第十章 混乱と動乱

第218話 寒波と大雪

「おはようございます、旦那様、奥様。お目覚めください」


 王歴218年の一月中旬、ある日の早朝。領主の寝室に、家令であるキンバリーの声が響く。


「……おはよう、キンバリー」


「……おはようございます、キンバリーさん」


 朝があまり強くないノエインはまだ半分眠ったような声で返事をし、体はまだベッドの上で寝転がって目をこすっている。一方のクラーラは、それなりにはっきりとした声でキンバリーに挨拶を返しながら体を起こす。


 つい先ほどまで同じベッドでマチルダも寝ていたが、彼女はキンバリーが入室した際の僅かな物音で目覚めてベッドを抜け出し、キンバリーがノエインたちを起こす前には、今日の仕事着であるシャツとズボンをきっちりと身につけていた。


 間もなくノエインもベッドから起き上がり、キンバリーが入室時に持ってきた桶から水をすくって顔を洗う。


「おはよう、マチルダ」


「おはようございます、ノエイン様」


 ベッドから立ち上がり、マチルダと軽いキスを交わす。


 そして、ノエインの着替えをマチルダが手伝う。というより、ノエインは寝起きでまだ頭がぼーっとしているので、ただ突っ立っているだけでほとんど全部マチルダに着替えさせてもらう。


 ベッドの反対側ではクラーラの着替えをキンバリーが手伝い、さらに彼女の髪を梳いて整えたり、彼女の顔に薄く化粧を施したりと、領主夫人の朝の支度を家令としてサポートしていく。


 領主夫婦の平日の朝は、おおよそ毎日こうして始まる。ちなみに、エレオスは専用の子ども部屋におり、夜の間も深夜当番の使用人が様子を見てくれているので問題ない。


「……今日も大雪か」


 着替えを終え、寝室の窓から外の景色を確認したノエインは、暗い声で呟いた。


「年明けから雪の日ばかりですね……」


 まだキンバリーに手伝われて朝の支度中のクラーラが、深刻そうな表情でノエインに返事をする。


 王歴218年は、年明けから異常な寒波と降雪が続いていた。極寒と呼ぶべき日が途切れず、雪の降らない日の方が少ない。今も、数日連続の大雪によって膝まで埋まるほどの積雪が見られている。


 その影響は領民たちの仕事や生活にも影響を与えており、その悪影響を減らそうと、ノエインは領軍を動員して領都ノエイナ内の雪を定期的に市壁の外へかき出していた。さらに、鉱山村キルデやアスピダ要塞、開拓村と繋がる道の除雪作業も行っているが、レトヴィクと繋がる街道の除雪は今のところ諦められている。


 雪を取り除いてもまたすぐに雪が降るので、領内の都市と村、要塞の行き来を途切れさせないことでせいいっぱいだった。領外への道の除雪まではとても手が回らない。


 もっとも、コンラートの『遠話』で連絡をとったところケーニッツ子爵領側も状況は同じらしい……というよりこの冬は王国のどこも同じ状態らしいので、街道のアールクヴィスト領側だけ除雪しても無意味なのだが。


 クラーラの支度が終わり、ノエインはマチルダとクラーラとともに食堂へと移動する。暖房の魔道具で適温が保たれている寝室から廊下に一歩出ると、まるで別世界のように冷え込んだ空気が肌に刺さった。


「うわ、寒……」


 マチルダとクラーラを抱き寄せながら歩いて食堂へ入り、まずは温かいお茶を飲み、朝食をとる。


 自宅が屋敷から比較的近いとはいえ、この寒さの中を早朝から出勤して朝食を作ってくれるロゼッタには感謝するばかりだ。ノエインより遥かに早く起きているキンバリーも、寒い屋敷内で毎日家事や掃除をこなしてくれるメアリーたちメイドも同様だ。


 クラーラはノエインよりも少し早く食事を終え、エレオスへの授乳のために一時退席する。授乳を終えて彼女が食堂に戻ってきたら、再び三人でお茶を飲んで温まる。


 食後のお茶を終えたら仕事だ。まずノエインとマチルダは、学校へと出勤するクラーラを見送る。エレオスがある程度大きくなったので、彼女も年明けから仕事に復帰していた。


「それではあなた、マチルダさん、行ってまいります」


「行ってらっしゃいクラーラ。ものすごく寒いし雪も降ってるから、ほんとに気をつけてね」


「行ってらっしゃいませ。どうかご無理はされませんよう」


 ノエインは心配そうな表情で、マチルダも気遣いを声に滲ませながら、クラーラを屋敷の玄関まで見送った。


 雪の多い冬だが、領都内の主要な道は除雪がなされているので、学校は通常通り運営されていた。農民の子どもたちにとっては、農閑期の冬は貴重な学びの季節なのだ。そう簡単に学校を閉めるわけにはいかない。


 ノエインの計らいで学校にも暖房の魔道具が設置されているので、子どもたちは暖を取る目的もあって活き活きと登校しているとクラーラから聞いていた。


「……さて。僕たちも仕事だね、マチルダ」


「はい、ノエイン様」


 ノエインはマチルダを伴って屋敷の二階の領主執務室に入る。ノエインたちが朝食をとっている間にキンバリーが暖房の魔道具を起動してくれていたので、すでに室内は快適な温度になっていた。


「今日は……何から手をつければいいのかな」


 執務机についたノエインは、苦笑しながら悩む。


 大寒波のせいで多くのスケジュールが崩れ、想定外のことばかり起きているのだ。最近はその対応を考え、従士や商人たちと話し合ってばかりいた。


 極寒の気温や大雪は珍しいが、数日もすれば終わるだろうと最初は思っていた。それが一週間経っても終わらず、二週間経っても終わらず、すでに三週目に突入している。まだ終わる気配は見えない。


