第15話 知音の孫、盟友の子

 于焔に北京行を指示すると、李奇は引き出しから煙草を取り出した。今日北京出張からアテネへ戻ってきたばかりだ。その間彼は密かに外務省の知人に頼んで曄子寧に連絡を取らせたが、返信が来たという連絡はまだない。

 そもそも楊何業と李奇が曄子寧追尾に乗り出したのは、委員会中枢を動揺させている事件、つまり改正条約破棄を求める脅迫文書への関与が疑われているからだった。李奇やモデラは曄子寧が「悪意の主」とは端から思っていないが、彼が意図せずして事件に巻き込まれている可能性は否めない。

 当初李奇たちは、正直改正条約が成立しさえすればいいと思っていた。ロシアによる批判を除けば、今回の改正条約に対する非難はほぼ無いに等しい。曄蔚文名誉委員長とモデラたちが長年構想してきた委員会改革の集大成という事もあり、その丁寧な脅迫の文面は、そこまで真剣に取り扱う問題ではないと思われていた。

 ところがつい先月、その脅迫状は3通目にして俄かに李奇たちの関心を引くことになった。そこに記されていたのが極限られた人間しか知らない情報だったからだ。その情報とは曄蔚文の自宅住所と改正条約成立を強力にバックアップした「協力者」の存在である。どちらの情報も知るのは曄蔚文博士の他、モデラ委員長、リゲル元北京本部長、李奇の4人だけだ。加えてイレクトロ・フィデリオは協力者の存在を知るが博士の自宅住所は知らず、楊何業両上級委員は住所のみを知っているが「協力者」の存在を知らない。

 つまり4人、ないし6人と「協力者」の中に面従腹背の人物がいるか、意図せずして情報が洩れているのだ。それが判明したことで、委員会中枢における薄氷の信頼関係は崩壊した。楊何業は臆面もなく療養中のリゲルに対する疑念を口にしたし、李奇は内心楊何業に疑惑を抱いている。李奇が于焔を曄子寧追跡グループに入れたのも、本来は楊何業の動向を監視するためだった。いくら脅迫状調査とはいえ、彼が直属の部下全員を動員しているのはどう考えても大袈裟で怪しい。今日于焔の報告で降って湧いたフィデリオとミラ博士の記事は、地理に明るくない欧州で行方知れずのギリシャ人を探し回るより、于焔の勝手知ったる北京で楊何業の動向を探らせた方が良いと考えなおさせたのだ。

 李奇は手元で薄っすらと上がる白い煙を眺めた。気づけばライターに手を付ける回数が増えた気がする。それは父を真似た手巻き煙草で、ブレンドした金木犀花のねっとりとした甘い香りが部屋を満たした。この建物に曄蔚文の死を悼む者は大勢いるが、彼の盟友たる李魁博士の心情を慮る者はいるまい。尤も父は曄蔚文の名前も李奇の誕生日も自身の研究も忘れ去って久しいから、彼の心情を推察したところで尽く杞憂なのだが。

 父以外で博士の死を深く悲しんでいる人物といえば孫の曄子寧だ。何だかんだ李奇は彼の追尾を後ろめたく感じていた。唯一の肉親である祖父とすら、このような形で別離を迎えるとは。曄蔚文と父が疎遠になったため、彼らの交流も完全に途絶えているが、15年前までは家族ぐるみの関係だった。

 家族ぐるみと言っても、李奇は曄蔚文一家を敬遠していたと自覚している。その日大学4年生の李奇は、久々に実家で曄子寧の面倒を見ていた。面倒を見ると言っても、李奇の傍で彼が独り遊んでいるだけだ。専門の子守を雇えばいいのに、その代わりを自分に任せる子寧の両親は、李奇の目に大変無遠慮に映った。そして彼の不機嫌は曄子寧にも伝わったようで、彼はいつも大人しく過ごしていた。彼の両親が交通事故死し、2人で救急病院に赴いた時も、彼は悲しむというより寧ろ、李奇の無表情に怯えるように見えたのを覚えている。

 夫妻の死は不幸な事故と処理されたが、不審な点が無いこともなかった。だから曄蔚文は警戒して、親しい人間にも住所すら教えない生活を始めた。だが李奇がその後の曄子寧を知らないのはそれが原因ではない。両家の友好を1人で保ってきた父親が数年前に認知症となり、曄家との関係が自然消滅した時、李奇は特に関係を保つ努力をしなかったからだ。

 椅子に沈み込み茫々と思い出していると、誰かがドアをノックした。李奇が慌てて窓とカーテンを開けると、同時にモデラ委員長が滑り込んできた。

「突然すまないね。」

「いえ、私もモデラ委員長の部屋へ伺わねばと思っていた所です。」

「向こうの返事はどうだったのかな。」

モデラは李奇の北京出張の結果を尋ねた。中国代表の任期は4年なので、李奇は来年2005年8月には代表を離任する。通常であれば中国外務省に戻ることになるが、モデラはそのまま委員会の職員として出向するよう提案したのだ。

 本来李奇は特筆すべきキャリアの持ち主ではない。母国に居たところで出世の程度は目に見える彼にとって、この話はまさに千載一遇である。一方モデラ委員長にしてみれば、現状母国とのパイプ役を果たしていない楊何業に代わる人材を用意し、重要な加盟国となる中国との橋渡しを任せなければならない。この提案は李奇にとっては個人的再立身のチャンスであり、モデラにとっては誠実な部下が確保できるという算段だった。モデラ委員長は組織の長に相応しい観察眼の持ち主で、相手の力量や適材適所の見極めに長けている。その上誰の目にも人格者という稀有な人物だ。外ならぬ彼からの提案という事実は、李奇を素直に喜ばせた。

「ええ。私をこちらに入職させていただくことで構わないと。」

「それは良かった。李奇代表が残ってくれるとなると本当に心強いよ。」

「格別のご高配を賜り深く感謝しております。私のような者に。」

「いや、君だからこそだ。絶対に後悔はさせないよ。李魁博士も喜んでくれると良いが。今回お父上とは会ったのかな。」

「いえ、電話で話しただけです。相変わらず物忘れが激しいですが、来月アテネに来ることを楽しみにしています。」

「そうか、私もお会いするのがとても楽しみだ。曄蔚文博士の件で酷く落ち込んでおいでだろうが、私に何かできることがあれば遠慮せず言ってくれ。」

「ありがとうございます。」

李奇は「提唱」の共同執筆者である父を心から誇りに思っている。たとえ父が曄蔚文博士の影に完全に隠れていようとも。

 李奇はもう1つの事案、つまり曄子寧追尾の新情報を報告することにした。

「曄子寧についてですが、彼と共に行方を晦ました男性は、ペレウス・フィデリオだそうです。」

モデラは婿の実兄の名前を聞いた途端眉を顰めた。

「本当か?彼は直接北京へ行くと聞いていたが。」

「私もイレクトロさんからそう聞きました。2人はある記事を調べていたそうです。」

「記事?どんな記事なのかね?」

「ミラ博士の言行録です。」

モデラはぎくりとして言った。

「そんな記事があるとは初耳だ。本物なのだろうか。」

「まだわかりません。今スロヴェニア語の原文を翻訳中ですが、バルセロナでの事跡に関するものだと。」

「じゃあスロヴェニア本部は記事の存在を知っているのか?」

李奇は首を横に振った。

「楊何業上級委員によれば「知られていない」そうです。虚偽かもしれませんが、彼とスロヴェニア本部の関係から思うにその可能性は低いでしょう。加えてフィデリオも曄子寧も、スロヴェニア本部には出入りしていないそうです。」

「フィデリオが楊何業の指示で動いている可能性もあるのだな。」

「可能性、という意味では。ただ楊何業上級委員は、私たちがフィデリオ新本部長を発見したと知りません。私の部下を北京本部に送って探らせるつもりです。」

「そうか。いろいろ苦労を掛けて申し訳ないね。」

「いえ、脅迫状と今回の殺人が関連しているか、私も気になりますので。」

「……はあ、なぜこうも次々色々なトラブルが起こるのだろうな。改正条約だけでこっちは手一杯だと言うのに。」

「全くです。脅迫状はその内容から委員会中枢の情報にアクセスし得る人物なのは間違いない。」

「そうだ。だが脅迫状の差出人と殺人事件の犯人が同一かは分からない。」

「何とか私たちで内々に解決したいが、悪いことに「協力者」も曄蔚文博士の死と脅迫状に関心を持っているようだ。明日彼らを訪ねることになったのだが、君とイレクトロにも来てもらって構わないだろうか?」

「はい、分かりました。」

李奇は正直気が進まなかった。彼がそれを誤魔化すように数度空咳するのを見ると、モデラは大仰に気遣いの言葉をかけた。

「風邪でも引いたんじゃないか?早く帰ると良い。大事な時だが、根を詰め過ぎないように。」

風邪ではないが、李奇は言葉に甘えることにした。

「ありがとうございます。モデラ委員長も、あまりご無理をなさらないでください。」

「じゃあこれで失礼するよ。」

背を向けたモデラ委員長に、李奇は重要な要件を訊ね忘れていたと思い出した。

「……そうだ、モデラ委員長。リゲル本部長の献花代は、どなたにお渡しすればいいのでしょう?一昨日の葬儀に間に合わず、大変申し訳ありません。」

「え?ああ、構わないよ。結局親族が見つからなくて、私が個人的に執り行っただけだから。それに君はまだ委員会の人間じゃない。そこまで気を遣ってくれなくていい。」

「でもリゲル本部長には大変お世話になりましたから、できれば何か……。」

「お気持ちだけありがたく受け取ろう。いつもすまないね。」

モデラはにこりと微笑んだ。

「そうですか、分かりました。」

 李奇はモデラ委員長を見届けると、緩慢な動作で身支度を整えた。李奇の住居はリカヴィトス丘の南方にある住宅街だ。彼は何も考えたくなかったが、思考は茫洋と改正条約成立に執心している「協力者」に向かっていた。彼らが口出しする時はあまり良い状況ではない。  

 窓を閉めながら、彼は大きくため息を吐いた。今になって曄子寧を放置し部下を北京に向かわせた判断に迷いが生じている。李奇は元来、行動を起こした後でそれを必要以上に気に病む質で、その気質は周囲の軽蔑や嘲笑を呼び、一度として彼自身の利に働くことはなかった。李奇の無機的な性格はその気質を悟られないためだけに培われたといってもいい。しかしいくら周囲を誤魔化せても、自分の心は偽れない。彼は確かに行動することを恐れている。

 だが、そうだとしても、李奇はその時最善と考えた事を一先ず実行するしかないと分かっている。何もしないで後悔することは、実行して後悔するより一層空虚で無気力だから。李奇にそれを教えてくれたのは、身をもって後悔し続けた父であった。

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