第50話 ノエイン熱を出す①

「はっ」


 自室のベッドの上で目を覚ましたノエインは、ボーっとする頭で自分の状況を理解しようとする。


「あー、そうだった……」


 カラカラの喉と熱く火照った体、汗でべとついた服から、すぐに自分が熱を出して寝込んでいることを思い出した。


「マチルダぁー」


 室内には誰もいなかったので、ひとまず愛する奴隷の名前を呼ぶ。思っていたよりも子供っぽく甘えた声が出たことに自分でも驚いた。


 マチルダはおそらくこの部屋の近くにいるはずだし、兎人の彼女は普人よりもずっと耳がいいので、今のノエインの声でも聴こえるだろう。


 案の定、すぐに廊下を走る足音が近づいてくる。寝室のドアが開き、マチルダが入ってきた。


「ノエイン様、お呼びでしょうか」


「水が欲しいんだ、あと服も着替えたいんだけど、お願いしていい?」


 急いで駆けつけた様子のマチルダに、ノエインはそう答える。


 寝室のテーブルに置かれていた水瓶からコップに水を注ぎ、ノエインの口元まで運んでくるマチルダ。ノエインはベッドに座ったままの姿勢から動かず彼女に水を飲ませてもらう。


「寝室を離れて申し訳ありません。起きたとき心細い思いをされたのでは?」


「大丈夫だよ、マチルダも仕事があるだろうからね。ありがとう」


 ノエインが水を飲み終えると、マチルダは一度退室してからお湯を張った桶と着替えを持ってくる。


 マチルダからお湯で濡らした布で体を拭いてもらい、新しい服に着替えさせてもらうノエイン。倦怠感が酷く全身がだるいので、何から何までマチルダ任せだ。


・・・・・


 そもそもの発端は5日前。朝、目を覚ました時点でノエインは自身の体調に異常を覚え、隣で目覚めたマチルダも主人の異変にすぐ気づいた。


 高熱と寒気で起き上がるのも辛そうな主人の姿を目にして、マチルダが珍しく慌てていたのをノエインはよく覚えている。


 その後、マチルダから報告を受けた従士長ユーリがすぐさま判断を下し、バートをレトヴィクまで走らせ、大急ぎで医者を連れて来させた。


 ノエイン本人としては熱を出したくらいで大げさだと思ったが、もしノエインが死にでもしたら、爵位を継ぐ者のいないアールクヴィスト士爵領はおそらく取り潰しだ。


 つまり、ノエインの生死がそのままアールクヴィスト領の命運を決めるのである。従士たちとしては気が気ではなかったらしい。


 やがてその日のうちに、レトヴィクから医者が呼ばれてくる。経験豊富で腕も確かだというその初老の医者の診断によると、ノエインの病気は「エルド熱」だった。


「はあ、まさかこの歳でエルド熱にかかるなんて思わなかったな……」


 水分補給と着替えを済ませ、再びベッドに寝転びながらノエインは呟く。


 エルド熱は大陸南部ではごく一般的な病のひとつで、一週間ほど高熱と倦怠感が続くという、やや重い風邪のような症状を引き起こす。


 体力を大きく消耗するので、幼子などは油断できない病であるが、ある程度の年齢になれば命を落とす心配はほぼない。医者に診てもらい、薬まで処方してもらえるなら尚更だ。


 そして、エルド熱のもうひとつの特徴に……主に未成年が罹患するという点がある。


 成人を過ぎても患う者がいないわけではないが、基本的には「子どもがかかる病気」という認識がなされている。


 なので、去年成人を迎え、今年で16歳のノエインにとって、エルド熱にかかるというのは少し恥ずかしいことだった。


「これじゃあまるで僕がお子様みたいじゃないか」


「ですが、私はノエイン様が重篤な病ではなかったので安心しております。ただのエルド熱でよかったです」


「それは……そうだけど」


 献身的に看病をしてくれるマチルダに真面目な顔でそう言われると反論できない。


 ノエインがエルド熱で寝込んでから、マチルダはほぼ付きっきりでノエインの看護を務めていた。ノエインから離れたくないからと、自分の執務まで可能な限りこの部屋で行う徹底ぶりだ。


