第269話 深い海の底のような場所


 その日、ルーリアは夢を見た。


 そこには光もなく、何の音もしない。

 どこか分からない、暗くて寒い場所にいる。


 ……真っ暗だ。


 本当に何にも見えない。

 自分の周りを手で探ることしか出来なくて、辛うじて慣れてきた指先の感覚だけで、何となく近くにある物の形を想像する。


 ……これは木の手触り?


 床に角材が何本か立ててある。

 それを手で伝っていくと、上に板のような物が載っていた。


 ……あ、机、と椅子、かも知れない。


 それと、こっちには背の低い棚のような物が一つあった。そこには四角い板のような物がいくつか入っている。触っている内に、それは本だと気付いた。


 ……これ、よく見たら、わたしの手じゃない。


 必死に周りを探っていた小さな手は、自分のものではなかった。


 ……誰の手?


 自分がしていることのように感じるけど、自分ではない誰かの記憶を追体験しているようだ。

 それに気付いた瞬間、触れた感覚が目に見える影の形として頭の中に浮かび上がってきた。


 ……これは、子供?


 自分より小さな人影が目の前に現れた。

 ぼんやりとしていて、男の子なのか女の子なのか分からない。


 その小さな人影は床に触れ、這いつくばって進めるだけ進み、やがて壁に行き当たった。

 行き着いた先にあった壁をバンバンと手の平で叩く。

 壁はまっすぐではなく緩やかな円を描いているようで、手で探りながら小さな人影はぐるぐると2、3周回った。


 同じ所を回っていることに気付いたのか、小さな人影は椅子を引っ張ってきて、壁にピッタリとくっ付けて置く。

 そして、さっきと同じように壁を伝っていき、椅子にぶつかって止まった。


 小さな人影は賢い子のようで、今ので自分がいる場所の大まかな広さを把握したようだ。


 次に、壁のあちこちに触れながら回る。

 壁の手の届く範囲には何も引っかかるものがなく、窓も扉も、壁材の継ぎ目すらないことが分かった。

 例えるなら、光を通さない直径10メートルほどの円柱形のガラス瓶の底にいるような。


 この場所に出口などがないと分かると、小さな人影は壁に攻撃をしようとした。

 しかし、攻撃的な行動をしようとすると、なぜか全身の力が抜けていってしまう。

 壁に椅子をぶつけようと思っても、振り上げようとした瞬間に、へろへろとその場にへたり込んでしまっていた。

 しばらくすると元に戻るみたいだが、明らかな焦りの気持ちがルーリアにも伝わってくる。


 これならどうだ。と、小さな人影は魔法を使おうとした。だが、身体の中の魔力の流れを感じることが出来ない。何度試そうとしても、魔力は完全に流れを止めてしまっていた。


 攻撃もダメ。魔法もダメ。

 他に思いつくものも全てダメだった。

 どんなに足掻いても、ここから出られない。

 それが分かると、小さな人影の心の中には絶望だけが黒く広がっていった。


 小さな人影はゆっくりとした動きで、引きずるように椅子を机の側まで持っていく。

 そしてその椅子に座り、机にうつ伏せになると、そこから人影は動かなくなった。


 ……泣いている。


 声を押し殺して、小さな人影が泣いている。

 暗い闇の中に、かすかな泣き声が深く溶け込むように響いていく。


 声をかけることも、触れることも。

 慰めてあげたいと思っても、ルーリアには何も出来なかった。



 それから、どれだけの時間が流れただろう。

 数年のようでもあり、何十年のようにも感じられる。


 何もかも諦めたように、小さな人影はじっとして動かない。その間、聞き取りにくい途切れ途切れの声が聞こえてきた。


 色 が見た いのに 光 がない。

 知り たいの に与 えら れな い。

 声 が聞きた いの に誰もい ない。

 ここか ら出た いのに出 られな い。

 何のた めに生 きてい るのか分 から ない。


 歪なほどにバラバラな音が、小さな人影から、こぼれるように抜け落ちていく。

 まるで、ひとひらずつ降る、サクラの花びらのように。はらはらと、心の声が散っていく。


 ……これって……。


『ここから出たい』

『何のために生きているのか分からない』


 落ちる声を繋ぎ合わせた言葉には、ルーリアにも身に覚えのあるものがあった。

 けれど、この小さな人影が置かれている環境は自分よりもずっとひどい。

 色も、光も、音も、温度も、家族の温もりも。

 その全てが、ここにはひと欠片もなかった。

 目の前に広がるのは、深い闇だけだ。


 何の変化もない、気が狂いそうになる暗闇の中で、ただひたすらに時間が過ぎるのを待つことしか出来ない。

 小さな人影の中にあった感覚は次第に薄れて消えていく。感情は思い出そうとしても曖昧なものにしかならないくらい、すっかり抜け落ちてしまっていた。


 何も見ず、何も思わず、何も感じず。

 やがて小さな人影からは何の思いも流れてこなくなった。


 手を伸ばしたくても届かない。

 小さな人影から大切なものがこぼれ落ちていくのを止めてあげられない。




「────……っ」


 目が覚めて、自分の目に飛び込んできた光が眩しくて、ルーリアは涙が溢れてくるのを止められなかった。


 色があって、音が聞こえて、温かいベッドで眠っていて、周りには光が溢れている。


 ……あれは夢、ですよね?


