第189話 見ていることしか


 それから1時間半ほどが過ぎ。


「ああっ、レイドのヤツ! ロリちゃんの手にベタベタ触りやがって!」


 どう見ても楽器の持ち方や手の動きを教えているだけなのだが、エルバーには違って見えるらしい。


「メガネはいちいち大袈裟ね」

「あぁ~でもぉ、何となく分かるかもぉ~。あーやって、後ろから抱きかかえるよーに手を取って教えてるのってぇ、見てるこっちの方が照れるってゆうかぁ~」

「そう? 私には普通に楽器を教えてるようにしか見えないけど」

「だからナキスルビアはダメなんだよぉ~。この甘い雰囲気が分かんないかなぁ~」

「雰囲気ねぇ」


 どんなに言われても、ナキスルビアの中では、せいぜい仲の良い兄妹といったところだった。

 ルーリアとレイドは真面目に楽器の練習をするばかりで、リュッカはすっかり飽きてしまっている。


「ねぇ~、もうそろそろ日も沈むからぁ、あたしたちもランプとか借りて来た方がよくなぁい?」

「そうね。何か座れる物とかもあった方がいいわね。海の家で言えば借りられるのかしら?」

「あー、だったらボクも行きたいかな。借りたい物もあるし」


 と、退屈から逃げるように海の家に行く口実を述べる三人。その様子を見て、セルは気遣いの声をかけた。


「それなら、三人は必要だと思う物を借りに行けばいい。ルリの様子はしばらく私が見ていよう」


 その申し出で、ルーリアの体調を見守るという名目で、セルに付き合ってもらっていることを三人は思い出した。セルは良いヤツだけど、きっと損をするタイプだな、と三人は思う。


「じゃあ~、ちょっと行ってくるねぇ~」

「出来るだけ早く戻るから。二人に何かあったら、よろしく頼む。絶対に見つかるなよ」

「了承した」


 バタバタと慌ただしく去って行く三人を見送った後、セルは近くにあった木を背にして、二人を……ルーリアを見ていた。

 この空間で時間が流れたところで、ルーリアの実体には何の影響も出ないだろう。そのことを知った上で、セルはエルバーたちの誘いに乗り、ここに来ていた。

 全てはルーリアを影から見守るために。


 ルーリアがレイドから離れ、一人で海の方に向かって歩いて行く姿が見えた。レイドは楽器を奏でていて、その場から動く気配はない。

 少し迷った後、セルは距離を置き、そっとルーリアの後を追った。


 空も海も金色に輝き、その煌めく色を全てに重ねていく。そして、その景色に溶け込むように、漆黒の髪を風になびかせ、ルーリアはまっすぐに夕日を見つめていた。

 その儚げな瞳と姿は、レイドの奏でる切ない音色のせいか、この世のものとは思えないほど幻想的に映る。まるで少女の形をした、闇色に咲く花の化身のようだ。


 ルーリアが足を止めて立ち尽くすと、セルも足を止めて同じ視線の先を追った。

 夕暮れの色は瞬く間に、輝く金色から燃えるような焔の色へと変わっていく。

 波の音とラピスの音色を遠くに聴きながら、じきに訪れる夜の闇を彼方に眺めた。


「…………っ、──、っく、……」


 聞こえてくるかすかな声に、ハッとして目を向ける。そこには、ルーリアの泣きじゃくる姿があった。


「────ッ!!」


 それを目にした瞬間、セルは心をえぐられるような苦い激情に襲われた。


 手を伸ばせば届く。触れることが出来る。

 そんなすぐ傍にいるのに、その距離を果てしなく遠くに感じながら、セルはルーリアが泣いているのを、ただ黙って見ていることしか出来なかった。


 ……己の無力さを、ここまで痛感させられるとは。

 無意識に握りしめた手には薄く血がにじみ、細い線を描いてしたたり落ちた。


 ルーリアが夕日を見て、なぜ泣いているのか。

 その理由を、セルは知っている。

 ルーリアが長く起きていられないことも。

 そのせいで成長が遅いことも。

 それなのに、今は何もしてやれない。


 …………自分は、無力だ。


 ルーリアは膝を抱えて座り、海に沈む夕日を焦がれるように潤んだ瞳で見つめていた。

 そこに近付く気配を感じ、それがレイドだと分かると、セルは身を引いてその場から離れた。


「ルリ、どうした? 大丈夫か?」


 ルーリアの手首を掴み、ひと言ふた言、言葉を交わしたレイドは家具のある所まで連れて戻る。

 そしてまたしばらくの間、楽器を教えていた。

 その二人の距離の近さに、セルは人知れず驚いていた。


 辺りはすっかり暗くなり、ルーリアとレイドのいる場所だけが、ランプでほのかに照らされている。それなりに時間は経ったが、三人が戻る気配はまだなかった。


 不意に、ラピスの音が止む。

 ルーリアは革袋から飲み物を取り出し、レイドに休憩を勧めているようだった。

 ここでの飲食は意味がないだろうに、ルリらしい。と、セルは微笑む。


 しかし、その後の二人の様子が少しおかしいことにセルは気付いた。

 何かあったのだろうか。

 レイドは酒瓶のような物を手にした後、椅子に座って項垂れた。その傍で、ルーリアは心配そうに様子を窺っている。


視覚強化ファウス・クルス聴覚強化キリア・ミイス


 セルは自分に強化魔法を掛け、二人の言動を注意深く見つめた。

 そこまで気にするほどでもなかったのか、顔を上げたレイドはいつもの調子に戻り、その後は二人で何かを飲んでいるようだった。


 あれは……酒だろうか?

 レイドはルリに酒を飲ませているのか?

