学園の放課後に図書準備室で二歳違いの幼馴染がする何でもない会話

石狩晴海

前段 登場人物たちの造形が突飛な理由

「小説のキャラってさあ、どうしておかしな行動ばかりするんだ? 経歴もとんでもないものが多いし。

 普通の学生とか言いながら実は~、なんてやったら看板倒れじゃん」


 こちらから見て向かいに座る一年生の後輩は、隣の図書室から借りてきた小説本を読みながら質問してきた。

 あけすけな男子生徒はパイプ椅子に浅く座り、折りたたみ式の長机に上体を投げ出してだらけている。


 この図書準備室の中には小生意気な一年生と自分だけ。

 考えるまでもなく質問の相手は長机の斜め対面にいるこちらしかいない。


 それもこれも、部屋自体は広いくせに人が動けるスペースが狭いからであり、我が理数学部の部員が少ないからだ。


 準備室には折り畳み式の長机が一つ、そして山と積み上がったダンボールしかない。

 ダンボールの内には図書室の棚に収まりきれない蔵書が押し込まれ、壁の厚みを十重とえ二十重はたえと増やしていた。

 廊下と繋がる本来の扉は箱が築いたバリケードで防がれ、出入りは図書室経由でしかできない。

 窓も半分以上が開閉不可能になっていて、おかげでこの部屋は学内で一番日没が早い。


 我が校の図書準備室とはそういう場所だ。


 そんな大量の未整理書物によって手狭となっている準備室は、机一つと人間二人だけで許容上限間近になっている。


 あちらが座る卓の端には貸し出し手続きをしていない書籍本が小山を築く。


 中間から逆サイドがこちらの領域になっていて、目の前にはノートと入学試験過去問題集と筆記具、少し離れてストローが差し込まれた200ミリ紙パックのミルクココアが置かれている。


 これが我が校七不思議の一つ『存続理由が無いのに潰れない理数学部』。その部室でよくある放課後の一幕だった。

 ……老齢の顧問曰く、図書準備室なのに文芸部じゃないところは突っ込まれなくなって久しいらしい。



 ともあれ問題集と格闘中の自分は、シャープペンシルを止めることもなく馬鹿のバカな疑問を切り捨てる。


「小説として物語を売っているんだから当然。

 ストーリーで感動を与えるには、情緒の起伏が必須。

 登場人物が事件に巻き込まれるタイプでないなら、自発的に活動しなければならない」


「なるほど。昔話の魔女が王女様に呪いを掛けるには、魔女の性格が悪いとか、王女様が我儘わがまましないといけないってことか」


 年下の幼馴染は納得の顔でページをめくる。


「すげぇ、こんな理由で主人公を逆恨みするのか。

 ちゃんと物事の前後がわかって無いのかな?

