第八章 予期せぬ戦いと状況変化

第170話 記念祭①

 王歴216年の三月初旬。冬が明けたアールクヴィスト領では、ある催しが開かれようとしていた。


 アールクヴィスト領開拓記念祭である。


 五年前の三月に領主ノエイン・アールクヴィストがベゼル大森林の開拓を開始し、この五年で大きく発展を遂げたアールクヴィスト領の成長を祝うために開催される祭り。アールクヴィスト領の誕生以来、最大のイベントと言えるだろう。


 祭りというのは、平民たちにとっては昼間からご馳走を食べ、堂々と遊べる絶好の機会だ。年末年始を祝ったばかりなのに、また祝い事で美味い飯と酒を味わって思う存分どんちゃん騒ぎができるのだから、こんなにいいことは滅多にないと領民の誰もが浮かれきっている。


「……すっごい賑やかだね。領都ノエイナにこれだけ人が集まるのは初めて見たな」


 いつもの如く領主執務室の窓から領都を眺めながら、ノエインは呟く。今日は領主として領民たちの前に立つ予定もあるので儀礼服姿だ。


 ノエイナ市街地の広場も、通りも、多くの人が行き交ってかつてないほどに賑やかだった。領都の住民たちが遊び歩いているのはもちろん、鉱山村キルデや開拓村からも人が集まり、さらには隣領のレトヴィクなどから商人が露店を出しに来たり、少数ながら観光客が来たりしているのも大きい。


「この賑わいも、ノエイン様がこれまで巧みにアールクヴィスト領を治められてきたことの何よりの証左でしょう」


 ノエインのすぐ隣でマチルダがそう返す。今日は彼女も見栄えを重視した軍服姿だった。


 黒を基調とし、細部に装飾としてラピスラズリが使われた専用軍服。本来なら獣人奴隷が着ることなどあり得ない高級品だが、マチルダの献身に報い、領主の副官という彼女の立場にふさわしい礼装を与えようとノエインが作らせたものだった。


「そうだね、僕たちのこの五年間の成果がこれだ……もう五年か。あっという間だけど楽しかったし、幸せだったね、マチルダ」


 ノエインは優しく笑って傍らのマチルダの顔を見上げる。


「はい、とても充実していました。ノエイン様にお仕えしながら領の発展を見る日々は幸せでした……願わくば、これからもどうかお傍で」


「もちろんだよ。これからもずっと一緒にいてね」


「はい、ノエイン様」


 微笑みを返してくれるマチルダに、ノエインはさらに近づいて顔を寄せる。


 マチルダもそれに応えるように、ノエインとの身長差を縮めるために少しかがむ。


 二人が唇を重ねようとして――トントン、と領主執務室の扉を叩く音が響いた。


「ノエイン様、式典の準備が整いました。いつでもどうぞ」


 執務室の外から、従士副長ペンスの声が聞こえる。


 あとほんの少しでキスができた、という間の悪すぎるタイミングでの呼びかけに、思わず固まって目を合わせるノエインとマチルダ。


「……分かった、すぐ出るよ」


 ノエインは小さく嘆息して扉の向こうにそう応え、マチルダは少しだけ残念そうな雰囲気を滲ませつつも、ノエインの護衛として気持ちを切り替えようと表情を引き締める。


 と、ノエインはそんなマチルダの手を引いてもう一度顔を引き寄せると、やや強引に唇を重ねた。一瞬だけ小さく目を見開いたマチルダも、すぐにその目を閉じてノエインに身を委ねる。


 そのままたっぷり十秒ほど経ってから、ノエインはマチルダから離れた。


「……行こうか、マチルダ」


「……はい」


 いたずらっぽい笑みでノエインが言い、頬を少し上気させたマチルダが応えた。


・・・・・


 領都ノエイナの中央広場は、普段は領外からやってきた行商人が露店を開く場として、また領民たちの憩いの場として、ときには裁判の場(基本平和なアールクヴィスト領でもたまに窃盗や暴力沙汰などはあり、領主であるノエインはそれらを裁いている)として利用されている。


 そんな広場が、開拓記念祭の今日は式典の会場になっていた。広場の北側には食べ物や酒を売る出店などが立っているが、南側は広くスペースを取られ、壇が設営されている。


 その壇上へと続く階段の前に、ノエインはマチルダとクラーラを連れて立つ。今日はクラーラも貴族夫人の正装として、ドレスを身にまとっている。ドレスはノエインの儀礼服やマチルダの軍服と同じく黒を基調としながらも、白や銀のフリル、そしてラピスラズリによる装飾品で飾られ、クラーラの佇まいと合わさって落ち着いた印象を感じさせた。


 木製の壇の上にはアールクヴィスト家の家紋を記した旗が掲げられ、壇の下では領軍兵士の中でも精鋭とされる者たちが警護に就く。また、壇の左右にはアールクヴィスト家に仕える従士たちが並んでいた。


