第17話 天体観測所

 マリアンは高速道路に入ると、ポケットから携帯電話を取り出して言った。

「11時前には着くと思う。……そうだ、家へ電話してくれる?父が心配だから。」

電話に出たコブリーツ氏は、大学の事務員を名乗る女性が電話してきて、講師契約についてマリアンに確認したいと。マリアンは自信満々に言った。

「じゃあその人は偽物だ。事務員は僕にメールでしか問い合わせないのさ。僕が電話を無視するから。」

「無視するなよ……。じゃあマリアンの素性まで調べられているのか。君が悪いな。」

フェイトンは顔を真っ青にして呟いた。

「ご迷惑をおかけしてしまって、本当に申し訳ありません。僕はどうしたら……。」

「大丈夫大丈夫、君が気に病むことじゃないから。それにこれで追手の中に、スロヴェニア語話者が協力しているのが分かった。」

「それは確かに。だがフェイトン君はスロヴェニア入国前から追われていたのだろう?猶更よく分からないな。」

「ああ。……どうせなら僕の普段の様子も聞き込みしたらいいのに。僕の公明正大かつ品行方正なキャラクターを知れば、コソコソ追い回すのを悔い改めずにはいられないよ。」

「え?」

「今のは肯定の「え」だな。これでも言語学研究者の端くれだから、僕には分かる。」

「いや違うよ。」

 マリアンからは今朝の険しさも焦りも消えている。だが遠足前日の子供のような興奮具合は、それはそれでペレウスを困惑させる。

「そうだ、音楽でもかけようか。あと3時間くらいで着くから。」

マリアンが取り出したのは分厚いCDケースだ。そのカバーを見た途端、ペレウスは慌てて彼の手から奪った。

「げっ、何でまた持って来てるんだ!」

「おい、丁寧に扱ってくれよ!貴重な音源なんだぞ!」

表紙には『クナパーツブッシュ:マーラー交響曲全集』と書かれている。マリアンは不満げに言った。

「あーあ、勘弁してくれよ。全くペレウス君は、好き嫌いが激しすぎて困る。」

「それはこっちのセリフだ。フェイトン君も注意して、この国で大音量のマーラーを垂れ流す怪車を見かけたら、それは多分彼だから。」

「随分な言い方だなあ。君の方が絶対やばかったのに。これだからピアノ弾きは頑迷で困る。」

「ピアノは関係ない。失礼な奴だな。」

「僕は礼儀正しいけど。フェイトン君は?何か楽器を弾く?僕が楽器診断してあげよう。」

「いや、僕は何も……。」

「ふーん、じゃあ僕と同じだね。」

「変な診断するなよ。彼が困っているだろ。」

「君こそ失礼な奴だな。変じゃない。厳密かつ個人的な統計に基づいた客観的根拠さ。」

 そう言ってマリアンはチャンネルを合わせた。陽気なシンセサイザーが車内を満たすが、ペレウスはマーラーから手を放していない。

周囲はすっかり暗闇に包まれ、森の闇を整然と縦断する高速道路には、他の車の灯は見えない。ペレウスは道路標識と道路地図を対照して、漸く車が北西に進行中だと気づいた。彼は半ば不安げにマリアンに訊ねた。

「マリアン、寄りたい場所ってどこだ?」

「僕の知り合いの家。少し休憩するだけだ。実は朝から運転し通しだから、少し休まないと。」

 午後11時を回った頃だろうか、マリアンは山間の小さなロッジに到着した。リュブリャナより7,8度は低温ではないだろうか、2人が震えながら車を降りると、玄関の照明がついて、中から1人分の細い人影が現れた。マリアンは彼女に手を振り言った。

「彼女がエレナさん。ズヴェスダの元秘書だ。」

 エレナは3人を玄関に迎え入れるなり、これほど遅いとは思わず大変心配したと、ドイツ語でマリアンに訴えた。彼女は3人の来訪を知っていたようだ。そしてペレウスとフェイトンの方に向き直り、平明な英語で挨拶を試みた。

「マリアンからお話は聞きました。ペレウスさんとフェイトンさんね。どうぞ上がってください。よかったわ、今日は幸いゲストがいなかったから。」

 普段は沢山いると言わんばかりの声色にマリアンは同情した。彼女が両親から受け継いだロッジとサヴァ川の間には、この深夜でも大型ホテルの照明が煌々と輝いている。数年前この外資系大型リゾートが完成すると、夏場の天体観測目当てで訪れる客の数は激減した。それもそのはず、見えるのはコンクリート塊と雑然とした駐車場、そして業者のトラックばかりである。唯一の救いはスキーシーズンの常連客だが、それはエレナに廃業を躊躇させる桎梏でもある。