 それなのに四天王最強とか魔法の天才とか言われても納得できないよ」


 一体何を読んでいるのかは知らないが、純粋な愛読者が聞けば貶されたと受け取りかねない言い様だった。

 愉快そうに笑っているところを見ると、内容への愚痴というわけなく悪意のない率直な感想なのだろう。


 こいつはそういう性格だ。これだから天然のトラブルメーカーは始末に負えない。

 準備室にいるのが自分たちだけでよかった。


「芸能人のキャラ付けも同じなのかな。

 ちょっと前にお笑い芸人が偶然ファンに出会ってさ、路上で何かしてみろとか言われて、騒ぎになったことがあったよね」


「その要求をした人間は、テレビなどの映像メディアで芸人の顔を知っているだけで好意的なファンとはいえない」


 今一度切って捨てる。


 しかし相手も黙っていない。


「あの●神博士を演じられた人は、道行く子供に役名で名指しされた時、即座に演技仕返して見せたとか聞くけど。

 お笑い芸人のバラエティとは考える軸が違うよなあ」


「……どこからそういった怪しげな知識を拾ってくるんだ。博嗣ひろつぐのアホからか?」


「うん。兄さんは最近そっちの方面に興味が出たのか、色々と古い話を掘り返しているみたい」


 厄介な話題に意識せず眉をしかめる。

 当方には博嗣の興味が騒動の種に成らないよう祈るしかない。


 しようがない。問題になったら遠慮なくこいつらをこき使ってやるだけだ。



 まあ、こいつが言うことも解らないわけじゃない。


 人が相手によって態度を変えるのは当たり前の事で、それは舞台という場所でより顕著になる。


 劇を見せる。コントでもいい。

 彼らは大袈裟に振舞い。何気ないトーンで滑舌良く大声を張る。


 役者の姿が観客に観えないのでは意味がない。声が聞こえなくては客席に座る意味を失ってしまう。

 例え作劇上小声での話し合いでも、そう見える演技演出をしているだけで、本当に音量が絞られることは無い。きちんと観客たちに届いている。


 役者たちのこうした振る舞いは、状況を解りやすく相手に理解させるためだ。

 これは文字で綴られる小説にも適応される。緻密な描写や長い解説説明といった地文は、舞台装置と演出に置き換えられる。


 ならば登場人物はどうなのか。


 これもまた然りである。


 先も言った通り舞台でも小説でも、登場人物たちの言動には起伏がある。


 当然著作者たちも落差緩急激しいキャラクターの異常性については十分に理解して執筆していることだろう。

 それこそが物語に興味を抱かせる引き金でもあるからだ。


 だが、実在の人間と小説の登場人物では事情が違う。


 舞台の例えを続けるのなら、演者たちは役に入り込みはしてもそのものになるわけではない。


 日常で舞台と同じ動きはしない。癖として役者と知れるなにかしらが現れるかもしれないが、その程度だ。

 芝居が終わった後、カーテンコールで主役と敵役が仲良く並んでいても不思議に思う観客はいないだろう。

 何しろ客席から舞台までが空間的に連なっている。自らが座る椅子から舞台上の役者までどのように繋がっているのかが明白だ。

 つまり舞台演技とは、観客が役者の状況や距離感を自らの五感で正確に識別し理解出来る場所なのだ。


 ここで話を路上での反応に戻す。

 争点は演じる場所の違いと、距離感への理解度である。


 なにより、こいつが言った芸能人という人々が特定のメディアでの露出を高くしていることだ。


 人間は自分から遠い場所での出来事を、客観でしか知り得ない。電波発信での伝聞は、空間的に断絶されている状態に近い。


 特に喧伝の為本人の性格とズレのある人物を断続的に演じ続けている場合や、過剰なパフォーマンスをしている人物たち。

 彼らの言動に惑わされてはいけない。それは役ではなく、自己の人格として誤解を受けてしまうことになる。


 子供の呼び掛けに演技仕返したという後者の話は、番組内容を正しく把握した役者さんだからこその反応だろう。

 往々にして役と役者を混合する年少者を前にして、自身が何者であるべきか理解していた証だ。


 逆にカメラの前に立つ人のどれほどが、自分を撮っている道具が舞台で言われる『第四の壁』と近しくも遠いことを知っているのか。


 特にキャラ造りが奇抜だったり長期間だった場合は、距離感の崩壊がより顕著になる。

 幾ら芸名を名乗ろうが、見る側は同一視してしまってもおかしくない。


 過激な人物を演出している一部には、本当に向こう側に足を突っ込んでいて事件性のあることをやらかしているが……。それはそれ、だ。


 過剰行動をする芸能人と創作登場人物の偏った造形、そして舞台役者の共通点は、物語の中心足らんとする自己主張だ。


 彼らは観客や読者の注目を集めなければ、目立たなければ意味がない立場のいるのだから当たり前のこと。

 故に小説の登場人物たちは、文章という舞台上で必要な過剰演技を常態化させているわけである。


 問題点を凝縮すると、きちんと相互の状態を理解して演じられているのかということになる。