 鉱山村キルデからは、雪がひどすぎて通常通りの採掘ができていないと報告が入っており、あちらから領都ノエイナへと鉱物資源を運ぶのも遅れ気味になっていた。


 例年であれば二月に入ったあたりに一度くらいレトヴィクへの輸送を行うが、寒波と大雪が終わらないとそれも難しい。いつもは徒歩で半日のレトヴィクも今は一日かかって着けるか怪しい。無理をして向かおうとすれば凍死することもあり得る。とても人を送れない。


 アスピダ要塞の駐留軍は冬を前にさらに縮小され、200人規模まで減っているが、彼らへの物資を領外から運び込む酒保商人たちも当面は来られないだろう。現在は冬を前に要塞に運び込んだ備蓄で間に合っているらしいが、それが尽きれば彼らの食糧はノエインが出すしかない。


 領民たちは家の中にかまどや囲炉裏を持っているので凍え死ぬような心配はそうそうないだろうが、薪の消費ペースはどうしても上がっていると聞いている。枯渇に備えて、森に囲まれたアスピダ要塞の周辺では兵士たちに薪の収集を行わせており、現在彼らは国境防衛部隊ではなく薪拾い部隊と化していた。


 領民たちの生命と生活の維持はできているが、それと引き換えに商業や工業の予定は狂いっぱなしだ。冬明け以降も苦労することだろう。


「ノエイン様、本日は従士エドガー様と面会予定が入っています。ひとまず、その話し合いに向けて準備をされるのがよろしいかと」


「そっか……そうだね。それじゃあとりあえず、今年の農業計画をおさらいしとこうかな」


「すぐに資料を出します」


 マチルダのサポートを受けて、ノエインもようやく仕事のスイッチが入った。


・・・・・


 その日の昼前。予定通り話し合いのために領主執務室にやってきた農業担当の従士エドガーを迎え、室内の打ち合わせ用のスペースで、テーブルを挟んで向かい合ってソファに座る。


 入室したときから暗い表情のエドガーは、硬い声で言った。


「……麦の成育状況が相当に悪いです。このまま寒波と大雪が続くと今年の収穫量は絶望的です」


「絶望的……具体的に、どれくらいの収穫量になるか予想はつく?」


 彼につられて、ノエインも表情を硬くして尋ねる。


「……寒波があと何日続くかにもよりますが、五割もいけば御の字といったところでしょうか。三割を切るかもしれません」


 あまりにひどい予想にノエインも一瞬絶句した。


「……それは、深刻だね」


 アールクヴィスト領では麦の収穫の四割を税として徴収している。また、一割は種籾として保存しなければならない。このままでは税と種籾すら賄えない。


 それ以前に、飢饉の心配さえある。この領ではジャガイモも主食のひとつとして機能しているが、麦だって重要な食糧だ。その見込み収穫量が予定の半分以下というのはいくらなんでもまずい。


「それじゃあ例えば……今年は麦を無税にして、それを領民たちの消費する食糧に回すとどう? その上で、春から全力でジャガイモの大量生産に努めたとして、飢えることなく凶作を乗り越えられるかな?」


「……しかし、麦が無税ではノエイン様の税収が」


「そこは大丈夫。アールクヴィスト家はもともと税収よりも僕の事業収入の方が多いからね。一年くらい無税にしても問題はないよ」


 ジャガイモや大豆、甜菜の生産に力を入れているアールクヴィスト領は、人口に対して麦の生産量が少ない。そこからの税収も領の収入に占める割合は小さいので、ないならないでなんとかなる。


 鉱石採掘に支障が出ているので事業収入の方も例年通りとはいかなさそうだが、その点は今は話さずにおく。言ってもエドガーがますます萎縮してしまうだけだ。


「それで、どうかな?」


「……それならおそらく問題ないと思います。一度持ち帰って、もっと正確に計算してみてもよろしいでしょうか」


「うん。お願い。食用のジャガイモも一度できるだけ種芋に回すつもりで計算してほしい。ああそうだ、あと大豆も油の原料じゃなく食用に充てるつもりで。栽培場所はいざとなったら領内の適当な空き地だろうと道の端だろうと使うつもりでいこう」


「……そこまでしてよろしいのですか?」


「いいよ。非常事態だからね。民が飢えることと比べたら何てことないよ」


「……かしこまりました。領主家と、あとはスキナー商会が食用に備蓄しているジャガイモの量を確認した上で、大豆と併せて計算して結果をお持ちします」


「うん、苦労をかけるけどよろしくね」


 疲れた様子のエドガーにできるだけ優しく声をかけて見送り、室内にマチルダと二人だけになってから、ノエインはソファにどかっと座りなおしてため息をついた。


「はあ……寒波に凶作か。せっかく平和になったと思ったのに、とんだ一年のはじまりになったね。参っちゃうよ」


 マチルダを隣に座らせ、困ったような表情で弱音を吐く。


「……ノエイン様」


 それに対して、マチルダは何を言うでもなくノエインに寄り添う。彼女が傍にいて、その体温や匂いが伝わってくることで、ノエインも少しプレッシャーから解放される。


「戦争は備えることができるし、頑張れば回避することもできるだろうけど、気温と天気はなあ……いくら頑張っても無理だなあ」


 異常気象という、戦争以上にノエインにはどうしようもない事態の発生によって、王歴218年は気苦労の多い幕開けとなった。

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