第21話 姉妹

 決して盗み聞きするつもりはなかったが、エレナは出し損ねたコーヒーを盆に乗せたまま、マリアンとペレウス、カラーの会話を耳にした。密入国という言葉は彼女の心をざわめかせた。ペレウスが階段を上がる音が消え、談話室が静まり返ると、彼女は1人残ったカラーに呼び掛けた。

「……カラーさん?コーヒー、遅くなってごめんなさい。邪魔しては悪いと思って……。」

カラーは慌てた様子で答えた。

「いえ、大丈夫です。すみません、ありがとうございます。」

先ほどの粗野で冷徹な彼女と、今の可憐でおどおどした彼女の対比はエレナを戸惑わせた。

「ストーブはつけておくけど、まだまだ寒くなるから、これを使ってくださいね。」

エレナは戸棚からブランケットを出した。カラーは丁重にお礼を言うと、やや照れるような様子で言った。

「実は、エレナさんにお礼を言いたいことが。以前私の妹がこちらにお世話になったのです。彼女は大変楽しかったと言っていました。」

「妹さんが?いつかしら?」

「4,5年前です。彼女がそう言うなんて本当に珍しいことだったので、私も嬉しくて。」

「それは嬉しいわ。接客業冥利に尽きます。」

カラーはどこか迷うように口角を上げた。弱く美しい微笑だ。

「それだけではなくて……。貴方は私たちの恩人なのです、本当に。」

 カラーの青みがかった暗く豊かな金髪は、発話に合わせて僅かに震えている。その繊細な姿とか細い声色を前にして、エレナはふと今朝庭で見かけた野ばらを思い浮かべた。先日の大霜で花が散り草の色がすっかり変わった花壇に、独り遅れて花弁を開いたのだ。彼女の華麗な容姿には、そういう類の物寂しさがあった。

「先ほどの話、お聞きになりましたよね。私たちが不法なルートでウィーンに行くという話。」

「え、ええ……。」

「通報が必要だとお思いなら、私は止めません。だけど彼らを追いかけている相手は、国境などなんとも思っていないし、その気になればいつどこで越境したかも調べられる集団です。先日フェイトンさんのおじいさまが殺されたのはご存じですか?」

エレナが言葉を失っているのを見て、カラーは否定の意と理解した。

「私たちはその犯人も追手の一味だと思っています。そういう相手です。だからマリアンがこのロッジで集合したいと言ったのも、正直気が進みませんでした。エレナさんを危険にさらしたくはありませんから。」

 カラーは優美な透かし彫りの白い封筒を差し出した。エレナは初めて、彼女が何者なのかを理解した。

「じゃあお兄様というのは、アルファルドさんなのね?」

「ええ、その通りです。封筒を開けてください。それはブダペストにある私の家の鍵と住所です。残りの鍵は1つ、私しか持っていません。安全は保障します。」

「なぜ私に……?」

「何か危険を感じたらその家を使ってください。」

「そんな、いきなり言われても……。」

カラーは小さく微笑んだ。

「そうですよね。あくまで万が一です。」

「彼らは一体どんな危険巻き込まれているのです?」

カラーはぎこちなく続けた。

「彼らだけじゃない。歴史記述調査共有委員会はもちろんご存じですよね。今委員会を巡って大きな変化が起きようとしています。誰も無関係ではありません。マリアンも、エレナさんも、私も、ズヴェスダも。」

「え?」

エレナは怪訝な顔で聞き返した。

「……正直勧誘するような表現は気が引けますが、もしまだ貴方がズヴェスダについて知りたいと思ってくださるなら、この家を訪ねてみてください。私はいつでも歓迎ですから。――――。」

カラーは更に言葉を続けようとしたが、上階で物音がすると黙ってしまった。

「……そうだわ、まだ少し時間があるから、ズヴェスダさんの写真とかをご覧になる?」

「いいのですか?ぜひ。」

カラーは遠慮がちに続けた。

「兄からは彼のノートがあると聞いているのですが。」

エレナは気まずそうに微笑んで答えた。

「ええ。ごめんなさい。ズヴェスダさんからは処分するよう頼まれたのだけど……。」

「いいえ、とんでもありません!むしろ保管してくださって本当に嬉しいのです!是非見せてください、確かここでの天体観測の記録もあるとか……!」

カラーは目を輝かせて口調を強めた。

「ええ、もちろん。ズヴェスダさんは天体観測が趣味で、私がこの町の出身だと知ると何度かここに泊まってくれたわ。」

「やはりこの辺りは星を見るのに向いているのですね。近くに大きな観測台が2つもある。」

エレナは冊子を出してきてカラーに差し出した。彼女はどこか懐かしそうにノートを捲っていたが、あるページに至るとそこに書かれた文言をじっと見つめた。

『……カリストは偉大な星座だが、私はその端にある金の星にこそ目を奪われる。その可憐な様を見ると、私はかつて私に心を砕いてくれた方を思い出す。』


 午前2時過ぎ、ペレウスは結局通報しないまま談話室に降りてきた。マリアンは僅かに微笑んで言った。

「さっきはすまない。ありがとう、ペレウス。」

「いや、私こそ。何か委員会への不信に関わる秘密の問題があるなら、私はそれを調べないと。……移動方法はやはり納得いかないが。」

「それはそうだ。だがもし拘束されても、僕に誘拐されたと言えば多分大丈夫。」

「言わないよ、そんなこと。……フェイトン君は?」

「僕はここです。」

フェイトンは荷物を背負って立っていた。

「君ら2人は一先ず後ろに乗ってくれ。僕が運転するから。」

「そんな隈で大丈夫なのか?」

「グラーツまでのルートはカラーしか知らないんだ。だが僕が助手席で居眠りするわけにもいかないし。」

「君の車は?」

「前のホテルの駐車場に停めてきた。」

「大丈夫なのかそれ……。」

「見つけさせた方が好都合だ。ついでに僕らが出国していない事を調べてくれたら。」

 エレナは4人が乗ったバンを見送ると、1999年と2000年の宿泊者台帳を出して、名前をなぞりつつ1人1人思い出していった。カラーは精々20代半ば、彼女の妹なら3,4年前の時点で10代後半以下だったはずだ。だがハンガリー人にもオーストリア人にもそれらしい人物は見つけられなかった。しかし彼女は気になる名前を見つけた。

「リゲル・サンドラ?」

 地理柄ハンガリー人宿泊客は少なくない。だが彼女の連絡先はアテネ市内だ。彼女は何となく調査共有委員会のウェブサイトにリゲルの名前を打ち込んだ。インターネットはそもそも故障などしていない。マリアンに頼まれるまま外国人2人にインターネットを使わせなかったのだ。だがペレウスやカラーの様子を見るに、その行動が間違いなのではと思い始めていた。

 彼女は委員会公報紙のアーカイブを辿り、彼女がアテネ本部広報官や北京本部長を歴任したこと、そして今年の8月19日に死去したことを突き止めた。だが彼女の享年は49である。リゲルの妹である筈がない。だが彼女はアルバムでリゲルの写真を見つけて驚いた。年齢差相応の違いはあれ、彼女はカラーに瓜二つだったからだ。

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