第272話 植え付ける疑念

 アントン・シュヴァロフ伯爵は、ロードベルク王国の北西部閥でベヒトルスハイム侯爵とマルツェル伯爵に続き、三番手に位置する大貴族だ。


 その領地は王国北西部の南東端に位置し、王国中央部や南西部との境界と接する。北西部と中央部、北西部と南西部を繋ぐ流通の要所であることから、商業によって発展を遂げ、豊かさを誇ってきた。


 そして現在のシュヴァロフ伯爵領は、敵が王国中央部を抜けて北西部に侵入するのを防ぐ役割を担っている。


 王国中央部における敵の侵攻は王都リヒトハーゲンの周辺まで達しているため、敵はそこから小規模の部隊を王国北部に浸透させることを試みていた。ロードベルク王国側も小部隊を南部に浸透させて遊撃戦を行っており、考えることはどちらの国も同じのようだった。


 シュヴァロフ伯爵は既に老人と言っていい年齢だ。王都奪還のための中央軍へは嫡男に領軍や徴募兵を預けて送り込み、自身は領地に留まって敵の小部隊の侵攻を防いでいる。


 関所破りを試みる商人との攻防を日常的にくり広げている身からすれば、たとえ相手が訓練された遊撃部隊であろうと、街道を外れて森や山から北西部に入ってくるのを防ぐのはそう難しいことではない。


「シュヴァロフ閣下。こちらが、今回発見して捕らえたベトゥミア共和国軍の部隊であります」


「ご苦労だった小隊長。数は……十人ほどか」


 王国中央部の貴族領との領境に近い山の麓へとやって来たシュヴァロフ伯爵は、馬車を降りながら領軍兵士に答える。


 またもや中央部から北西部への侵入を試みる敵部隊が発見され、領地防衛のために残っていた領軍部隊がその全員を捕獲したと報告を受けたため、シュヴァロフ伯爵は領主自ら現場を訪れていた。


 伯爵領の領都から戦闘の現場までは、馬車で半日ほど。『天使の蜜』を食らったベトゥミア兵たちも、シュヴァロフ伯爵がたどり着いたときには既に体の痺れは解けている。


「ご指示通り、捕らえたベトゥミア兵には手厚い治療を施し、食事を振る舞っています」


「よろしい……では、彼らと話すとしようか」


 シュヴァロフ伯爵は護衛の領軍親衛隊を引き連れ、領軍兵士によって振る舞われたパンやチーズ、干し肉、スープを食べるベトゥミア兵たちに近づく。


 手が不自由になった者は、立てた膝の間にパンを挟んでそこへ口を寄せる。顔に麻痺が残ってしまった者は、スープの汁のみを口に流し込む。体の二か所以上に麻痺が残った者は、他の者に食べさせてもらう。そんな食事風景をくり広げていたベトゥミア兵たちは、明らかに身分の高い人物が歩いてきたことで食事の手を止め、そちらへ向き直った。


「私はこの地を収めるシュヴァロフ伯爵家当主、アントン・シュヴァロフ伯爵である」


「……私がこの隊の隊長です」


 両足に麻痺が残ったらしいベトゥミア兵が、座ったまま右手を額の前で斜めに掲げるベトゥミア式の敬礼を見せる。


「そうか。食事は楽しんでおるかな?」


「は、はい……あの、なぜ敵である我々にこのような振る舞いを? 傷の治療までしていただけるなんて……我々はあなた方から見れば侵略者でしょうに」


 困惑した様子の隊長に、シュヴァロフ伯爵は好々爺のような表情を浮かべた。


「我々は王国貴族としての誇りを持っておるからな。敵だからといって、戦う意思も力も失った者を殺めるようなことはせん」


「……感謝いたします」


 隊長が言うと、他のベトゥミア兵たちもそれぞれ頭を下げた。


「ところで、お前たちの体の麻痺はこの先も長く残る。今後の人生で不便も多かろうが、これはお前たちを殺さずに帰すための措置なので我慢してくれ……そして、ベトゥミア共和国軍の本隊へ帰るときはくれぐれも注意しろ。お前たちの友軍にな」


