第9話 騒動の後に
「えーっと……とりあえず、その彼、ラドレーだっけ? は無事かな?」
「こいつは体の頑丈さが売りだ。死にはしない」
さっきはマチルダの戦闘靴の爪先が顔面にめり込んだように見えたラドレーだが、今は「へい、死にはしねえです」と言いながらケロッとした顔で立っている。
また鼻血が流れているが、鼻血で済んでいるということはそういうことなのだろう。
「そうか。ならよかった……それで、マチルダ?」
「はい。ノエイン様」
「よく拘束を解いて駆けつけてくれたね。ありがとう」
「尖った木片を足で拾って縄を切りました。お助けするのが遅くなってしまって申し訳ございません」
ノエインにそう答えながらも、マチルダは氷のような目でユーリたちを刺すように見ている。
「……マチルダ、さっきも言ったように、彼らは敵じゃなくなった」
「はい、ノエイン様」
「そして、彼らもあのクソ父上に人生を壊された被害者だと分かった」
「はい、ノエイン様」
「だから、行き場のない彼らを領民に迎えようと思ってる」
「はい、ノエイン様」
「……マチルダ、怒ってる?」
「私がノエイン様に怒ることなんてあり得ません。ただ……」
マチルダはノエインを庇うように抱き留める。視線はユーリたちを刺したままだ。
「私はあなた様の身の安全を危惧しています。まだ彼らを信用できません。事情を知らなかったとはいえ、彼らは一度はノエイン様を殺めようとしたのです」
ユーリが一歩前に出て口を開こうとすると、マチルダは今にも飛びかかりそうな殺気を放つ。
「……お前が俺たちを信用しないのは分かる。忠誠を証明しろというなら俺の指の1本か耳の片方くらい差し出すから切り落としてくれていい。何ならその両方でもいい」
「ではまず指から」
「分かった」
「だ、駄目。駄目だよ、ちょっと待って」
マチルダの言葉で迷わずナイフを自分の指へと振り落とそうとしたユーリを、慌てて止めるノエイン。
「彼らが僕に危害を加えるつもりなら、わざわざ僕に仕えるふりをする理由がない。今ここで力づくで僕を襲えばいいんだから。それをしないってことは、彼らは本当に僕の領民になるつもりなんだ。そうでしょ?」
「……確かに、仰る通りです」
「それに、今の行動でユーリの忠誠は分かった。マチルダもそうだよね? さっきの彼はどう見ても本気で自分の指を切ろうとしてたよね?」
「……はい」
渋々という感じで、本当に渋々と言う表情でマチルダはそう答えた。
「ユーリ、そして他の4人も、君たちはもう僕の領民だ。君たちを守るという意味でも、アールクヴィスト領のために最大限の力を奮ってもらうという意味でも、君たちが自分を傷つけることを僕は望まない。分かったね?」
「……ああ。感謝する」
そう言ってノエインに頭を下げるユーリ。彼の部下たちもそれに続く。
マチルダから見ても、確かに彼の目にはノエインへの害意はもう感じられない。
「少しでも……少しでも彼らが不審な行動をとったら、そのときは私の判断で彼らを殺すことをお許しください、ノエイン様。あなた様を守るためにも、どうか」
「分かったよ、マチルダ。ユーリたちもいいね?」
「ああ、構わない。信用してもらえるようにこれから働きで示して見せる」
そう言いながらナイフを鞘に戻し、立ち上がるユーリ。
「あっ、ちょっと待って、もう一回跪いて」
ノエインの指示を奇妙に思いつつも、ユーリは従った。
「……君は僕を攫うとき、2回、マチルダを『雌兎』と侮辱したよね? 僕の大事なマチルダを」
静かに微笑むノエインの目に、先ほどのような邪悪な色が混ざる。
「……ああ」
そういうことか。
このマチルダという女は雑用奴隷や護衛奴隷というだけではなく、お気に入りの愛玩奴隷でもあったらしい。獣人の奴隷に執心する貴族というのも珍しいが。
「その罰だけは受けてもらう。2発ね。歯を食いしばって」
言われたとおりに口を結んだユーリの横顔を、
「てえっ! であっ!」
という少々不格好なかけ声を上げながら、少々不格好な体勢で、ノエインが2度蹴り上げた。
戦いには不慣れなのだろう。大した蹴りではない。
大した蹴りではなくとも、一切の防御を許されず顔に食らうなら多少は痛い。ユーリの唇が切れて血が滲む。
「……はあ。もう立っていいよ。マチルダは獣人で奴隷だけど、2度と彼女を侮辱したり軽んじたりしないでね」
「分かった。従う。こいつら4人にも徹底させる」
気が済んだのか、ノエインの顔には先ほどまでの邪悪な色はなくなっていた。
一方のマチルダは、氷のような無表情の中に微かな、よく見なければ気づかないほど微かな笑みを浮かべてノエインを見ている。
ユーリたちが自身を攫って殺そうとしたことすら簡単に許したノエインが、マチルダを侮辱されたことで怒ったのを見て何やら満たされたらしい。
おかしな主従だ、と彼らを見ながらユーリは思った。
・・・・・
「……本当に何もないんだな」
「だから言ったじゃないか。森に開拓に入ってまだ1か月だし、僕とマチルダとゴーレムしかいなかったんだから」
アールクヴィスト領の居住地を見たユーリは、開口一番そう呟いて、ノエインにそう返された。
ここに来るまでの道中で「居住地にはまだ建物もないから期待しないでね?」とは散々言われていたが、実際に目にすると呟かずにはいられなかった。
テントと畑、それなりに広い平地、それを囲む木材の山、それだけだ。とてもまだ貴族の領地とは呼べない。
森を切り開いた平地の面積だけは広いが、それがかえって「何もない」という状態を強調している。
