第18話 知りたがりの男
ペレウスはマリアンに問いただした。
「協力者って誰だ?なぜ協力してくれるんだ?」
「彼が来たら本人が説明するよ。」
マリアンの飄々とした態度は、いつになくペレウスの癪に障った。彼は忌々しい口ぶりで尋ねた。
「フェイトン君を追いかけている奴は、曄蔚文博士を殺した奴の仲間かもしれない。詳しい説明もしないままエレナさんを巻き込むなんて、何かあったらどうするんだ。」
「だが中途半端な説明なんてできないだろ。彼女は鋭い人だ。並みの誤魔化しは逆効果、わからないなら正直にそう言った方が良い。」
「良いって、良いのは君にとってだけじゃないか。君は知らない分からないと言いながら、協力者を用意して私たちをここまで連れてきた。私はその行動の理由が知りたいだけだ。」
「行動の理由?」
「そうだよ。そう行動する根拠を、エレナさんやフェイトン君も知らないと。気づいたら事件に巻き込まれていたなんて気の毒だろ。」
「それもそうだ。アドバイスしてくれてありがとう。彼女には僕から説明するよ。」
「そうしてくれ。ついでに私にも―――。」
ペレウスの言葉を待たずして、マリアンは身を翻して談話室を出て行った。相変わらずどこ吹く風の表情をしているが、何か機嫌を損ねたのだろうか?だが機嫌が悪くすべきはこちらの方だ。マリアンに何か悪い企図があるとは思いたくない。ただ今知っている事を教えてくれればいいだけなのに、なぜ彼はそれをしないのか。
ペレウスは彼を引き留めることもできず、だからと言って疑念に任せてフェイトンを連れ外に飛び出す勇気もなく、誰もいなくなった暖炉の前で塞ぎ込んでいた。
「フィデリオさん、いいかしら。」
振り向くとノートの束を持ったエレナが立っていた。彼女は立ち上がろうとしたペレウスを制止し、向かい側のソファに腰かけるとドイツ語で話した。
「別に聞き耳を立てるつもりはなかったのだけど。」
「いえ、……騒がしくてすみません。」
「去年かしら、マリアンから貴方の話を聴いたわ。皮肉屋で知りたがり《Der Neugierige》だとか。」
「……。」
「もちろん悪い意味じゃない。自分に似た友達ができて喜んだのでしょうね。」
「友……どうでしょう。さっきの会話でもお判りでしょうが。」
エレナは苦笑して言った。
「ちゃんと説明しないのはマリアンに非があるわ。同じことをされたら、自分だって恐ろしく不機嫌になるのに。」
ペレウスは気まずそうに俯いた。
「今まで私の存在を隠していたマリアンが、取ってつけたように私と会話する機会を与えたことも、貴方の目にはマリアンが自分への非難と疑惑の矛先を躱すために見えるでしょうね。」
「いえ、何もそこまでは……。」
「私はそう思うのよ。私だって都合よく扱われるのは不本意だわ。だからマリアンに内緒で教えてあげましょう。貴方が知りたい事、ズヴェスダさんの事を。」
「ですが……。」
ペレウスはマリアンへの不満を和らげるために亡き雇い主の話を聞く事自体気が進まなかったが、エレナの話に耳を傾けることにした。
「私の知る限りで悪いけど。そうね、何から話そうかしら……。」
彼女は話し出した。「ズヴェスダ」はスロヴェニア語で「星」を意味する渾名だ。コブリーツ氏と彼が出会った酒場では、その場にいない人間を指す時に、名前ではなく適当な事物の名前を宛がったからで、普段の彼は「ブラーエ」と名乗っていた。
「私は書簡の整理や取引先との連絡、彼が仕上げた翻訳の校正をしていたの。」
「翻訳、マリアンから聞きましたが、彼は外国語に熟達していたそうですね。」
ペレウスの言葉に、エレナはどこか誇らしげに答えた。
「そうよ。マリアンは亡命した言語学教授じゃないかとか言っていた。ただブラーエさんは爪を隠す人だから、翻訳も言語毎にばらばらの会社や個人と契約していて、秘書を雇うと決めたのも、その辺の棲み分けが億劫になったのが理由だった。実際彼が何か国語もできるという事を知っていたのは、あの街ではコブリーツさんたちと私くらいでしょう。」
ブラーエのアパートに届く手紙は仕事関連が殆どだったが、1つだけ彼女の印象に強く残った送り主がいた。エレナはノートの間から抜きとった封筒を差し出した。
「これよ。」
その白い封筒には繊細な透かし彫りが施されていて、送り主には「A」とだけ書かれている。ペレウスはエレナの了承を得て封筒を手に取り、まじまじと見て言った。
「送り主の連絡先がありませんけど、国際郵便ですよね?消印がウィーンだ。」
「あら、よくわかったわね。もうほとんど消えているのに。」
