陸の南側に点在する小さな島国も、商売のためにラーデンを訪れてきた。
港が立て直されれば、王国の経済的な復興も早まる。できることならあれこれ口を出してラーデンの復興を急がせたいのが王家の本音のはずだった。
「王家は支援のためと言いながら、キヴィレフト伯爵領の復興に介入してくるだろう。王国軍を駐留させたり、官僚を送ってきたりしてね。もちろんその助けについてはありがたく受けるべきだと思う。だけど、その軍や官僚は君を監視するためのものでもあると思わないといけない。君が大きな失敗をしたときに、今度こそそれを理由に君から領地と爵位を取り上げるためのね」
「……つ、つまり、王家は僕がぼろを出すのを狙っていると?」
「そこまで思ってるかは分からない。多分だけど、君が問題なく領地を運営していけると分かったら、王家も強行的な手段に出たりはしないんじゃないかな。マクシミリアン・キヴィレフト伯爵は、最後まで逃げずに戦ったことで最低限の義務を果たした。その息子に家と領地を保つための機会を一度くらいは与えると思う。全ては君次第だ。だから……」
そう言いながら、ノエインはテーブルに身を乗り出し、ジュリアンの服の襟を引っ張って自分のもとに引き寄せた。
ジュリアンは「ひっ」と息を呑んでエルンストの方に視線をやるが、エルンストは動かず、何も言わなかった。
「ジュリアン、僕を見るんだ」
そう命令するノエインの声には、静かな迫力があった。ジュリアンは逆らえず、怯えた表情でノエインと目を合わせる。
「いいか? 僕は今初めて、兄として君を激励する。ジュリアン、頑張れ。これから君は頑張らないといけない。君が頑張らなければ、頑張って結果を示せなければ、君は今の立場と力を失う」
慈愛と憎しみが混ざり合ったような複雑な表情で、ノエインはジュリアンに語りかける。
「君は僕とは違う。あの父上の愛も、爵位も、領地も、全てを与えられた。そして君個人にも今は守るべきものがある。妻と、君の血を継いだ息子だ。それら全てを守るために頑張るんだ。それ以外の選択肢は君にはない。頭を、力を、そして人を使うんだ。全てを使って頑張れ。今ここで誓うんだ」
「……ち、誓います。頑張って、家族も、父上から受け継いだものも、全てを守ります。僕は、今ここで誓います!」
震えながら、目に涙を浮かべながら、それでもジュリアンはノエインから目を逸らすことなく言い切った。
ノエインはジュリアンの襟から手を離し、自分の側のソファにどかりと座る。解放されたジュリアンもやや放心した表情で、後ろに倒れ込むように座った。
「よく言ったジュリアン。まあ口だけなら何とでも言えるからまだ分からないけど……とりあえず今はいいだろう。マチルダ」
「はい」
ノエインが声をかけると、その後ろに控えていたマチルダが、手に持っていた袋をテーブルに置く。
「ジュリアン、中身を確認するんだ」
袋を指しながらノエインが言うと、ジュリアンはおそるおそるといった様子でそれに手を伸ばし、中を覗き込み、そこにあった大量の金貨を見て目を丸くした。
「こ、これは?」
「百万レブロある。君から受け取った宿代の釣りだ。持っていくといい」
最初にこの地に来たとき、ジュリアンは保護の対価として二千万レブロの有り金をノエインに「差し上げる」と明言した。その時点で、その金はノエインのものとなった。
しかし、ノエインはそのうち百万レブロをジュリアンに返すことにした。さらにそれを「宿代の釣り」と明言することで、今回の保護についてすでに貸しはないと示した。
「ほ、本当にいいんですか? こんな大金……」
「あはは、大金だと思う?」
ジュリアンの呟きを聞いて、ノエインは皮肉な笑みを浮かべた。