テントは軍で指揮官が使うような質のいいものだし、食うに困らない程度の金や「沸騰」「火種」などの便利な魔道具もあるというし、近くには澄んだ川もあるそうだから生活自体には困らないだろう。
だが、それでもこんな場所に、たった2人で領地を築こうとするというのは途方もない仕事だ。こんな若造がよく投げ出さなかったものだとユーリは思った。
「本当は君たちの分のテントも用意したいんだけどね。今日はもう夕方だ。明日またレトヴィクまで行って君たちの生活のための品を買うから、今日は外で寝るのを我慢してほしい」
「ああ、もちろん構わない。むしろ俺たちはしばらく外で寝ることになってもいいんだぞ? わざわざ俺たちの分までテントを買うのも負担になるだけだろう」
先ほど奪おうとした時に確認したが、ノエインの財産は個人が持つ金額としてはそれなりでも、開拓資金としてはとても心もとない。
テントはそれなりに高価な道具だ。今の彼にとっては安くない買い物のはずだ。
「冗談言わないでよ。大事な領民をずっと屋外で寝かせるわけないでしょ?」
ノエインは笑いながら、当たり前のような顔でそう言った。
・・・・・
その日の夜は、ユーリたちの歓迎会……というほどのものではないが、お互いの人間性を知るためにも焚き火を囲んで食事を共にする。
ノエインはたまの贅沢のために買っておいた酒を開け、数日分の食料のつもりで今日買ったばかりのパンや、この居住地で作った干し肉を新しい領民たちに振る舞った。
ユーリの紹介によると、襲撃の際にノエインの腹に剣を突きつけていた細身で目つきの悪い男がペンス、途中で合流した2人のうち若い優男の方がバート、もう1人の美形の女がマイというらしい。頑丈なラドレーについての紹介は今さらだ。
あらためて挨拶と領地に受け入れてもらったことへの礼を口にする4人に、ノエインは微笑みながら「これからの働きに期待しているよ」と言葉を返した。
それを見たユーリは、あれだけ邪悪な笑い方をするくせに、よくこんな優しい笑い方までできるものだ、と密かに思う。
「そういえば、バートとマイは途中で合流してたけど、どうして別行動をとっていたの?」
「あの街で”森の士爵様”の噂を聞いて、その持ち金と荷を奪ってやろうと計画してな。この2人には街からベゼル大森林まで行く途中の道を見張らせて、いつ頃お前らが街から大森林の入り口まで帰ってくるかを報告させてたんだ」
「報告させてたって、そんな遠距離での報告の手段なんて……そっか、『対話魔法』か」
ハッと気づいた様子のノエインにユーリがニヤリと笑って頷く。
「そうだ、俺は『対話魔法』の才を授かってる。『対話魔法:遠話』を使えば、遠く離れた人間とも頭の中で会話できるんだ」
『こんな風にな』というユーリの最後の一言は、ノエインの耳と頭の中に二重になって響いてきた。
「そうか。傭兵だったならその才は重宝しただろうね……でも、そんな能力があるならどこかの貴族に仕える道だってあったんじゃ?」
「それが悲しいことにな、俺の才は大した強さじゃない。『遠話』も10kmも届かないし、あらかじめ近づいて『遠話』の対象として紐づけした1人としか会話できないって欠点付きだ」
ユーリの「遠話」は、直接顔を合わせて「この人間を『遠話』の対象にする」と念じた者としか成立させられないらしい。
対象を別の者に変えるには、またその者と直接接触して念じなおさなければならないという。
知人ならいつでも誰でも対象にできて、効果範囲も数十kmに及ぶ一般的な対話魔法使いと比べたら、確かに大きく見劣りする能力だ。
「それでも、少なくとも領主の僕と連絡を取りながら居住地の周辺数kmで活動してもらうことができるじゃないか。うちの領にとっては大きな力だ。助かるよ」
「……おう」
ユーリは一瞬気休めを言われたのかと思ったが、ノエインの顔を見るとどうやら本気で自分の半端な才を歓迎してくれているらしい。
こいつは性格がいいのか悪いのか分からん、と思った。
・・・・・
ユーリたちには今夜は居住地の畑の脇で寝てもらうことにして、ノエインはマチルダと一緒にテントに入る。
2人きりになった途端に、マチルダはノエインを抱き締めた。その腕には、ノエインが少し痛いと感じるほど力がこもっている。
「ノエイン様……」
「マチルダ? 泣いてるの?」
温かい水滴が頬に当たっているのに気づいたノエインが言う。
「ノエイン様が攫われたとき、もう二度とお会いできないかと……あなた様を失うかと思いました……無力な、無力な私で申し訳……ごめんなさい」
その震える声を聞いて、ノエインは彼女の背中をさするように抱き返した。
「僕こそごめん。マチルダのせいじゃない。攫われるような状況を許した僕が領主として無防備で無力過ぎたんだ。マチルダに怪我がなくてよかった。愛してるよ、マチルダ」
領民となったユーリたちに呼びかけるときの声よりもさらに優しい、ノエインが出せる最も優しい声色で語られる言葉を聞いて、マチルダは息を殺すように静かな泣き声を上げた。
「マチルダを不安にさせないためにも、僕はもう二度と自分が攫われるような状況を作らない。僕に刃を向けた彼らも、今はもう僕を守ってくれる盾に変えたんだ。だから大丈夫」
「……はい」
マチルダが落ち着くまで、ノエインはずっと彼女に語りかけながらその背中を撫で続けた。
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