 路上で急に声を掛けれられても、順当に対応するには相互の関係を把握して置かなければならないと言うことだ。


 書籍の距離感に限っては、小説とノンフィクションでは異なるのも面白い。

 最初から創作と銘打たれていないのなら舞台と扱えるのは前述の通り。


 しかし情報伝聞として作られた場合、容易に『第四の壁』を分厚くさせる。読み手は作者という電波発信源からの情報のみで全てを判断しなければならくなる。

 その距離は隔絶も良いところだ。これも意図的に過剰演技をしているとも言い換えられる。


 過去の出来事だが、現実に『東方見聞録』という図鑑はその内容を信じられていた時期がある。内容は、御自分の眼で確かめてみてほしい。


 これらが役者という技能・職業と、物語上だけに住まう架空存在キャラクターの対比だ。


 近ければ乖離を悟り、遠ければ混合する。

 舞台や本といった物理的接触を持つものと、彼方まで残される図画文字と伝播される波形。その共通項と差異の理論。


 どちらにしろ、こちらが注目すべき舞台は過去試験問題集で、役者は使い慣れたシャープペンシルである。粛々と自分の物語を進めてゆく。


 カリカリと小さく乾いた筆記音だけの演目。眼前で消費されている娯楽本に比べれば、こんな情緒も何もない平坦な筋書きに観客など寄るはずもない。

 正しい評価と望んだ平静である。



 こちらの無言をどう思ったのか。

 向かい相手は数冊積み上げた書籍の一つを手に取り、また笑う。


「四天王最強が続刊のカラー口絵にいるってことは、この巻までに読者が納得できる辻褄合わせが出来たってことかな。

 読むのが楽しみだな」


 逆の手に持つ読み終えた本を山に戻して、続きを読み始める。


 こいつは先に挿し絵を見るタイプだ。

 片手に少し曲げた本を持ち、ピピピと親指で器用にページを手繰っては時々止めてイラストを楽しむ。

 あ、死んだはずのキャラが出てる、とか、おっ!共闘か? と脳天気。


 今更に、こめかみがひきつるのを自覚した。


「もう一度言うが、物語を動かすために、登場人物の性格造形を変質させる。もしくは人物背景と言動の乖離を承知で場面を繋げる。物語進行の思惑に添った新しい登場人物を追加する。

 そんなよくあることを読者の興味を引く伏線や緊迫の場面に出来るかどうかが、著者としての技能と才覚だ」


 こちらの言葉に、相手はこくこくと頷きながらページをピピピピ。


「さっき言った通り、事件が起きなきゃ物語にならないってことだね。

 物語を動かす為の異常行動を支える、これまた突飛な各種設定群。

 継続して読者引き付けるための萌えキャラたち、つまり様々な趣向に応える属性を持った登場人物ってわけだ。

 一見”普通”と書かれた立て看板との違いも、最初から狙って付けてるわけだ」


 巻末の後書きまで跳ばし読みして、ひらめきに指を鳴らす。


 手にした本をアクロバットペンシルのように舞わせ、見開きを下げ握る。左側に挿し絵が描かれている項を差し出した。


 そのページには珍妙奇っ怪なポーズをした剣士らしき人物が描かれている。

 地の文を速読する限りには、この男は大企業の課長で、社外秘の大魔法を披露する場面らしい……。

 一見には理解しかねる場面である。


「その論法ってマンガにも通用するよね。

 挿し絵でもこれなんだから、ビジュアルが多くなれば多くなるだけ、キャラの尖った部分の連続になっちゃう」


「そうなると最早インパクト勝負の一発芸大会だ。

 役者とキャラクターの距離感がどうとかの話ですらない。

 その登場人物が先に構築されている世界観に合致するならば良い刺激にはなるがな」


「連載が長くなったり巻数が増えると、比例して登場キャラも多くなるしね。

 漫画やラノベのイラストがとんがった性格や言葉使いは多くなるのは当然なんだ」


「だが、物語の芯から乖離した奇人変人ばかりになってしまうと、喜劇コメディを通り越して最早口枷ギャグだ。


 最初から面白人間大集合として描かれているならいい。しかし物語として売り出すのは難しくなる。登場人物の異常行動に描写資源を吸われ、肝心のストーリーが薄れてしまうからだ。


 何処も彼処も意表を突けば良いってものじゃない。これらの配分も著作者の腕の見せ所だな。


 これが両立出来れば名作と呼ばれる物に近付ける」


「あ、それは解るよ。

 この作品のスピンオフ漫画に出てきた特徴的な語尾と衣装を着たあざとかわいいキャラがすごい人気でさ。

 本編に合流する時、まさかのタイミングと怒濤の伏線回収でラインがちょっとしたお祭り騒ぎになったんだよね」


 こちらの締めになるほどなるほどと、相も変わらずしきりに首を動かして後輩は読書に戻る。


 とりあえずはこいつも納得したようだ。

 話は終わったと一息つく。


 ノートに視線を戻し手元の難題に戻る。

 本当に難しいわけじゃなく、問題集の区分として仕分けられたランクではあるが。

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