第14話 トラブルメーカー

 雨は再び本格的に降り出した。時折雷も光る。竜の橋待機組2人をユースホステルと今朝のホテルに向かわせ、于焔たちは店の入口が見え尚且つ店からは見え辛い物陰で茫洋と雨宿りしていた。コブリーツと呼ばれた老人が、即ち『リュブリャニツァ』の編集者なのだろう。

 于焔は携帯電話を手に取ると、李奇からの返信を再び表示した。彼は曄子寧の追跡を取り止めて、于焔自身は北京に行けと言うのだ。要するに李奇は楊何業に疑惑の目を向けていて、于焔に彼の動向を見張りつつフィデリオとの関係を探らせたいらしい。

 その時1人の男性がボストンバッグを手に店から出てきた。于焔はその場をもう1人に任せて、赤みがかった茶髪の頭を追いかけ、その人物が大通り沿いに停まった車に乗り込むのを見た。車のナンバーは今朝見たものと異なるが、于焔はそれが今朝見失った車だと直感的に悟った。あの男はさっき店内にもここ小1時間の来客にもいなかったからだ。すると暫まもなく、建物から出てきた2つの人影がその車に駆け込むのを見た。それが確かにフィデリオと曄子寧だと認めると、于焔は何も見なかった振りをして戻った。

 追跡がまたも失敗し、その上于焔が突如北京に向かうと聞くと、楊何業の部下たちは彼を訝しんだ。彼らは依然フィデリオの関与を知らない。つまり李奇は楊何業に彼の存在を教えていないのだ。であれば于焔がわざわざ彼らに教示することも無い。それに隠しているのは自分たちだけじゃないだろう、きっと于焔が知らない情報を彼らだけで共有しているに違いない。

 そもそも同国人からなる追跡グループは結束が固いとは言えなかった。それは偏に彼らの上司の関係が険悪だからだ。各国代表はもちろん、本部長や上級委員ですら、多かれ少なかれ委員会において母国の利になるよう行動する。だが楊何業は中国の損益など完全に眼中にないばかりか、国際問題の引き金を引きかねない緊張を次々引き起こし、その度に李奇や彼の前任者は彼と本国との板挟みを強いられてきた。

 組織の性格上、楊何業のような人物は致命的なトラブルを招きかねない。だからこそ委員会では人物考査に力点を置き、努めて従順かつ穏健で誠実な人材を採用してきたという。従順かつ穏健で誠実とは、委員会条約の大綱、即ち「可能な限り公平で高水準の調査」と「「総論」の周知及び関連情報の透明化」の遂行に耐えうる人物だ。

 一例を挙げれば、委員会の調査は委員会の中枢たるアテネ本部から派遣された上級委員と関係本部長の指揮の下で行われるが、現場を主管する本部長は上級委員を通してその活動内容をアテネ本部に逐一報告することが求められる。それら一連の情報は、最終的に上級委員が執筆する「総論」に先立ってアテネ本部の広報やウェブサイトで公開され、調査内容と経緯の信憑性を担保するのである。

だが中には規定に反する者もいる。楊何業がその名前を知らしめたのは、彼が北京本部長として1995年に携わった香港返還に関する調査だった。この問題の当事者国は非加盟国のイギリスと準加盟国の中国で、本来的には1975年条約の「委員会が扱う問題は、加盟国間の問題に限る」という条項を違えていた。にも拘らず調査を実施できたのは、この問題にある思惑が絡んでいたからだ。

 実のところ、当時の両国首脳陣は、将来的に改正条約成立後の委員会に正式加盟する算段を取り決めていた。改正条約の柱の1つは加盟主体及び調査当事者の拡張で、改正後は非加盟国や国以外の集団も調査の当事者になることができるのだ。それは最終的に委員会の実行力強化へと繋がるため、改正条約とはモデラ、リゲルそして曄蔚文博士による組織改革の集大成でもあった。そこで「結末が明らかな」香港調査は、加盟国以外が調査に関与する前例作りと位置付けられ、来るべき条約改正の実践的根拠となるべく行われたのである。

 その意味で北京本部は担当上級委員の指示に従い、実働部隊として毒にも薬にもならない調査結果を纏めれば良いはずだった。だがあろうことか楊何業は、恣意的と言えるまでに返還反対派寄りの姿勢を貫いたのだ。例えば彼は、中国の政治体制に批判的な欧米メディアへ繰り返し情報提供し、この調査が形骸に過ぎず、委員会の使命を本来的な意味で果たしていないと主張した。それは種々の利害調整に当たっていた上級委員との軋轢も生み、最終的に調査の主導権を掌握した彼は、上級委員の名前で総論を書き上げてしまったのだ。

 傍目には一本部長がアテネ本部の人間を放逐したように理解されたため、関係者は楊何業が当然解任させられると思った。だがなぜか最終的に彼の「総論」は認可されてしまった。楊何業の暴走と委員会の決断は中国当局の反感を大いに買い、李奇の前任者たちは本国と委員会間の調整に手を焼く羽目になった。

当時の紛紛とした内部騒動は時間の経過と共に一応落着を見た。だが「総論」提出後8年近く経過した今、再び風向きが変わっている。それは昨年から急激に深刻化した香港デモの事で、デモ隊の活動及び体制批判の根拠の多くは、当然ながら楊何業の「総論」からとられているからだ。加盟国では中国だけが準加盟国特例を行使してこの「総論」の受容を拒否していることもあり、この不調和は中国国内外に亀裂を生じさせ、目下改正条約と並行して李奇らの苦悩の種となっている。

 于焔は手早く荷物を纏めつつ、デジューに協力への感謝を送信した。彼女は異国人同士の剣呑な雰囲気に困惑したが、于焔に記事の複写を渡して、他の資料はどれも独立関連の物で目ぼしい資料は見当たらなかったと告げた。楊何業を巡るもう1つの重要な問題、それは他の職員に及ぼす影響である。王道とは到底言えないカリスマ性は、今や支持者とそれ以外で委員会全体を二分しつつある。デジューも支持者の1人で、彼女たちは自分でそれと明言しないものの、現行組織の実力不足に不満を抱く若手が多いという。

 一方で、良く言えば革新派でもある楊何業支持者が台頭するにつれ、彼に反発する保守的な面々の存在も目立ち始めていた。現行体制を創り上げたスロヴェニア本部はその筆頭で、デジューが所属先の仲間を頼れなかった理由もそこにある。ズメルノスト本部長と現在唯一のスロヴェニア人上級委員モチュアは、上級委員となった楊何業の一挙手一投足にまで猛烈な批判を浴びせたのだ。しかもスロヴェニア政府の意向を無視して批判しているというのだから驚きである。

 だがズメルノストに対しても、所詮スロヴェニア本部が持つある種の既得権益・別格意識だと批判する者は多い。于焔は上司とその敵以外に毛ほどの興味も持ち合わせていないが、そんな彼でさえも肌で感じることができる。穏健な実力者モデラたちが秩序立てたこの組織は、改正条約という土壇場に来て急速に分裂を始めている。

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