掌編小説・『地図』

夢美瑠瑠

掌編小説・『地図』

       掌編小説・『地図』


   「地図は、土地の地理の図表という意味だろうが、図と地、ならこれはゲシュタルト心理学の話題であろうか。

「ルビンの盃」は、二通りの認識ができる図であって、前景になるのが二人の女性のゲシュタルトであるか、盃のゲシュタルトであるか、というのはたやすく反転して、同時には認識できない。

 地があって、図があり、図があって地があるという相補的な構造になっているからである。

 こういう事実を敷衍すると、様々な心理学的な事象に応用されうるのだ。

 男性と女性というのも相補的な項目であって、相容れない。闘争と愛も相容れない。サディストとマゾヒストも全く異質な性向であって、本来は相いれない。

 しかしこうした対立した要素が融合しうるのは唯一セックスにおいてである。

 セックスというのはこうした異質なモノを止揚する人間的な弁証法であって、一種のオールマイティなマジックなのである。・・・」


 ここまで記述して、老心理学者の露地八州子は、煙草に火をつけた。

 彼女は地味に心理学を研究している場末の学究で頼まれて「ゲシュタルト心理学の臨床への応用」というテーマの論文を書いているのだが、こういうテーマはすでに書き尽くされているので、新味を出すのが難しいのだ。

 結婚はしているので性体験は豊富で、このあとセックスというものの人間精神への様々な影響、癒しになったり、欲求不満の元凶になったり、人間相互の絆を深めたり、そうした特殊な役割について体験に基づく考察を繰り広げれば面白い記事になりそうだが、それだと、少し古いが「ドクトルチエコ」みたいになりはしないかと、自分のキャラクターの同定が難しい感じになりそうでもある。

 で、進めにくくなったのである。

 セックスとは何か?というテーマに絞って、哲学的に深く考察をすればいいのだろうか? 自ずと人間存在の根源みたいなものに肉迫できそうだ。


「一つの漢字とかをずっと見続けているとやがて認識できなくなる「ゲシュタルト崩壊」という現象については夏目漱石が「神経症の症状?」かとして小説に記しているが、セックスのオーガズムも異なった二つの要素がせめぎ合った挙句に、融合しあって、それぞれを構成している枠組みや閾が消滅するようなゲシュタルトの崩壊を起こす、そういう特殊な位相の現象とも考えうる。

 言い換えればそうした固陋な自我の崩壊が生じなければ、生殖とか愛とかいう特殊な「錬金術」を惹起する「賢者の石」の介在する「奇跡」も起きないのである。

 或いはゲシュタルトは退屈な日常で、その図と地を反転させる非日常そのもの、それが人間にとってのセックスなのかもしれない。

 非日常が図になったとき、二人の人間は特殊な祝祭空間に入って、退屈な日常を超越する。そうした日常の澱の相対化や異化が、普段アンビバレントな分裂と葛藤に苦しめられている、人間精神の癒しとして効果を発揮するのではないか?

 おとぎ話や悲劇ののカタルシスのように働くのではないか?

 主体と客体の認識の齟齬に引き裂かれているだけの精神の分裂は、すなわち人格の荒廃、現実との蹉跌に繋がり、そうした過去と自我と死を超越する、精神の全的な融合、融即というのが現実の中で生き生きと生を生きる、健康な精神の現象なのである。セックスという最も人間的な基本的な男女の営みを通して、ようやく精神の健康というものは担保されうるのかもしれない。

 セックスがなければ男性と女性もサディズムとマゾヒズムも、乖離して疎外しあって単なるDVやいじめになるだけである。

「ルビンの盃」という冷たい静態的な構図の中に閉じ込められている二人が現実にダイナミックに触れ合う時に、愛というルネッサンスが起こるのだ。

 “セックスは人間にとって究極的効果的な癒しとなる。愛という最も尊い価値の受肉である”

 そうした普遍的な常識は、ゲシュタルトな心理学の知見を通しても、矢張再発見されうるのである。」


 少し陳腐だけどこれでもいいわ、と八州子は筆を擱いて缶ビールのふたを開けた。

 ぐーっと一息呑んで、「男女の営み、か」とニヤニヤした。

 そうして、机の上に置いた年下の“女性の”愛人の写真を取り上げて、愛おしそうにキスをするのだった。



<終>

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

掌編小説・『地図』 夢美瑠瑠 @joeyasushi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