キャロラインの回想

「急いでディーク王国に戻るぞ」


キャロラインを追い、フレデリックとローレンスが王宮に姿を消すのを見送ったリュカードの言葉に、アリシアははっと我に返った。


さっき姉のキャロラインが見せた微笑みは、自分が慕っていたーーずっと、ずっと昔の姉が時折り見せた、柔らかな笑みと同じだったと思う。その笑顔を前にいつ見たのか、思い出すのも難しいほど昔の。幼くあどけなかった頃と、美しく成長した今の姉とでは、見た目も随分違うけれど、あの温かな光の宿った瞳には、ひどく懐かしさを覚えた。

俄にはそれが信じられず、夢を見ているようにぼんやりとしていたアリシアの顔を、リュカードが気遣うように覗き込んだ。


「どうしたんだ。大丈夫か、アリシア……?」

「は、はい。大丈夫です」


慌てて答えたアリシアに、ザイオンが緊迫した表情で尋ねる。

「リュカード様の魔力を回復してもらっても?

敵の気配はなくなったけれど、転移魔法でディーク王国に戻ろう。……早く加勢しないと」


アリシアは頷き、リュカードの手に触れる。いつも少し冷たいその手に、しかし生きているとわかる温もりが感じられることが、とても嬉しかった。

リュカードはちらとアリシアの薬指の指輪に目をやり、ふわりと安心したように微笑んでいる。


イザベルは、クレアとノアを抱き締めて、堰が切れたように泣き崩れている。余程不安を隠してきたのだろう、泣きながらも、子供たちを抱く彼女の顔には安堵が滲んでいた。


ザイオンがその場に集う面々に呼び掛ける。

「さあ、ディーク王国へ。

リュカード様の転移陣に入ってください」


リュカードが描いた転移陣からは、既に淡い青色の光が立ち上っている。

立ち止まったままのローブ姿のシャノンを、ザイオンが手招きした。


おずおずと歩を進めたシャノンを、リュカードは転移陣に招き入れると真っ直ぐに見つめた。

「ありがとう、シャノン。君の回復魔法に助けられた」

「……!!

どうして、私の名前を……?」

「救護所で、怪我人の治療に当たってくれていただろう?…全員の名前は覚えている」


シャノンの目が見開かれる。涙が溢れそうになるのを隠すように、慌ててシャノンは下を向いた。


(私なんてリュカード様の視界にも入っていないと思っていたのに、覚えてくださっていたのね……)


シャノンの胸がじわりと温かくなる。リュカードのこの言葉だけで、この先何があっても耐えられそうだ、そう思った。


アリシアは、転移陣に入り、ノアに支えられたクレアに触れて魔力を分け与えると、目を見合わせて微笑んだ。イザベルも、人間離れした美しい顔を綻ばせてアリシアに頭を下げる。



転移陣に全員が集うと、青色の光が一瞬強く発光し、転移陣上の皆の姿がかき消えた。



移動の直前、イザベルが空をちらと見上げて、その美貌に眉根を寄せ、顔を曇らせたことに気付いた者はいなかった。


***

王宮内に歩を進めるキャロラインの心は、今までにないほどに凪いでいた。



私は幼い頃から、カーグ家の長女の名に恥じないよう、厳しく躾けられた。

けれど、それは自分の当然の責務だと思っていた。礼儀作法はもちろん、誰よりも魔術をはじめとする勉強に励み、決して努力を怠ることはなかった。

それを、周囲は当然のこととして受け止めていた。


1つ違いで生まれた妹のアリシアは、とても愛らしい子だった。自分の後をにこにことついてくる彼女を、何も知らなかった幼い頃は、とても可愛がっていた。

彼女が稀代の魔女の預言を受けた魔力持ちであったため、家族の期待は一心に彼女に向いた。私は、家族以外にも、キャロラインという一人の人間としてではなく、常に「アリシアの姉」として扱われるようになった。


