51.欲しいもの(ニコ)
お風呂から上がってドライヤーで髪を乾かしていると、ばーんと玄関が開いた。朋恵さんが帰ってきた。
「ただいまー!」
「お帰りなさい、今日はサンマです」
「お。良いねえ。あれ、円は?」
「なんか外を走ってくるって言ってました」
夏休みに合宿所でダウンしたことを反省したのか、円は最近ランニングを始めた。20分くらい外を走ってから帰ってくる。
「飯食った後にランニング? 変なやつ」
朋恵さんは発泡酒の缶を開けると、ゴクゴクと飲み始めた。
「ね。学校どうだった、初学校」
「楽しかったです、とても」
「良かったあ。どう、馴染めそう?」
「はい。大丈夫だと思います」
朋恵さんはサンマに箸をつけた。大根おろしに醤油をかけて、ご飯と一緒に口いっぱいに頬張っていた。
「困ったことがあったら、私か円に言うんだよ。役に立つ時は立つはずだから」
「頼りにしてます」
「お。噂をすれば」
玄関の鍵がガチャガチャと開いた。
「ただいま」
玄関から入ってきた円は、ジャージを脱いで脱衣所に放り投げた。その様子を見て、朋恵さんはけげんそうに眉を下げた。
「どしたの。急にランニング始めるなんて」
「いや、俺も竹満見習おうと思って」
「もしや筋肉つけてモテようとか。好きな女の子でも出来たの」
「違う。体力つけたいだけ」
「何よう。ムキになっちゃって。やっぱり誰か好きな子ができたんだ」
朋恵さんの言葉を無視して、円は脱衣所のドアをバタンとしめた。
「反抗期だ」
もぐもぐと白米を噛みながら、朋恵さんはジッと目を細めた。
「怪しい」
「そうですか」
「うん。いつもと違う。ニコちゃん何か心当たりある?」
めちゃくちゃある。
天道さんとのやりとりをもっと聞きたかったけれど、円は逃げるように外に走って行ってしまった。ご飯を食べたばかりなのに。
「ちょっと分からないです」
「ふうん。そっかあ」
このサンマおいしいねえ、と見事に完食してくれた。微笑む顔は円とそっくりだ。
食器を片付けて、押し入れから布団を出す。広げた布団に寝転んで本を読んでいると、お風呂から出た朋恵さんが隣でゴロンと横になった。
「はー、さっぱりした」
寝巻きに着替えた朋恵さんは、髪をお団子で結んでいた。
「何読んでるの」
「源氏物語です。家から持ってきたやつで」
「面白い?」
「面白いですよ。とっても」
「学校で読まされたけど、覚えてないなあ。どんな話だっけ」
「恋の話です。ロシアの家から持ってきたんです」
ニコちゃんのお母さんのやつだ、と言った朋恵さんは伸ばした足をバタバタさせた。
「ねえ。ニコちゃんのママってどんな人?」
朋恵さんはニッコリと微笑んだ。ママのことを聞かれるのは久しぶりだった。
「あ。前のスマホに写真があって」
それが懐かしくて嬉しい。
部屋の隅に置いてあるスーツケースからスマホを取り出す。アルバムをパソコンに保存しておいたやつがあった。
「昔の写真ですけど」
「うわあ。めちゃくちゃ美人。いつごろ?」
「28歳で日本に来た時のです」
「そこでうちの旦那と出会う訳か。そりゃあ惚れるわ、こんなもん」
むしろどうやって付き合うことになったのか、と不思議そうに朋恵さんは言った。
「分からないです。ママはあんまりパパのことは話さなかったので。どうやってとか、そう言うのはあんまり」
「そっかあ。謎だねえ」
「謎です。本当に」
うんうん、と難しい顔で朋恵さんはうなずいた。隣の部屋は静かだった。円はもう寝た頃だろうか。多分、スマホでもいじっている気がする。
「あの。私から聞いても良いですか」
「もちろん、何?」
「パパ。どんな感じでした」
「浮気性で顔だけは良い」
「その前です。朋恵さんと出会った時」
「あー、そう言うことか。恥ずかしいこと聞くね」
照れたように、朋恵さんは頭をかいた。
「なんかこう、ビビビってきた」
「ビビビ?」
「電流が流れたみたいな。最初に出会ったのは六本木かどっかのバー」
「朋恵さん、東京にいたんですか?」
「うん。出稼ぎというか。実はね、これでもバツ1」
正確にはバツ2か、と思い直したように言った。
「で、最初の離婚してやさぐれてた頃に出会ったのが、円のお父さんであり君のパパだった」
「一目惚れってことですか」
「そうなのかなあ。恋の電流。いやあ顔だけは良かったし、
若かったなあ、と朋恵さんは深いため息をついた。
「それが人生最大の過ち」
「でも素敵です」
「そうかね。ニコちゃんはそういうのない? ビビビ」
「ビビビはないです」
「きっと、そのうちあるよ」
「どうですかね」
想像がつかない。
「あんまり、そういうの分からないです。どんな感じなのか」
「ビビビッて感じ」
「ちょっと怖いです」
「うーん。それもそうか」
朋恵さんは納得したようにうなずいた。
「ニコちゃんは家族に会いに来たんだもんね」
そうですよ、と言うと朋恵さんはおかしそうに笑った。頬をすりすりされた。くすぐったくて温かい。
「やっぱりニコちゃんも子どもだなあ。可愛い」
「ごめんなさい。甘えてばかりで」
「甘えて良いんです」
「それじゃあ。遠慮なく甘えちゃいますけど」
「うんうん」
朋恵さんに強く抱きしめられた。背中を撫でる手は、お婆ちゃんの小さな手に似ている気がする。だんだんと手の動きがゆっくりになって、寝息が聞こえてくる。
「おやすみなさい」
暗がりの中でさっきの会話を思い出す。
「ビビビかあ」
分からないしまだ知らなくても良い。ふすまの向こうで寝ている円にも、小さな声で「おやすみ」と言う。
目を閉じる前に、さっき指で触れられた唇を自分でなぞってみる。
先にやったのは自分だけれど。
あれは何かこう、ちょっと不意打ちだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます