63.ビビビ(円)


 お兄ちゃん、と言う声に振り向く。


 教室に入ってきたニコは着ぐるみを脱いでいた。代わりにいつもの制服を着ていた。


「やっぱりここにいた」


 肩で息をしながら、ニコは微笑んだ。


「何となく、ここにいるかなって」


 教室の電気を点けていなくて良かった。頬にへばりついた涙をソッと手でぬぐう。ニコはおずおずと俺の横に腰掛けた。


 会話もなく窓の外を見ていた。


 校庭は暗くなっていた。街灯で隅っこのテニスコートがうっすらと照らされている。風に飛ばされてしまったのか、文化祭で使ったピンクの花飾りが落ちているのが見える。


「楽しそうだね」


 え、と思わず言葉が出る。


「後夜祭。いつの間にか始まっちゃってた」 


 体育館は煌々こうこうと明かりが灯っていた。


 壁にかけられた時計を見ると7時近く。そろそろ終わる時間だ。もうクライマックスだろう。楽しそうな歌声や音楽が、ここまで届いてくる。


 ニコはその音を聞きながら、楽しそうに脚をぶらぶらさせていた。


「もうすぐ終わりかな」


 何を言えば良いか分からなかった。


 自分の気持ちに整理がつかない。ニコがどんな気持ちで俺のところに来たのか分からなかった。拒絶ではないと願いたい。


 それも虫の良すぎる話か。


「なんだかね」


 再び彼女は口を開いた。


「ここに来てから楽しいことばかりで困っちゃって」


 長い間放置されていた机は、彼女が動くとキシリと音がする。


「幸せなことが続くとかえって不安になるの。これがずっと続く訳ない、って心のどこかで思っている。不幸なことがずっと続かないのと同じ様に。幸せなこともずっと続く訳ないんだよね」


 それからニコは昔の話をした。


「ママのこと」


 静かな声だった。


「病気だった。パパの話を聞いたのはもう最期の時。多分、私に言える最後のチャンスだと思ったんだろうね。ごめんね、って謝ってた」


 聞かなきゃ良かったって思った、彼女はそう言った。


「それから家族のことが嫌いになった」


「嫌いに?」


「嫌いだった、無責任だから。でもバーバからママの話を聞いてちょっと変わった」


 ニコはロシアの祖母から、母親の昔の話を初めて聞いたそうだ。


 彼女の母親は頭の良い人で、強い好奇心は本の世界に向いた。ニコがロシアに行った時、母親の部屋は分厚い本に囲まれていた。


「チェーホフ、ツルゲーネフ、ゴーゴリ、ドストエフスキー」


 指折り数えて、ニコは呟いた。


 成人すると彼女の母親は家を出た。

 もう小さな村では、彼女の好奇心と自立心を埋めることはできなかった。


「ママは多分、家族を持つことに向いていない人だったんだと思う。だから結婚しなかった。それで十分だったから」


 それ以上は重すぎたんだと思う、とニコは言葉を続けた。


「でも私には必要だった」


「家族が?」


「うん。うらやましいって思ったのは一度だけじゃなかったな」


 深い息を吐きながらニコは言った。


 ニコが感じた気持ちは知っている。うらやましい。自分が欠けていると感じる。周りから取り残されている気がする。


 でもそれを自分の力では埋めることができない。


「日本に来たのはね。もしかしたら私が欲しいものが手に入るかもしれないって思ってたから」


「ニコの欲しいものって」


 何だ、と問いかける。


 考え込むようにニコは沈黙していた。ようやく彼女が口を開いた時、辺りはさっきよりも暗くなっていた。


「お味噌汁かなあ」


 ニコはそう言って、また視線を伏せた。


 悲しんでいるか、落ち込んでいるように見えた。窓から入るわずかな光のせいだろうか。今の彼女は白くぼんやりと、はかなげに見えた。


「ごめん」


 謝罪が口をついて出る。


 その先、どんな言葉を選べば良いのか分からない。


「さっきのこと聞かなかったことにして欲しい」


 それはそれで最低だ、自分で感じながらも、喋り始めると止められなかった。


「その場の弾みと言うかさ」


 下手な言い訳。声が震えている。


「そんなもん。無理なのは知ってるし」


 嫌になる。

 俺が言いたいのは、そんなことじゃなくて。


「兄妹としてさ」


 言い訳がしたいんじゃなくて。


「このまま隣にいて欲しいだけなんだ。それだけは本当なんだ」


 ニコに嫌われてしまうのが、怖かった。ひょっとすると、彼女がいなくなってしまうんじゃないかと思った。

 今更こんなこと言っても手遅れかもしれない。自分の気持ちは、あまりに身勝手で間違っている。


 言葉を吐き出して胸が痛い。

 まだ彼女が隣にいてくれることが、何よりの救いだった。


「お兄ちゃん」


 顔をあげる。

 ニコはさっきよりも近くに寄ってきていた。

 

 目が合った。


 パンと遠くでクラッカーの破裂する小さな音がした。歓声と拍手。体育館の方から聞こえてくる、壁越しのくぐもった音。


 また静かになった。


 それから。


「あ」


 それから。


 柔らかいもの。

 胸の中に徐々に彼女の匂いが広がっていく。いつもお風呂あがりに嗅ぐ匂い。それがもっと近く。鼻がこすれている。頬が触れている。


 その感覚がするりと離れていく。


 伏せた顔に、影がさしている。


「私も、円のこと、すき」


 長い髪が夜風に揺れている。頬がほんのりと赤い。


 どうして、と呼ぶ声がかすれる。身体が動かない。


 ただ触れた唇だけが、感電したみたいにしびれている。 


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る