 いろいろ気になることはあるが、セルは二人の会話に黙って耳を傾けた。


 その時、夜空を見上げたルーリアが倒れそうになり、セルはその足を踏み出しかけた。レイドが抱きかかえるように、しっかりと受け止めたため、安堵の息を吐く。うっかり二人の前に出て行くところだった。


 どんな理由であれ、今の自分がしていることは褒められた行為ではない。見守っていると言えば聞こえはいいが、やっていることは覗きと盗み聞きだ。出来れば何事もなく、このまま時が過ぎて欲しいと願った。


 その後、レイドに自分の呪いについて話すルーリアを目にした時、セルは何とも言えない複雑な思いとなった。

 以前、自分が話を聞こうとして拒絶された時のことを思い出し、沈んだ気持ちとなってしまう。


 ……ままならないものだな。


 あの時は自分の聞き方も悪かった。

 自分の気持ちばかりが焦ってしまい、ルーリアの気持ちを考える余裕がなかった。

 その点、レイドはルーリアに心から信頼されているように見えた。


 セルは目を細め、レイドを見る。

 妬みなどではなく、人から信頼されていることに対する羨望に近い感情が湧いてくる。


 ならば、いっそレイドごと……。


 自分でも気付かない内に、セルは深く考え込んでいた。強化した感覚を二人に向けていたため、海の家から帰ってきた三人に気付くのが遅れる。


「ごめんねぇ~、遅くなっちゃったぁ~」

「ッ!」

「何も変わりなかったかー?」

視覚強化解除ファウス・エント聴覚障害付与ラウム・ミナ・イル


 セルはすぐさま三人に小声で魔法を掛けた。

 視覚強化を掛けていたのであれば、それの解除を。それと、ルーリアたちの会話を聞かせないようにするため聴覚を奪う。だが、これが失敗だった。

 音を失い、暗がりの中で周りがよく見えなくなった三人は、ランプのほのかな灯りに照らし出されたレイドとルーリアだけを見ることになる。


「っ! えっ、レ、レイド!?」


 セルの耳にだけ、ルーリアの慌てる声が届いた。

 レイドはルーリアを抱き上げ、長椅子に仰向けに寝かせてからランプの灯りを消す。


「「「!!」」」


 その直後に三人の目の前は真っ暗となり、レイドとルーリアが何をしているのかは、それぞれの想像に任せるばかりとなった。

 一瞬の間の衝撃的な場面に目を見開き、三人は思考も動きも停止させる。固まったまま、誰も動こうとしなかった。


 と、そこへレイドの声が聞こえてくる。

 これも聞こえているのはセルだけだ。


「……さっきの酒に使われていた果物の名前だ。デルフィニア。オレの故郷にあった物だ」


 その言葉を最後に、レイドとルーリアの会話は途切れ、あとはラピスの音色が静かに響いてくるだけだった。もう聴覚を戻しても大丈夫だろう。


聴覚変化解除ラウム・ミナ・ソート


 セルはこっそりと三人の聴覚を戻した。


「…………い、今のって……」


 やっとのことでナキスルビアが声を出すと、エルバーは弾かれたように全力疾走でレイドの所へ駆けて行った。それを見て、セルは尾行のために掛けていた魔法を全て解除する。

 隠れるのはここまでのようだ。


視覚強化ファウス・クルス


 リュッカは自分とナキスルビアに魔法を掛け直し、目を凝らした。


「ん~、んん~? なぁんだぁ~。おチビちゃんが寝そべって星を見上げてるだけじゃなぁ~い。つっまんないのぉ~」

「っそ、そうでしょうねっ。私はそんなことだと思っていたわ!」


 顔を赤くして動揺しているナキスルビアと、何もなくて残念だと唇を尖らせるリュッカは、レイドに詰め寄って何かを叫んでいるエルバーの後を追った。その後に、セルも続く。


「みんな、どうしてここに?」

「やっほぉ~。心配だったからぁ、二人の様子を見に来たよぉ~。あ~あ、賭けはあたしの負けかぁ~」

「え? 賭け?」


 レイドの呆気に取られた顔とルーリアの驚いた顔を見て、リュッカとナキスルビアは決まりが悪そうに笑った。



 その後。


「レイドがそんなことをする訳ないじゃないですか」


 ナキスルビアから事情を聞いたルーリアは呆れ顔となっていた。二人きりになったからといって、レイドがルーリアに何かをするなんて有り得ない。


「だいたい、その何かって何ですか?」

「……まぁ、それは……いろいろよ」

「レイドは大人なんですから、今さらイタズラなんてしませんよ」

「大人だからするんだなぁ~、これがぁ~」

「……??」


 訳の分からないことを言って笑っているリュッカは放っておいて隣に目を向けると、レイドに頭を踏みつけられたエルバーが土下座しているところだった。


「疑って覗きをしてすみませんでした」

「セルにも謝れ」

「騙して付き合わせてすみませんでした」

「……いや、あの、私は……」


 セルはレイドを止めるべきなのか分からずにオロオロしていた。


「ねぇ~、そんなことより花火もらってきたからぁ、みんなで遊ぼう~」

「えっ、花火!?」


 脳裏に甦る、創食祭での爆音。

 あれをここで打ち上げたら他の人に迷惑なのでは? と思ったけど、リュッカが取り出したのは手持ち花火という小さな種類の物だった。


「わぁっ、綺麗ー」

「でっしょぉ~」

「本当に火の花が咲いているみたい。すごく綺麗……」


 その後も、夏の夜の外遊びをいろいろ教えてもらい、ルーリアは初めての海を心ゆくまで楽しんだのだった。


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