「弟の手紙にも似たようなマークが。彼も委員会の職員で、少し前までウィーンに駐在していたので。……中はご覧になりましたか?」
エレナは悪戯っぽく微笑んだ。
「人の手紙を覗き見るなんて、浅ましいにも程があるんじゃない?私は恥知らずだから読んだけど。でも残念ね、内容自体は特筆すべきものではなかったわ。」
ペレウスは便箋を広げた。流麗な字体のドイツ語で、彼女の言う通り冗長な時候の挨拶が、これでもかというほど連なっている。
エレナは次に手帳らしき冊子を広げた。
「遺品と言える物は、ここにあるのが全部よ。私は処分を頼まれていたけど―――。」
ペレウスは奇跡的に彼女の心中を察し、彼女の行動を肯定しようと試みた。
「そのおかげで今私はブラーエさんの過去を知ることができます。博士とバルセロナに関する記述は本当に貴重なのです。記述を残すという事は、決して簡単ではありませんから……。」
ペレウスは所詮研究者だ。彼は記録を調べる人間だから、ブラーエ自身がこの冊子たちを自分の人生が届かない所に残したくないと思い、エレナが彼の意思に背いているという事自体が敏感な問題だと分からない。ただ彼女は幾らか楽観的な想像を得ることができた。
「……このページは連絡先よ。翻訳業で彼と取引のあった人物や会社は大体覚えているけど、見覚えのない宛名はこれだけ。」
そこには「アルファルド イェリッツァ・ホテル裏、インテレシュタット地区、ウィーン」の走り書きと、電話番号が記されている。ペレウスは奇妙な住所に首を傾げた。
「じゃあこのアルファルドが「A」?」
「結論から言えばそうよ。私はブラーエさんの死後間も無くこの街に戻ったのだけど、その後で彼が私の名義で預金を残してくれていたと知ったの。手紙を盗み見た罪悪感もあって、何となく気がかりだったから、その人が親戚か知人だと思って連絡したの。2週間ほどして返信が来たわ。」
そしてエレナは精緻な透かし彫りが施された別の封筒を差し出した。中にはブラーエ宛の手紙と同じ典雅な字体で、金はエレナが受け取るべきだが、遺品があるのならそれを見たい旨が明瞭簡潔に書かれていた。
「アルファルドさんは1988年の夏、このロッジに1人で1週間ほど過ごしたわ。夏季休暇で来ていたマリアンも、そこで彼と知り合ったの。」
「マリアンが?」
「ええ。私がアルファルドさんと会ったのはそれきりだけど、あの子はその後もウィーンを何度も訪ねたみたい。……ロッジの宿泊客からは記念に写真を撮らせて貰っているのだけど、1988年の彼とマリアンの写真はこれよ。」
写真には正しく燃えるような赤毛を結った男性が写っている。褪色した画像でも明らかなほど恐ろしく容貌の整った人物で、着崩したスーツ姿でポーズをとる様は妙に貫禄がある。
「彼、アルファルドさんとブラーエさんはどのような関係だったのです?」
「親戚ですって。裕福層よね、ブラーエさんの親戚にしては意外だけど。」
親戚と聞いて、ペレウスは肝心な質問を思い出した。
「……すみません。基本的知識に乏しくお恥ずかしいのですが、私はブラーエさんがどこの出身で何年生まれか知らないのです。」
エレナは特に驚く様子もなく答える。
「正確な国籍と享年は私にも良く分からない。少なくともウィーンではないみたい。中高年の年齢なんて当てようもないけど、何となくコブリーツさんと同年代に思えたわ。だから大雑把に言って1920、30年代生まれ、亡くなった時は50代だったんじゃないかしら。」
「実は今日、私はリュブリャナ市役所で当時の滞在外国人名簿を調べるつもりでした。もしかしたら、ブラーエさんについて記載されているかも知れませんから。」
「……なるほどね。だけど残念だわ、市役所や他の場所でも、有効な記述は見つけられないと思います。」
「何故です?」
身を乗り出して訊ねる相手に、エレナは投げやりな微笑を浮かべた。
「私が自分で調べたからよ。他に何かお訊ねになりたい事ある?」
彼女はミュンヘンに赴いて出生記録も見た。自分が滑稽だと思いつつ、雇い主の縁者を訪ねて回った。アルファルドへの接触もそう、彼女は考え得る限りの方法を試してきたのだ。だがどれも全くの徒労だった。だが謎めいた雇い主の正体を知る為に、時間と労力を費やしたのは、決して彼に疑惑や不信を抱いているからでは無い。それを察したペレウスは、まだ誰にも明かしていない情報を、彼女とこそ共有するべきだと思い立った。
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