第十二章 新たな始まり
第294話 傷痕
王歴二一九年の六月中旬。
ノエインがアールクヴィスト領に帰還して一週間が経ったこの日、領都ノエイナの広場で、ベトゥミア戦争での戦死者の葬儀が領を挙げて執り行われることとなった。
アールクヴィスト領から出征した二五〇人のうち、死者は二十四人。負傷者はその倍ほど。ロードベルク王国西部軍の半数以上が死亡または負傷したことを考えれば、アールクヴィスト領軍に限っては被害は少なく済んだと言えるだろう。
しかし、この数字の裏にあるのは民の命だ。アールクヴィスト領に暮らす人々の家族であり、隣人であり、友人や同僚であった者たちの命だ。この戦争で、誰もが見知った誰かを失った。
彼らの犠牲の上にアールクヴィスト領は守られた。であれば、彼らは英雄として見送られるべきだ。ノエインはそう考えて、この葬儀の場を作った。
広場には壇が設置され、その上には戦死者たちの遺体の一部が――人間の魂の欠片が宿るとされている、左手薬指を収めた小箱が並んでいる。
戦場では全ての遺体を故郷まで運ぶことはできないので、家族のもとに帰ってきたのはこの指と、形見となる髪の一房だけだ。
棺代わりの小箱はそのひとつひとつが魔道具となっており、精緻な聖印が魔法塗料で刻まれ。それが淡い光を放っていた。
「――そして、彼らはこの現世における役目を終え、大空の父、そして大地の母たる神の御許へと帰る。巡る世界の中に立ち、個としての日々を生きた彼らは、再び巡る世界の一部となりて輪廻の輪に加わり、長いときを経て――」
そして壇上では、ハセル司祭が死者を送るための聖句を静かに唱えていく。
壇を囲み、ノエインたち領主家の人間も、従士や使用人たちも、戦友を失った兵士も、家族や知人を失った領民たちも、静かにそれを見届ける。
ノエインはローブを羽織った軍装で、外せる装飾品は全て外している。マチルダも同じく軍服から装飾を取り払い、クラーラは黒一色のドレスに身を包んでいた。エレオスも何着かある子供服の中から黒いものを着込んでいる。
従士のうち軍人たちは軍装で、文官たちは各自が持つ式典用の服装だ。領民たちは必ずしも礼装を持っているわけではないので、普段着の者も多い。それで礼儀上は問題ない。
やがてハセル司祭が聖句を唱え終わり、静かに壇から降りる。次に壇に上がったのは領主であるノエインだ。
壇の真ん中、拡声の魔道具が設置された前に立ち、領民たちを見下ろす。
少し間を置いて、口を開いた。
「私は………………私は悲しい。今日ここで彼らを送ることが、彼らと別れることが、もう彼らと共にいられないことが悲しい。コアンと、ロッダーと、リアムと――」
ノエインは戦死者たち一人ひとりの名前を、メモなどを何も見ずに口にする。領主のその行動に、何人かの戦死者の伴侶が、子が、親が、兄弟が感極まり、声を上げて泣き出した。
「――ヨライと、バリーと。これが彼ら二十四人との永遠の別れになると思うと、胸が張り裂けそうなほどに悲しい……だからこそ私は、顔を上げ、声を震わせることなく彼らの旅立ちを見送りたい」
広場には領民が収まりきらず、通りまで人で溢れている。その全員が声を発することもなく、領都ノエイナにはノエインの言葉と、時おり流れる風の音だけが響く。
「彼らは英雄だ。彼ら一人ひとりが英雄だ。彼らはその命を賭して、このアールクヴィスト領を侵略者の手から守り抜いて見せた。私は忘れない。私たちは忘れてはならない。彼らの犠牲の上に、彼らの最大の献身の上に、この地の平和があることを」
そこでノエインはまた少し間を置き、言葉を続けた。
「私は愛する民を失った。そして君たちは家族を、隣人を、友人を失った。私の心の中には、領主として彼らとともに歩んだという記憶が永久に残り続ける。そして私は願っている。君たちの心の中に、彼らとの幸福な日々の思い出が永久に残り続けることを」
その後も葬儀は厳かに進み、アールクヴィスト領に暮らす全員が、戦死者たちの旅立ちを見送った。
・・・・・
アールクヴィスト領に帰還し、戦死者たちを見送る葬儀も終えた数日後。ノエインは少しずつ穏やかな日常に戻っていた。
緊張に包まれた戦いの日々の中に何か月も身を置き、体は疲れ果てて心はすり減った。ようやく取り戻した平和の日々の中で、ノエインはそんな体と心を少しずつ回復させている。