 年齢的にも彼女ならまず伝染ることはないし、何よりノエインもできればマチルダに傍にいてほしかったので安心だった。


・・・・・


「ノエイン様、お食事をお持ちしましたっ」


「ありがとうメアリー、ご苦労様」


 ノエインが起きたのはちょうど昼過ぎだったので、昼食が寝室まで運ばれてくる。


 運んできたのはこの屋敷でメイドとして働く少女メアリー。ちなみに、この屋敷には現在メイドが3人おり、他の2人はそれぞれキンバリー、ロゼッタという名前だ。


「本日のメニューはマッシュポテトと、あと鶏肉とキャベツのスープですっ」


 明るくはきはきとした性格のメアリーは、そう元気に説明すると、ノエインのベッドに小さなテーブルを乗せて食事を並べてくれる。


 柔らかいマッシュポテトと温かいスープ。どちらも病気のノエインでも食べやすいメニューだ。


 それらをゆっくりと食べ進め、そろそろ食べ終わるという頃にマチルダがお茶を淹れてくれる。ティーセットは食事と一緒にメアリーが持ってきたものだ。


「美味しかったよメアリー、ありがとう」


「いえいえ、褒めていただけて嬉しいですっ」


 明るくそう言いながら食器とテーブルを下げると、メアリーは退室していった。


 マチルダからカップを受け取り、お茶を飲んで一息つくノエイン。


「……領内の運営はちゃんと回ってる?」


「ご安心ください。ほぼ全ての業務が滞りなく進んでおります」


「そっか。”ほぼ”っていうと、問題のある部分もあるのかな?」


「森林の伐採に関してはゴーレムがないため作業を大幅に縮小していますが、もともと開拓計画にはかなり余裕がありましたので。移民が増えるペースを見ても、農地にするための平地はまだ当分は十分な面積が残っています」


 森の木を切り倒して平地を広げる作業だけは、屈強なゴーレムを扱えるノエインの力に頼るところが未だに大きい。領都の面積を広げて増え続ける移民に対応するためにも、森林伐採は重要な業務だ。


 だが、これまで熱心に伐採を進めていたおかげで、その作業にもまだまだ余裕があるという。


「それならよかった。なるべく早く復帰して伐採を頑張らなきゃな」


「どうかご無理はなさらないでください。ノエイン様の御身が最優先です」


「分かってるよ、ありがとう」


・・・・・


 エルド熱も5日目ともなると症状もだいぶ落ち着く。そのため、ノエインは従士たちから自分が休んでいる間の報告を受けることにした。


 寝室でベッドに座ったままという状態ではあるが、上半身だけは寝間着の上からシャツを羽織り、髪も軽く整える。


 そうして準備を終えたところへ、まず入室してきたのは、ノエインが寝込んでいる間の領主代理を務めている従士長ユーリだ。


「だいぶ顔色がよくなったな、お坊ちゃま」


「うるさいなあ。どうせ僕はいい歳してエルド熱にかかるお子ちゃまですよー」


 顔を合わせて早々にからかい文句を投げてくるユーリに、ノエインも不貞腐れて見せながらそう返した。


 こうしてお互い気安く挨拶を交わし、それから具体的な報告を受ける。


 その内容は領内の治安から農業の状況、レスティオ山地での採掘作業の状況、隣領レトヴィクの様子など多岐にわたる。他の従士たちの報告をユーリが取り纏めてノエインに伝えているためだ。


「よく分かったよ、ありがとう。ご苦労様」


「ああ……まあとにかく、あれだ。ゆっくり休め。ここに来てこのかたずっと開拓に打ち込んできたんだから、少しくらいのんびりしても罰は当たらないだろう」


 やや照れくさそうに言うユーリ。軽口は叩きつつも、部下としてノエインを気遣ってくれているらしい。


「そうさせてもらうよ。できるだけ早く復帰するつもりではあるけどね」


 部下の労いの言葉に、ノエインは小さく苦笑しながら応えた。

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