 領民たちに領主の威厳を見せるには、十分な場となっている。


「静まれぇー! これより領主ノエイン・アールクヴィスト準男爵閣下の御言葉を賜る!」


 領民でごった返す広場に向けて従士長ユーリが声を張る。その声を聞いて、広場のあちらこちらに立っていた、あるいは通りを巡回していた領軍兵士たちが周囲に「静まれ」と指示を飛ばしていく。


 それから間もなく、ざわついていた領民たちが口を閉じて広場の壇の方を向いた。酔っ払いが周囲の変化に気づかず喋り続けて兵士に注意されたり、小さな子どもが声を上げて親に窘められたりしているのはご愛嬌だ。


 十分に静粛になったといえるタイミングで、ノエインは壇上へ上る。後ろにはマチルダとクラーラが続く。


 壇の中央の前方まで進み出たノエインは、『拡声』の魔道具の前に立った。領地が大きくなって大勢の領民の前で声を張る機会の増えたノエインが、ダフネに依頼して作らせたものだ。


 ノエインの左手側、数歩後ろにはクラーラが立ち、ノエインの右手側、クラーラよりさらに一歩後ろにマチルダが控える。マチルダは領主夫妻の警護ということになっているが、傍から見ればノエインが二人の妻を連れているようにも見えるだろう。


 壇上に現れた領主を見て、従士たちも領民たちも礼をする。兵士たちは敬礼を示す。


 自身に向けて下げられた頭が再び上がり、敬礼が解かれ、視線が集まったのを確認してから、ノエインは口を開いた。


「……諸君。アールクヴィスト領開拓記念祭を、今日という日を、こうして君たちと共に迎えられたことを領主として心から嬉しく思う」


 壇上から領民たちを見下ろしながらノエインは話し始める。


「今から五年前、私は忠実な奴隷マチルダとゴーレムのみを連れてこのアールクヴィスト領の開拓を始めた。当時は深い森がどこまでも広がるだけの土地だった。家すらもなく、テントで寝起きしながら森を切り開き、私自ら畑を耕した」


 領民たちは静まってノエインの言葉を聞く。


「私は日々奮闘した。私だけではない。ここに立つ妻クラーラも、このマチルダも、ここに並ぶ従士たちも、兵士たちも、私を支えてくれた。そうして今、アールクヴィスト領は大きな発展を遂げた」


 堂々とした話しぶりを見せるノエイン。年の割に幼く威厳がないように見えるのが悩みではあるが、五年の歳月を経て、さまざまな経験を積んで、こうした場では領主貴族としてそれなりに威厳を纏えるようになっている。


「ここには領都ノエイナと、鉱山村キルデと、三つの開拓村がある。原生林の中に作り上げた広い農地と、険しくも豊かな鉱山がある。それらは領主の私にとって大きな財産である――しかし、最も重要な財産は他でもない、君たちだ」


 ノエインは両手を広げるようにして領民たちを指し示す。


「領とは民だ。民が生活を営み、社会を作り、幸福を得る。その上に貴族が立ち、為政者として社会を維持し、民の生活と幸福を守護する。だからこそ貴族は支配者であり得る。それが人の世の本質であり理想だ。私はこのアールクヴィスト領で、自分がその本質を体現できていると、理想に近づくために努力できていると自負している」


 領民の大半は学のない農民や単純労働者なので、全員がノエインの話す内容を完璧に理解できているわけではない。しかし、ノエインが民を重要視しているということは彼らにも何となく分かった。


 自分たちを移民として受け入れ、新たな人生を与えてくれた領主の言葉に誰もが聞き入る。


「今日は君たちがこの地で幸福を得たことを記念し、喜び合うための一日だ。これまで続いた君たちの幸福は、明日からも、この先もずっと続く。君たちの子も、孫も、そのさらに先の世代もこの幸福を享受する。私が、そして私の子孫が、アールクヴィスト領に生きる全ての民の幸福を未来永劫守ろう」


 ノエインはたくさんの愛に包まれた幸福な人生を送りたい。そのためにまず自分が民を愛し、慈しみ、民の幸福のために努力を続けている。そんな本音を軸にしつつも、自身が素晴らしい領主に聞こえるように言葉を選び、心を込めながら語る。


「私は領主として、全ての民を愛している。私の慈愛の下で、どうかこれからも幸福に生きてほしい。まずは、今日の記念祭を大いに楽しんでほしい……以上だ」


 ノエインがそう締めると、一瞬の静けさの後に拍手が鳴った。従士長ユーリのものだ。それを合図にまず従士たちに、そして兵士に、さらに領民たちにも拍手が広がる。広場とその周辺の通りにいる数百人が、精一杯の拍手で壇上の領主を包む。


 ノエインのこの演説を以て、アールクヴィスト領開拓記念祭は正式に開幕した。

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