第20話 猟犬
物音を聞きつけたマリアンとフェイトンが階段を下りてきた。マリアンは一瞬驚くと、笑顔で彼女を迎えた。
「カラー、まさか君にご足労いただいてしまうとは。」
「兄じゃなくってごめんなさいね。」
「いや、そうじゃないよ。申し訳ないと思って。どうもありがとう。」
「そちらが例の中国人?カラーです、どうも。」
カラーは極めて整った顔を初対面の中国人に向けると、珍しい金褐色の瞳で相手をねめつけるように挨拶した。フェイトンは美貌と粗野な態度に圧倒され1,2歩後ずさりした。
「フェイトン・イエです。」
「はは、とにかく無事に着いてよかった。彼がペレウス、彼女がエレナさんだ。」
「エレナさん……。」
そう呟くカラーに、エレナはにこりと微笑んで言った。
「外は寒かったでしょう。何か飲み物を持ってきますね。」
エレナの言葉に、カラーは以外にも恐縮して答えた。
「あ、いえ、ありがとうございます。ですがどうぞお構いなく。」
台所へ向かうエレナの背中を見届けると、カラーは再び冷淡な態度に戻って言った。
「あと1時間したら出発しましょうか。何事も無ければ、夜明けにはグラーツに、昼にはウィーンへ着くと思う。宜しい?じゃあ解散。」
フェイトンは咄嗟に尋ね返した。
「すみません、今どこへ向かうと仰いましたか?」
「何処って、ウィーンだけど。今言ったでしょ。」
カラーは意味不明と言わんばかりである。ペレウスも続けて説明した。
「私たちはトリエステ経由でアテネ本部に彼を送り届けると……。」
カラーは非難とも軽蔑ともつかない眼でマリアンを見た。マリアンは気まずそうにしている。ペレウスはエレナに聞こえないよう、声を低くして事情を説明した。
「それに深夜は越境検問所が閉まっているはず。夜明け前に出国するのは無理です。」
「もちろん存じているわ。フェイトンさんが追跡されていることも。だから密入国するって話よね。」
「え……!?」
ペレウスはマリアンを振り向いた。マリアンも彼を見返している。
「おいマリアン―――。」
「貴方には2つの選択肢がある。フィデリオさん、私たちと一緒に来るか、ここでお別れするか。」
「あと数時間待って出国すればいいでしょう?それにフェイトン君にも法を犯させるわけにはいきません。」
「分からない人ね。目晦ましに決まってるじゃない。今動かなければ、そこの彼はもっと大きな問題の犠牲になる。貴方だって他人事ではないはずよ。新北京本部長のペレウス・フィデリオさん。これは委員会に関わることだから。」
「委員会!?じゃあやっぱり祖父と関係あるのですね!?」
カラーは憐れむような視線を向けた。
「当然でしょう。詳しくは私の兄から聞いて。聞きたいなら一緒に来て。」
フェイトンは息をのんだ。その様子を見て、ペレウスは彼女に問いただした。
「ちょっと待ってください。なぜカラーさんのお兄様が委員会についてご存じなのです!?」
「貴方が知らないだけ。それに真っすぐ北京に行くと言いつつ、貴方がここで呑気に道草喰っていた事も、既に委員会側に露見しているかも。」
カラーは吐き捨てるように言った。だがペレウスは彼女の攻撃的な態度よりも、その言葉に驚いた。自分が北京に直行するなど、それこそ弟にしか告げていない。カラーは子供に尋ねるようにマリアンに訊ねた。
「マリアン、何も話してないの?どこまで話したの?」
「いや、……故意に隠したわけじゃない。僕だって詳しい事情を知らないから、説明したくてもできなかった。」
マリアンは気まずそうに言葉を取り繕った。暗い暖色の照明の下、彼の顔は青みがかった土気色に見える。
「まあ仕方ないわ。「思いもよらない事」が「次々」起こったから。じゃあ準備が出来次第ここへ集合、いいわよね?」
カラーは鋭い発音の英語で言った。
「分かった。フェイトン君も大丈夫か?」
フェイトンは頷いた。密入国の罪悪感やカラー兄妹への漠然とした不信感より、祖父の事を知りたい気持ちで一杯なのだ。
「分かりました。……僕は祖父のことを知りたい。カラーさん、よろしくお願いします。」
カラーはエレナへの態度と同様に慈愛を込めて呟いた。
「ええ。私のできる限り協力しましょう。」
フェイトンは彼女の返事に安堵すると、ファイルを調べるべく再び2階の客室に戻った。そしてカラーがふらりと姿を消すと、ペレウスは低い声を一層低くしてマリアンを問い詰めた。
「彼女が協力者?」
「ああ、正確にはその妹だけど……。」
「妹?何でもいいが、密入国ってどういうつもりだ?フェイトン君までそそのかして!」
「最初は兄の方がこっちに来てくれると。でも急遽ウィーンから離れられなくなったらしく———。」
マリアンの煮え切らない返事に、ペレウスは青白い顔を紅潮させていった。