「分かってると思うけど、それは君が遊ぶためのお金じゃない。領主貴族としての当座の活動資金だ。復興のために王家の支援を受けられるとはいえ、君がすぐに使える資金はひとまずその百万レブロだけになるだろう……僕は三十万レブロを手にアールクヴィスト領の開拓を始めた。小さな村ひとつを作り上げる頃にはそれを使い切ってた。そう聞けば、その資金がいかに限られたものか分かるはずだ」
また少し不安そうな表情になったジュリアンを前に――ノエインは皮肉な笑みを穏やかな微笑みへと変えた。
「ジュリアン。半分とはいえ、君は僕と同じ血が流れる弟だ。だけど、それだけだ。ただ父を同じくするだけの男を、僕はまだ心から兄弟として愛することはできない。僕に君を認めさせてほしい。尊敬させてほしい。そのために結果を示してほしい。君の頑張りが実を結ぶことを祈ってる。祈ることしかできないけどね」
「……はい、感謝します。兄上」
そう答えて、ジュリアンはノエインの反応をうかがうようなそぶりを見せた。
ノエインは「兄上」と呼ばれたことに怒らなかった。
・・・・・
「……エルンスト」
アールクヴィスト子爵家の屋敷から滞在先の家へと帰りながら、ジュリアンが口を開く。
「どうされましたか、閣下?」
「き、君はきっと、僕のことを頼りないと思ってるだろう。僕みたいな奴に、キヴィレフト伯爵家の当主が務まるわけがないと」
その言葉に、エルンストは何と答えるか迷った。嘘でもそんなことはないと言って励ますべきか、本心を伝えて今の現実を学んでもらうべきか考えた。
「いいんだ、分かってる。僕も、自分が情けないと思ってるから……」
エルンストが答える前に、ジュリアンは自嘲気味に笑いながら続けた。
「父上も母上も僕に優しかった。だけど、間違ってるところもあった。僕は頭がよくない。度胸もないし、武芸にも秀でてない。高貴な血筋だからといって、それだけで優れた人間になれるなんてことはなかった……ボロボロになったキヴィレフト伯爵領の復興なんて大仕事を、僕が上手く指揮していけるとは思わない」
「……ですが」
「うん、それでもやるしかないんだ。方法を探すしかないんだ……だから、」
ジュリアンは立ち止まり、エルンストの方を振り返った。その目には、エルンストが今まで彼に見出したことのない、強い決意の炎が灯っているように見えた。
「ぼ、僕は人を集める。僕には頭も力もないけど、名家の当主としての立場がある。だから、僕より頭がいい人を、僕より力が強い人を雇い入れて、僕が後ろ盾として支えながら働いてもらうんだ……僕は、し、正直、人を見る目があるとも思わない。だから、優秀な人材を見極めて、僕の下に集めるのを君にも手伝ってほしい。僕を助けてほしい」
エルンストは内心で少し驚く。それはジュリアンが自ら考えたにしては、相当な妙案と言ってよかった。現実的で、かつ効果も見込める。
そして、エルンストは彼の言葉に頷いた。
「かしこまりました。このエルンスト・アレッサンドリ、閣下より賜りし務めに、身命を賭して取り組みましょう」
ジュリアンは身のほどをわきまえた。余計なプライドを捨て、自分の限界を正しく見極めた。それを補い、乗り越える方法も自ら考えた。逆に、自分には何があるのかも理解している。ならば、彼であってもキヴィレフト伯爵領を立て直せるかもしれない。
ベトゥミア戦争が始まってから、もはや未来など見出せなくなっていたエルンストは、今初めて希望を見た。その希望を与えてくれたのは、意外にも、今まで頼りないとしか思っていなかった目の前の青年だった。
「あ、ありがとう……それじゃあ、戻ったら領地に帰る準備を始めないと。できるだけ早く帰らないと」
「ええ、そうしましょう。領地と民があなたを待っています」
前に向き直って小走りになるジュリアンを、エルンストも歩みを速めて追う。
それから数日後、ジュリアン・キヴィレフトとその家族、従者たちはアールクヴィスト領から旅立っていった。
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