これから始まる私の夏

今福シノ

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「ひどい顔」


 人の寄り付かない講義棟の裏手。そこにあるベンチで泣いていた私に、彼女はよりにもよってそんな言葉を投げかけてきた。


 およそ初対面の相手に選ぶ言い回しとはとても思えない。失礼な人だな、それが率直な感想だった。

 たしかに毎朝早起きして整えている化粧はぐちゃぐちゃに崩れていて、鏡で見ようものなら目を背けたくなるに違いない。


「いいじゃないですか。人間みんな、泣きながら産まれてくるんですから」


 私はなけなしの強がりをまとって、そんな皮肉で答える。


「だったらいっそのこと大声を上げればいいんじゃない? おぎゃーってさ」


 近づいて隣に座るでもなく、距離を少し空けた状態で講義棟の壁にもたれかかる。その声はどこかぶっきらぼうというか、興味なさげだ。声をかけてきたのはそっちなのに。


「あの……ひとりにしてほしいんですけど」

「ここ、私の休憩場所なんだよね」


 それだけ言うと、彼女はポケットから小さな箱――タバコを取り出す。器用に一本だけ抜き取ると、流れるような所作しょさで火をつけた。


「喫煙スペース、向こうにありましたよ」

「あそこ、日が当たるから暑いじゃん」


 キャンパス内は基本的に禁煙だということを完全に無視している。そりゃあ、まだ七月だっていうのに猛暑日が続いているけど。この場所は建物が影になって、丁度いい避暑地になっているけど。


「で、なんで泣いてたの?」


 くわえていたタバコを指に挟み、ふう、と煙を吐く。少しだけこっちに流れてきて、苦い香りが鼻をつく。再び隣を見れば、細長いタバコと、それに負けないくらいに線の細い指が目に入った。


「もしかして、フラれたとか?」

「別に、あなたには関係のない話です」

「ま、顔を見りゃだいたいわかるけどね」


 再び煙を吸い始める。わかっているんなら察してよ。そんな気持ちを込めて半目を向けるけど、気にする様子は一切ない。

 夜明け前のような薄暗い影の中。せみの大合唱だけが、土砂降りみたいに私たちに降り注いでいた。


「そういや、名前なんていうの?」


 携帯灰皿に灰を落としながら、そんなことを訊いてきた。


「はい?」

「だから、名前」

「……棚町たなまち藤花とうか、です」

「へー、いい名前じゃん」


 少しだけ面食らった。自分の名前をこんな風に言われたこと、なかったから。


「んじゃ、私も名乗らないと失礼だね。私は――」

「知ってますよ。二年の喜多村きたむら綾乃あやの先輩ですよね」


 割って入るように言うと、彼女は「へー」と意外そうな表情を見せた。


「私のこと、知ってるんだ」

「一年生の間でも噂になってますから」


 彼女は、喜多村綾乃は大学内でも有名人だった。

 理由のひとつは、その見た目。ビジュアル系バンドを彷彿とさせるようなファッション。外国人かと見紛みまがうくらいにまぶしい金髪はショートカットで、女の子というよりは、かっこいい男の子みたいだと評判だった。

 今だって、日陰にいるというのに金髪は自ら光を放っているみたいに輝いている。黒い十字架がデザインされたカットソーにレザーのショートパンツは、よくある女子大生のファッションとは一線を画していた。


 実際、私もキャンパス内で何度かすれ違ったことがある。そのときも、思わず振り返ってしまうくらいに綺麗な金髪に、目を引く服装だった。


「で、藤花はなんでフラれたわけ?」


 喜多村先輩は二本目のタバコに火を灯すと同時、話題を元に戻してきた。というか、いきなり名前呼びなのか。


「別に誰にも言わないからさ」

「……なんてことのない理由ですよ」


 観念して、私は口を開く。けれどあくまで、独り言をつぶやくように。


「高三の時に付き合い始めたんですけど、大学は別々のところに行くことになったんです」

「うん、それで?」

「そこからはよくある話ですよ」


 お互いの予定が合わなくなって、会う機会が減って。そして、言われた。


「同じ大学で、ほかに好きな子ができた、って」


 ……告白してきたのはそっちのクセに。


「ふーん……」


 喜多村先輩は、自らが吐いた煙がゆっくりと舞うのを見つめている。


「それだけです。聞いていてもおもしろくないでしょ」

「ま、たしかにおもしろい話じゃないね」


 あらためて他人にそう言われるとムッとしてしまう。別にいいけど。


「せっかくこれから夏休みだっていうのに、元カレもひどいねえ」

「だからじゃないですか? 新しい彼女と夏休みを思う存分に過ごしたいから」


 そのために、私とはさっさと別れたかったんだろう。


「その元カレのこと、まだ好きなの?」

「そりゃあ未練がないって言ったら嘘になりますけど……どっちかっていうと、ムカつくって気持ちの方が大きいですね」

「なるほどね」


 相槌あいづちが聞こえる。考えてみれば、ここまで話す必要はなかったんじゃないだろうか。タバコを吸い終えるまでの間、適当に答えるだけでよかったのに――


「じゃあさ」


 じゃり、とコンクリートを踏む音が聞こえた。かと思えば、目の前に喜多村先輩の顔。


「あの……?」

「こういうのはどうよ」


 目を細めてしまいそうな金髪が揺れて。ほのかに煙の匂いを漂わせながら、


復讐ふくしゅう、してみない?」

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