これからやるべきことは多いが、まだ一分一秒を惜しんで働かなければいけないほどではない。むしろ、王家からあれこれと指示が来る前にできるだけ休んで回復しなければならない。
そのためノエインは、朝は遅く起き、夜は早めに執務を切り上げ、日中の働きも書類仕事をのんびりとこなす程度に抑えている。
そんなある日の朝。
「~~っ!」
肩を揺さぶられたノエインは、声にならない声を上げながら飛び起きた。
顔は青く、体は汗でびっしょりだ。荒い息をしながら周囲を見回し、自分が屋敷の寝室にいることに気づく。
そして左を向いてクラーラが、右を向いてマチルダがいることを確認すると、ようやくほっと息を吐いてまたベッドに倒れ込んだ。
窓の外を見ると、空はようやく白んできた頃だった。
「ひどくうなされていました。起こしてさし上げた方がいいかと思ったので……」
「……もう大丈夫だよ。ありがとうクラーラ。助かった」
心配そうな表情で頬を撫でてくるクラーラに、ノエインは笑顔を作って答える。
「ノエイン様、お水を……ずいぶんと汗をかかれたようなので」
「うん、ありがとうマチルダ」
マチルダがベッドの脇のテーブルから水差しをとり、コップに水を注いでノエインの口元に運ぶ。ノエインは少し上体を起こし、乾いた喉を潤した。
「また、悪い夢を見たのですか?」
「……うん」
少し前から、ノエインは時おり悪夢に襲われている。
戦争の最中は毎日夢すら見ることなく泥のように眠っていたが、ベトゥミア共和国軍が去り、戦争が完全に終わってから悪夢が始まった。おそらくは緊張の糸が切れたのだろうと、ノエインは自身で考えている。
今日夢に見たのは、あの隘路の戦闘で西部軍が健闘及ばず敗北し、自分たちが死ぬ様。そしてアールクヴィスト領までもがベトゥミア共和国軍の蹂躙を受け、民や臣下、家族が死ぬ様だ。
夢とはいえあまりにも生々しいその光景は、今思い出しただけでも恐ろしくて涙が出てくる。
「……あなた」
「ノエイン様」
そんなノエインの様子を見た二人は、両側からノエインの腕を抱くように寄り添った。
「自分ではずっと平気なつもりだったし、もう戦争も終わって安心してるつもりなんだけど、心のどこかでは色々抱えちゃってるんだろうね……まあ、時間が解決してくれると思うけど」
そう言って、ノエインは少し無理に笑った。
「今はもう大丈夫です。私たちがずっとお傍にいます。これからもずっと」
「ノエイン様のお心を安らかにするためなら、私たちは何でもします。ノエイン様が望むままに」
クラーラとマチルダは言いながら、ノエインの頬に、額に、首に、何度も何度も口づけをする。
それは少しくすぐったく、そしてひどく心地よかった。自分は守るべきものを守りきり、帰るべき場所に帰ることができたのだと、自分は死ななかったのだと実感させてくれる。
「……あの、あなた。まだ早朝なので、時間には余裕があります。なので……」
「……ノエイン様を癒してさし上げるお許しを私たちにください」
不意に口づけが止まり、二人がノエインの耳元に顔を寄せて言った。
ちなみに、昨夜も当然のように愛し合ってから眠りについたので、ノエインたちは三人とも一糸まとわぬ姿だ。そして、クラーラもマチルダも今はノエインに体を密着させている。
そんな状態で愛する女性たちに囁かれれば、健全な成年男子の体は自然と健全な反応を示すものだ。
「……でも、僕すごく汗かいちゃってるし」
「構いません。あなたの汗は好きです」
「私たちはノエイン様の全てが愛しいのです。ノエイン様の体から出たものなら、汗でもそれ以外のものでも、何もかもが」
吐息とともに耳にかかる二人の言葉は、思わずぞくっとするほど甘美だった。
「………………じゃあ、癒してもらおうかな」
ノエインが答えると、マチルダはこれ以上ないほど優しい表情を浮かべながらノエインの顔を自分の胸に抱き、クラーラは妖艶な笑みを浮かべて唇を舐めながらノエインの腰に顔を寄せた。
その日、ノエインが執務を開始したのは昼前になってからだった。
★★★★★★★
作者Twitterにて、ロードベルク王国の北西部あたりの簡単な地図を投稿しました。
ほんとに位置関係の把握程度のものですが、よければご覧ください……作者名「エノキスルメ」や作品名で検索すると出てきます。
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