月の影

谷内 朋

第1話

 「僕と結婚してください」


 首都圏内某所にある一流ホテルレストランで盛大な婚約パーティーの主役となっている月島朝陽つきしまあさひは、上場一部企業【月島商事】の御曹司である。その【月島商事】現社長である父夏彦なつひこ主導の元、多くの財界人や修業先となっている現職場の上層部たちを招待して婚約者有明美空ありあけみそらをお披露目中だ。

「ご婚約おめでとう、月島君」

 特に職場の上層部たちは、大企業の時期社長相手に媚びへつらった態度で若者を取り巻いていた。

「ありがとうございます」

 朝陽は石像のような作り笑いを浮かべて軽くあしらう。

「可愛らしいお嬢様ですね、どうぞお幸せに」

 財界人や夫人たちもまた若いカップルを取り囲み、大企業の御曹司を射止めた女として美空を品定めするような視線を向けていた。彼女の実家は首都圏郊外で精密機械の部品工場を営んでいたのだが、不況の煽りで倒産しているので特に有名な家柄でもない。

「大丈夫? 疲れてない?」

「えぇ、少しだけ……」

 こういった上流階級の社交界慣れしていない美空は少々疲れが顔に出ていたが、それでも愛する婚約者の面子を潰さぬよう美しい笑顔を振り巻いている。

「ならあっちに行こう、僕もこういったのは好きじゃないから」

 朝陽は美空をエスコートしてビュッフェ近くの立食用テーブルに避難する。二人は食事と酒を少しばかり腹に収め、さほど面識の無い財界人たちとも挨拶を交わした。一体誰が呼んだんだ? と言いたくなるような知らないも同然の取引先関係者の姿も見受けられ、面倒に感じながらも笑顔を貼り付けてテンプレ的な礼を述べる。

 その中に最近商談で顔を合わせた影山日向かげやまひなたという名の同世代らしき男性が混じっており、初対面時から妙な親しさを感じていたのもあって迷わず声を掛けた。

「ご無沙汰しております、影山さん」 

 ほんの数回会っただけの彼が何故この場にいるのかは不明だが、招待状が無ければ入れないはずなので詮索はしないでおく。

「この度はご婚約おめでとうございます」

 日向も友好的な態度で祝いの言葉を述べた。ところが共にいる美空の表情がどことなく固くなっている。

「ひっ……影山先輩っ?」

 婚約者の変化に朝陽は不自然なものを感じたが、日向がそれを遮るかのように大学時代の後輩なんですと笑顔で言った。

「三学年違いますので接点は多くなかったのですが」

「そうでしたか」

 朝陽は確認を取るように傍らにいる美空を見たが、表情はまだ固いままで日向を見上げている。

「おめでとう有明さん、お幸せに」

「あっ、ありがとうございます……」

 彼女は深々と頭を下げた。それ以降日向を見ようとせず、ふわふわと視線を泳がせている。ただの先輩相手にそこまで動揺するだろうか? 朝陽はかつて接点のあった二人を見比べていると、日向はそれではと会釈してさっとその場から離れていった。その後似た年齢の派手めな女性と合流していたが、親しそうには見えず接点がいまいち分からない。

「ところで朝陽さん、お義母様は?」

 美空は日向がその場から離れると、今度は視線で彼の背を追い始めていた。

「さっきはいたんだけど」

「ちょっと様子見てくるわね」

 彼女は手にしていたグラスを置いて一人会場を出る。今気にしなくてもいいのにと思いはするが、婚約者と母との折り合いが良いのは結婚の追い風になっているので無理に引き留めはしない。

「ご婚約、おめでとうございます」

 聞き覚えの無い女性の声に振り向くと、先程日向と一緒にいた派手めな女性がにこやかな表情で立っていた。これまで直接の面識は無かったが、ここ数年めきめきと業績を上げている建設会社の社長令嬢と気付いて口角を上げる。

「お初にお目にかかります、氷上蒼ひかみあおいと申します」

 蒼は赤黒いマニキュアを施した指で勤務先の名刺をすっと差し出した。朝陽はそれを受け取って、日向が勤務している会社であることを目視確認する。

「すみません、生憎持ち合わせがございません」

「構いませんよ。月島商事の御曹司様を存じ上げない訳が無いじゃないですか」

 いくら取引先の社員とはいえこんな女招待するなよと、勝ち気な印象を受ける蒼を見ながら父の節介を恨めしく思う。

「課は違いますが、影山日向とは三期後輩にあたるんです」

「そうですか」

 朝陽は興味の無い話を作り笑いで相槌を打った。

「それと、有明美空とは古い付き合いなんです。彼女、三年程前まで五年近く影山さんとお付き合いされていたんですよ」

「へぇ」

 そういうことか……美空の様子がおかしかった理由については納得できたが、それだけ純情な女性なのだろうと愛情が削がれることは無かった。

「あら、ご存知無いと思っておりましたが」

「それくらいのこと、この年齢になれば誰にでもあることでしょう?」

 朝陽は余裕の笑みを浮かべて蒼を見る。

「あの子まだ影山さんに未練をお持ちだと思いますよ、気が多い割に執念深くもありますので」

「それはあなたのことでしょう?」

「は?」

 その子言葉に彼女の表情が曇った。

「僕が知る彼女は優しくて美しい女性です、過去はどうあれ」

「なら教えて差し上げますわ。有明さんって中学時代から複数の男性と同時進行で交際なさったり、体を売っていた時期もおありだったのよ」

「あなたは可哀想な方ですね、悪口でしか自尊心を保てないんですから」

「何ですって⁉」

 予想とは違う朝陽の反応に蒼の表情は一気に歪んでいく。綺麗に着飾ってるところで醜い女だな……朝陽は目の前のブルジョワ女を面白そうに見つめていた。

「どうぞごゆっくり、影山さんに宜しくお伝えください」

 彼はそう言い捨てて蒼から距離を取るため一旦トイレに避難する。蒼は一流企業の御曹司に小馬鹿にされたことに悔しさを滲ませ、ふんと鼻を鳴らして会場を出て行った。

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