欲しい物を強請った記憶もないし、我儘らしい我儘を言った記憶もない。

ただ、一回だけ、父に頼んだことがあった。

……フレデリック様に私も会いたい、アリシアと一緒に王宮に連れて行って欲しい、と。

アリシアが近々王宮に行き、フレデリック様に会うという話を耳にした私は、必死に父に頼み込んだ。


父は冷たい声でにべもなく私に答えた。

アリシアは将来、皇太子殿下と婚約する。お前は連れては行けない、と。



私が初めてフレデリック様をお見掛けしたのは、いつのことだっただろうか。

流れるような金髪に、幼いながら聡明さを映す碧眼の、あまりに美しい彼の姿に、私は一目で虜になった。

少しでも、彼に近付けるような人間になりたい。その一心で、勉強にもさらに身が入った。



そんな私の心を、父の一言は深く抉った。

私が心から憧れるフレデリック様は、あの子のものになるのだ。

彼女の生まれ持った赤紫の髪、一国を左右するほどという魔力には、私はどう頑張っても敵わない。


アリシアは努力家で、朗らかな優しい子だった。いつも皆に愛されていた。

近くにいて、単なる才能だけではない彼女の長所が身に染みてわかるほどに、彼女が疎ましくなっていった。私は笑わなくなった。

アリシアが、私に笑って欲しいと魔法を勉強している、そう聞いて、決して笑ってなどやるものかと思った。

……その時、つきりと心が痛んだ気がしたことには、気付かないふりをして気持ちに蓋をした。



アリシアさえいなくなれば。

私はそう思って彼女を憎むようになり、その命までも狙った。一度はフレデリック様の婚約者の座も手に入れたのに、それを奪っていったアリシア。しかも、アリシアを推したのがフレデリック様だったと耳にして、私の胸にはさらなる憎悪が燃え上がった。


けれど、婚約者の座を手にしたはずのアリシアは、フレデリック様を置いて、あっさりとディーク王国に去って行った。



フレデリック様は、それでも婚約者の座を空けたまま、新たに誰かを婚約者に決める気配はない。

心に穴が空いたような虚しさに囚われていたある日、王宮に仕事で立ち寄ることがあった。


その日は天気が良く、噴水の側で美しく咲き誇っている色とりどりの花々が、陽光に照らされてきらきらと舞い散る噴水の飛沫の中で輝いていた。

普段はそれを横目に見て通り過ぎるだけの私は、その日は珍しく、噴水横のベンチに腰を下ろした。


そんな時でも、私の頭を占めるのはただ一つのことだった。

……フレデリック様も、ここにいらっしゃることはあるのだろうか。この美しい景色を愛でることも、あるのだろうか。


音もなく溜息を吐いた時、誰か人の気配を感じた。


まだ幼い銀髪の男の子が近寄ってきて、ちょこんと私と同じベンチの逆側の端に腰を下ろした。

私は子供が嫌いではないけれど、アリシアのように得意でもない。ただ黙って座っていると、彼がふとこちらを見て、口を開いた。


「……お姉ちゃん、僕の知ってる人と、同じかおをしてるね」

「……同じ顔?」


思わず怪訝な顔で聞き返すと、彼はふっと笑った。

「うん。フレデリック様も、よくお姉ちゃんみたいな表情をしてるよ。

遠くをみるような、心がここにないような、そんなかお」


一瞬、虚を衝かれたように言葉を失ったけれど、私の胸に訪れたのは意外な感情だった。


「ふふ。……は、はは、あはは……!」


男の子は私が突然笑い出したのに驚いたように目を瞠ったけれど、何も言わなかった。


フレデリック様の考えは手に取るようにわかる。だって、その気持ちは、私と同じだもの。

自分の手をすり抜けていったアリシアを、今もずっと、忘れられずに、切なく想い続けているのだろう。


どれほど想っても、私の気持ちの一片ですら返してくださらない、フレデリック様。形だけ笑っても、心からの笑みを向けてくださったことはない。

そんな彼を一方的に想い続けるのは、時に苦しく、どす黒い感情が胸に湧き上がることもある。……それでも、彼しか見えないのだから、仕方ないのだけれど。


そんな彼に、同じ苦しみを味わわせているアリシア。

それに少し胸がすくと思ってしまうなんて、私も随分捻れた感情を持て余しているのだろう。



久し振りに、王宮で見たアリシアは、ディーク王国の騎士に守られていた。

アルスと私が魔法を戦わせていた時、彼女が魔具から放った弾は、アルスと私の間で激しくぶつかった双方の魔法を消滅させた。

……なぜ、私の魔法だけを消滅させなかったのか。

あの時は私が押していたとはいえ、アルスの魔力は相当なものだ。私の魔法だけを無効化すれば、私はその場から吹き飛ばされるくらいの衝撃は受けただろう。


驚いてアリシアを見た私と、彼女の目が合った。

彼女はほっとしたように、けれど寂しそうに、微笑んでいた。



あの銀髪の男の子にローレンスの剣が刺さりそうになった時も、あの子はまるで自分のことのように、絶望したような顔をしていた。

……私も、あの男の子は気に入っているしね。最後に、一度くらいは、アリシアを笑顔にしてあげてもいいんじゃないかしら。


私が振り向いてアリシアに微笑んだ時、彼女は驚いて、呆けたような顔をしていたわ。笑顔は見られなかったわね。

それでも。


(もう、思い残すことはないわ)


身震いするような気配が迫っているのは、間違いない。

けれど、いっそ清々しいような思いで、キャロラインは自らの最期の時を迎えるために、王宮の奥へと進んで行った。

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