 そう思いたくても、小さな人影が夢の中だけの存在とは、なぜか思えなかった。


 あんなひどい状態にあっても、あの人影は誰も怨まずにいて。感情や感覚を切り離し、ただ静かに自分を保とうとしていた。

 同じ状態にあったとしたら、自分にはきっと耐えられない。すぐに壊れてしまっていただろう。


 ルーリアは水魔法で乱暴に全身を洗い、裏口から家の外へ出た。

 井戸の近くにある三本のエリオンの大樹の木陰に座り、周りの景色を眺める。


 柔らかな木漏れ日、草花や森の木々の色、冬の気配が混じる風の匂い、小鳥のさえずり。

 冬が近付いているから、本当なら肌寒く感じるはずなのに、今はそれさえも暖かく感じる。


 ……自分に出来ることを精一杯やらなきゃ。


 何も出来ずに過ぎていく時間をあれだけ長く見続けた後に、何もしないでじっとしているなんて出来ない。

 あの夢はとても切なく、大切なものを教えてくれた気がする。


 ……まるで深い海の底のような場所。


 そこがどんな場所なのか、ルーリアには分からない。けれど、この夢の場所にあえて名前をつけるなら、そんな言葉が思い浮かんだ。


 真っ暗で、音もなく、冷たい。

 ただ静かに、失った時間が漂う場所。

 その日から、ルーリアはたまにこの夢を見るようになった。



「セフェル、セフェル」


 部屋に戻り、一日遅れたミツバチの採蜜に行こうとセフェルを起こそうとするけれど、なかなか起きない。

 もしかして従属契約をしているセフェルも、今回の身体の変化の影響を受けてしまったのだろうか。


小域睡眠解除モース・ティルス


 セルギウスに昨日、一昨日と連続で睡眠魔法を掛けられ、セフェルが深く眠っていることなど、ルーリアは知らない。

 気持ち良さそうに眠っているから、ちょっと可哀想だけど、と思いながらルーリアは魔法で起こした。


「……にゃぅ。姫様、もう朝?」

「朝ですよ。ミツバチの採蜜に行くから起きてください」

「にゃんか、怖い夢を見たような……」


 眠たそうに目をこするセフェルは、ルーリアの姿を見るなり、目をまん丸に見開いて飛び起きた。


「にゃにゃ!? 姫様、銀ピカ!?」

「……あ、昨日いろいろあって、髪と目の色が変わってしまったんです」

「はにゃ~。姫様の髪、お月様の光みたいで綺麗。お目々も新しい葉っぱみたい」

「ふふっ、ありがとうございます」


 単純に色が綺麗だと褒めてくれるセフェルが可愛くて、思いっきりわしゃわしゃと撫でまくる。朝からもふもふで癒される。


「よく考えたら、セフェルの毛並みと瞳の色も銀と緑だから、おそろいになりますね」

「にゃっふい! 姫様とおろそい~」


 ご機嫌なセフェルと朝食を食べ、森へ行き、ミツバチの採蜜の仕方を教えていく。

 前回と同じように魔法と魔術具を使い、ミツバチを眠らせてから巣枠を取り出していった。


「けっこう魔力を使うと思うので、セフェルは少しでも疲れたら魔虫の蜂蜜で魔力を回復させてくださいね」

「にゃい。でも、まだまだ平気」

「あ、そういえば、セフェルはわたしの魔力の半分は増えているんでしたっけ」


 そういう自分も、今回の採蜜ではそこまで疲れを感じていない。さくさくと作業は進み、あとは蜂蜜が流れ落ちるのを待つだけとなった。


「セフェルが一生懸命に花畑の手入れをしてくれたから、どの巣箱も巣蜜がたっぷりでした。セフェル、本当にありがとう」

「にゃうぅ~。照れるにゃ」


 二人で切り株に腰かけ、魔虫の蜂蜜入りの花茶で乾杯する。ミツバチの蜂蜜からは濃厚なロモアの香りがしていたから、きっと最高の出来だろう。本当にセフェルには感謝しかない。


「頑張ってくれたセフェルに何かお礼をしたいんですけど、何か欲しいものはないですか?」

「……欲しいもの?」


 むむ……と、腕を組んで首をひねったセフェルは、キラリと緑色の目を輝かせた。


「子分が欲しいにゃ!」

「……こぶん?」


 セフェルが言うには、子分とは自分の言うことを聞いて動く、配下や弟分のことを指すらしい。

 ここで働く部下が欲しいということだろう。


「……う~ん、分かりました。ラメールたちに良い人がいないか相談してみますね。この森に入れるなら、お母さんたちにも相談しないといけないですし。すぐに、という訳にはいきませんけど、それでも良いですか?」

「にゃい。姫様、ありがと~」



 流れ終わった蜂蜜を家に持ち帰り、小型のタルとミツバチの蜂蜜専用の丸底の瓶に詰めていく。

 今回、採れた蜂蜜の量は約110キロ。

 夏の時と比べるとミツバチの数も増え、巣蜜もかなり大きくなっていた。


 前回はまだよく分からなくて、採蜜した後に残る蜜蝋は全部アーシェンに渡していたけど、今回はこれでいろいろ作ってみる予定だ。

 魔虫の蜂の巣箱は毎年、春に新しい物と交換するけど、その時に出る古い巣はガインが回収した後に、ユヒムが引き取っていたと記憶している。たぶん、こちらも何か使い道があるのだろう。


 今はこの家にシャルティエを呼ぶことが出来ないから、セフェルと一緒にミツバチの蜂蜜の味見をする。


「んん~~、美味しいっ」

「姫様、花の香りが口の中で、ぶわってなる」

「種とちょっとだけ香り方が違いますね。種だと口の中にずっと香りが残りますけど、蜂蜜だと強く香った後に、すっきり溶けていくみたい」


 これで蜂蜜酒を作ったら、上品な甘い香りになりそうだ。そんなことを考えながら、ユヒムとシャルティエに魔術具の手紙を出す。

 ユヒムには蜂蜜の受け渡しを依頼し、シャルティエには無事に採蜜が終わったことを報告する。

 ロモアの花の形の手紙を空中に浮かべ、消えていくのを見送った。


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