「妹に密入国を手伝わせる兄なんて、それだけで信用に値しないだろう!」
「それは……そうだが。彼女たちは特別なんだ。」
「特別?法律を破る特別な権利の持ち主と言いたいのか?」
「いや、でも例の奴らに追い付かれる前に合流しないと。」
「待てよ。カラーさんは追跡者の正体を知っている様子だったな。君も知っているんだろう。さっき私には誤魔化したが。」
「違う、それは違うよ。僕も彼女の兄から聞いただけだ。ウィーンに行けばその辺もわかる。」
「君がここで教えてくれればいい。その兄が言った通りに。」
マリアンは苦々しい表情で言った。
「そうしたいのは山々だ。本心だよ。だけどこう言いたくはないが、今の問題に関して、君は彼から完全に信用されたわけじゃない。」
「は?それはこっちのセリフだ。」
「それはそうだ。疑うのは当然だ。だが彼も委員会とミラ博士について情報を持っている。ミラ博士の個人的記録は、殆ど残されていないだろう?彼はその理由を知っている。」
「ミラ博士の記録が少ない訳は私にもわかる。不慮の死と戦禍で史料が散逸してしまったからだ!」
マリアンは小さく微笑んだ。それは不器用な愛想笑いに他ならないが、ペレウスは俄かに自分の無知を嘲笑されたと感じて怒りを爆発させた。
「ああそうか、自分だけ知った風をして楽しいだろうな!!勝手にすればいいじゃないか、私は今ここで君たちの密入国を通報するだけだ!!」
「何も隠し通すつもりはない、何度もそう言っているだろう!」
マリアンも声を荒げるので、ペレウスは引っ込みがつかないまま彼に詰め寄った。
「じゃあなぜ曄蔚文博士を餌に密入国なんてさせる?フェイトン君を危険に晒さないと君が言ったじゃないか!無暗に危険な橋を渡らせるな!委員会と警察に連絡して、彼が怪しい集団に負われているから身柄を保護して欲しいって言えばいいのさ!」
するとマリアンは突如ペレウスの胸倉を掴んだ。彼は初めて相手に不機嫌な表情を露わにした。
「まさか君は警察や委員会に話せば全て解決できると、本気で思っているんじゃないだろうな?」
「それが解決への第一歩だろうが!違うか!?」
「いいや、違うね!君は早く彼を誰かに任せたいらしい。そりゃ自分の手を離れれば楽だろうな。」
「はあ!?君にだけは言われたくないが!!」
今度はペレウスが相手を突き飛ばした。マリアンは一度大きくよろめくと、すぐさま体制を整え彼に詰め寄った。
「君は何処か他人事だな。なぜだ?君の前任者が急死して、北京で曄蔚文が殺害されて、君は北京本部長になる。気づいていないようだが、君は最も核心に近い1人だ。なぜ自分の問題だと思わない!?」
「私が無関心だと言いたいのか?私はただ話を聞かせてほしいと頼んだだけだ、最初に君の家を訪ねた時からずっとな!」
マリアンは目元に青茶の隈を作った顔で言った。
「……僕は確かに隠した。それは本当に申し訳ない。でも君は問題に近すぎる。だから「彼」は君を完全に信用していないんだ。君に疑惑が無いとわかれば、彼は包み隠さず話すさ。」
「それで君が既に知っている事を、漸く私も知れるってか?じゃあ私は行かない。警察かアテネ本部にでも連絡する。密入国なんてさせるものか。」
マリアンの顔は忽ち蒼白になり、額には薄っすら汗が滲んでいる。
「だから委員会には問題があるんだ!懇切丁寧に説明しなければ、僕は信用に足らないのか……?」
「君がどうこうじゃない。だがフェイトン君の身の安全にも関わるんだ。全部とは言わない。委員会の何が問題なのか、そして協力者は何者なのか、それだけ教えてくれればいい。」
「はは、君だってフェイトン君を「だし」にしているじゃないか……。でも僕は君の信頼を得たい。君に話すよ……。」
マリアンの唇は震えている。ペレウスは彼の様子に動揺したが、ここで引き下がるわけにはいかなかった。
その時、談話室を包む沈黙を冷徹な声が切り裂いた。
「もう準備できたの。」
戸口にカラーが立っている。マリアンはぎくりとして彼女を見た。
「いや、まだ……。」
「じゃあ早く行って。お喋りする暇ないでしょ。」
ほら、と再度催促され、2人は渋々その場を後にした。カラーはペレウスに近づくと、凍えるほど冷たい声で言った。
「通報する?勝手にすれば?貴方を信じているのはマリアンだけ。貴方は彼の信頼に応えて、自分が多少なりとも信用に耐えうる人間だと私たちに示すべきだと思うけど。」
カラーは数秒の間、相手の出方を窺うように沈黙した。ペレウスは今度こそ黙るより他なく、逃げるように2階へ向かった。
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