 談話室に3人を案内したエレナは、暖房をつけるとカフェオレを振舞ってくれた。8月末に今日程ストーブが有り難く思える日もあるまい。ペレウスは降って湧いた機会に戸惑いつつ、無遠慮な視線を投げないよう注意して彼女の為人ひととなりを観察した。ある意味彼の想像通りというか、彼女は淡い憂いを湛えた理知的な美女で、暗い照明がその眼窩に作る濃い陰影は、やや神経質で内省的な印象を与える。その奥から覗く青い瞳が疑念の籠った視線を返したのに気づくと、ペレウスは咄嗟に目をそらして言った。

「突然こんな時間に押しかけてしまい、本当に申し訳ありません。」

「お気になさらず。こう見えてロッジですから、急な来客にも慣れていますわ。」

「知り合いが来るまでここで待たせてほしいんだ。」

マリアンの薄く隈を作った目を見上げて、エレナは優しい口調で尋ねた。

「それは電話で聞いたわ。でももう少し詳しく話を聴かせてくれたっていいわよね?」

「もちろんだ、ごめん。彼がペレウスだ。以前話したと思うけど、調査共有委員会に勤めている友達だよ。それでこちらがフェイトン君だ。リュブリャナで怪しい集団に追いかけられたんだ。それでペレウスが彼を連れて僕の家に逃げてきたってわけ。」

マリアンは曄蔚文の事件を離さないつもりらしい。エレナは揶揄うように訊ねた。

「聞いても良く分からないのだけど?」

「だよね、僕も分かってない。」

暖簾に腕押しな様子に、エレナは小さくため息を吐いた。

「聞いても仕方ないってこと?……まあいいでしょう。3人ともかなり疲れているみたいだから。貴方の知り合いに聞くわ。」

「どうかなあ、あまり話の分かる人じゃないよ。」

「少なくとも貴方よりましでしょ。何時頃到着するのかしら。」

「多分夜明け前には。申し訳ないけど、それまでお世話になるよ。」

フェイトンはエレナに従って2階の客室に向かった。車で寝ていたせいで、目は大分覚めている。

「すみません、エレナさん。いきなり押しかけてしまって。」

「貴方が謝る必要はないわ。だけど不審者って、警察に通報しなくていいの?」

「それが、少し事情があって……。」

 フェイトンは伝えなければならないと思った。そうでなければエレナは何も知らないまま事件に巻き込まれてしまう。だがこの初対面の女性に、祖父の殺人や中国人追跡者についてどう話し出せばいいかわからなかった。

「何も貴方に言わせることないわね。でも何か困ったことがあれば、気兼ねせず言ってくださいね。」

フェイトンはやや思案して答えた。

「ありがとうございます。……あの、少しインターネットを使わせていただけないでしょうか?」

するとエレナは影のある柔和な微笑と共に答えた。

「ごめんなさい、ずっとインターネットの調子が悪いの。きっと夕方の雷でどこかが故障したんだわ。リュブリャナも酷かったでしょう?マリアンが後で調べてくれるらしいから、少しだけ待ってくださる?」

「分かりました、すみません。」

 きっと図々しいと思われたに違いない。エレナが去ると、フェイトンはベッドに横たわり、電子アルバムを立ち上げた。出発時のごたごたで、まだペレウスたちにファイルを送信できていなかったのだ。

「あれ……。」

だがファイルの文面はコピー不可の仕様が施されていた。フェイトンは階下の2人にそれを伝えようと、アルバムを手にひっそり階段を下りたところで足を止めた。

 ペレウスとマリアンは言い争っている。おそらくはドイツ語で、フェイトンにはその内容が分からない。だが争点はきっと自分であり、その確信は今更ながら彼を酷く動揺させた。彼はエレナの気配がないのを確認して、きれいに磨かれた階段に座り込みそっと息をついた。彼は自分が競争や喧嘩の争点になる事を何よりも厭っている。それは実際に自分が言い争いをするよりも数段心が疲れるからだ。彼の両親が亡くなった日の朝も、2人は確かに一人息子について口論していた。

 フェイトンは2階に引き返そうとしたが、知りたくないなりに2人の会話が気になって体が動かなかった。仕方なくフェイトンは、その場で祖父の電子ファイルを1ページずつ表示し始めた。ラッセル・スクエアの時だけではない、思えば祖父は常々社会に貢献しろと言い、如何にして貢献するかを考えろと繰り返した。それは彼の人生指針でもあったのだ。

 フェイトンは彼の言葉を思い出し再び涙した。祖父は行動に意味を持たせる人だった。だから彼がこのファイルを送ったならば、誰かの役に立つ事を目的としていたに違いない。叶う事ならそれが自分のためであって欲しい。異国にあって彼の死を最も悲しむ孫のために。

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