「は? 友軍に、ですか?」


「そうだ……これはこちらの偵察隊の報告でもたらされた情報なのだが、一部のベトゥミア共和国軍部隊が、体に麻痺が残ったベトゥミア兵を秘密裏に殺しているようなのだ」


「なっ!? そ、そんな……」


 味方が味方を殺していると聞いて驚愕する隊長に、シュヴァロフ伯爵は気の毒そうな表情を向ける。


「おそらくは、負傷兵の世話をしながら後方や本国へと運ぶ負担を減らすために、そうした非道な行いに走っているのだろう。一部の将官の独断か、もっと上の命令かは知らんが……お前たちからすれば大事であろう」


 言いながら、シュヴァロフ伯爵は傍らの部下に手で合図する。すると、二頭立ての古い荷馬車が運ばれてくる。


「この荷馬車を使って帰るといい。お主は両手が使えるようだから、手綱を握れるだろう」


「そんな、本当にここまでしていただいてよろしいのですか?」


「構わんさ。お前たちとて好き好んでこの地に来たわけではないはずだ。将官や政治家たちの都合で異国に送られ、不自由な体を抱えて帰る。用済みとして消される恐怖に怯えながら……まことに気の毒な話だ。これは誇り高き王国貴族として、私がお前たちに与えられるせめてもの慈悲だ」


 相変わらず好々爺のような表情で言うシュヴァロフ伯爵に、隊長は目を涙で潤ませながら頭を下げた。


「生きて本国に帰りたいのなら、大きな部隊に合流するまで他の小部隊と遭遇せぬように気をつけるといい。どれが負傷者を抹殺している部隊か分からんからな。大部隊であれば多くの兵士の目があるから、ベトゥミアの将官たちも表立って負傷者を殺すようなことはしまい」


「はっ、そのようにいたします。何から何までお慈悲をいただき、何とお礼を申し上げればいいか……」


「よい。気をつけて行きなさい。この馬車は農村から盗んだとでも言えばいいだろう……それではな」


 シュヴァロフ伯爵はベトゥミア兵たちが荷馬車に乗るのを領軍兵士たちにも手伝わせ、隊長を御者台に座らせて手綱を握らせ、彼らが去っていくのを見送る。


「……閣下、ベトゥミア共和国軍の上層部が負傷兵を殺しているというのは本当ですか? それをベトゥミア兵の間に広めさせるために、閣下ご自身がここまで来て敵兵と話を?」


 領軍の小隊長に尋ねられて、シュヴァロフ伯爵は正面を向いたまま穏やかな声で答える。


「いや、出まかせだ。ベトゥミア共和国軍も徒に死者を増やして国民の反感を買いたくないはず。いくらなんでも負傷者を殺すような真似はせんだろう……だが、あのベトゥミア兵たちは信じただろうな」


 驚いて目を見開く小隊長を横目に、シュヴァロフ伯爵は話を続ける。


「彼らにとっては敵国の貴族が語っただけの話でしかない。証拠もない。だが人は自分が信じたい話を信じるものだ。自分たちが祖国に利用され、利用価値がなくなったら殺されるとあのベトゥミア兵たちが思い込めば、これほど我々に都合のいいこともなかろうて。それを他のベトゥミア兵にも広めてくれれば尚更だ」


 王国中央部へと繋がる街道を目指して走り、小さくなっていく荷馬車を眺めながらシュヴァロフ伯爵は目を細めた。


「彼らが無事に本隊と合流できることを願おう。そうすれば私の施しも報われるというものだ」


 それは事情を知らない者が傍から見れば、ただ老人が怪我人たちの身を案じているだけの優しい光景だった。

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