セビーリャの囚人(原)

江島

Ⅰ セビーリャの囚人

第1話 フィデリオ兄弟

 ペレウス・フィデリオはアテネ在住の1972年生まれ。自身が勤務する「国際歴史記述調査共有委員会」の辞令で、9月1日より北京本部長として赴任することになった。引っ越し荷物の運び出しが終わったペレウスは、アテネ南部ネア・スムルニの自宅からリカヴィトス丘麓にある委員会本部に車で向かい、2日ぶりに自身の部署である記録保管室へ私物を取りに行った。

 するとどこから聞きつけたのか、弟のイレクトロが記録保管室の扉を開いた。彼は兄より2歳年少だが、兄の役職を瞬く間に追い抜いて最年少で本部の上級委員に就任し、去年組織の長であるモデラ委員長の令嬢と婚約したエリートである。人当たりがよく明朗快活な弟は、兄のために細やかな送別の品を用意していた。事前に伝えることなく職場で渡すことにしたのは、事前に彼の予定を尋ねたならば、先日行われるはずだった送別会の二の舞になりかねないからだ。

 ペレウスのデスクを挟んで2人が並ぶと、同僚たちはテッサロニキ出身の兄弟の会話に耳を傾けた。尤も彼らが注目しているのは、同僚の兄ではなく上級委員の弟の方だが。

「兄さん、一昨日の会見はお疲れ様。もう荷物の運搬は済んだ?と言ってもアパートは借りたままにしておくんだっけ?」

ペレウスが司会進行を務めたのは、先日8月20日に行われた調査共有委員会条約の改正、及びその調印式に関する会見である。

「ああ。何だかんだアテネには頻繁に来ることになると思う。早速来月6日の調印式典のために戻ってくるんだ。」

「行ったり来たりで大変だね。」

「別に移動は苦じゃないよ。……そう言えばイレク、お前去年北京に行ったんだよな。」

去年の結婚式の後、イレクトロは義父のモデラ委員長と共に、彼が恩人と慕う名誉委員長曄蔚文の自宅を訪ねたという。

「いや、結局行かなかった。曄蔚文さんは留学するお孫さんを見送るために、急きょロンドンに滞在することにしたらしく、そこにお邪魔したんだ。」

自分で話を振りながら、委員会の重要人物と関係を築く弟に対し、ペレウスは反感に似た嫉妬を覚えた。彼は余所余所しい作り笑いを浮かべ、弟に自分の部署へ戻るよう諭した。イレクは小さな包みを差し出して、自分が兄に会いに来た目的を示した。

「僕が来たのは兄さんこれを渡したかったからだよ。昇進のお祝いに。」

ペレウスは些か拍子抜けしてお礼を言った。

「ああ、ありがとう。気を遣ってくれてすまない。イレクも無理するなよ。」

「明日アテネを発ったら、明後日には北京に着くんだろ?」

思えばここ1か月、イレクは兄の下を頻繁に訪ねて来ては、色々な質問で彼が道草を食わずに北京に行くかを確認してきた。

「以前から何度もそう言っているじゃないか。少ししつこいぞ。」

あからさまに顔を曇らせる兄に、弟は明るい声で食い下がった。

「僕は心配しているだけだよ。北京本部は色々あったから。」

 北京本部は委員会加盟国に1か所ずつ置かれる本部の1つで、加盟国と委員会を中継する実働部隊であると共に、下位組織である国内の支部を統括する役割を持つ。その責任者であるサンドラ・リゲル北京本部長が1年足らずで突如退職し、任期4年のポストが空白となったのは1か月前のことだ。委員長と上級委員からなる人事会は、至急後任の選出を行い、そこで白羽の矢が立ったのがペレウスだった。しかし彼自身なぜ自分が選ばれたのか皆目見当つかないのだ。

「私などリゲル本部長の後任には不相応だよ。4年どころか半年も持たないかもしれないな。中国の専門家でもあるまいし。」

「途中で退任してもいいじゃないか。無理して体調を崩すよりましだよ。兄さんは誰が見てもギリシャ向きなんだから。」

イレクは兄を励ますつもりで言ったのだが、恰も実力不相応だと指摘されたと思ったペレウスは平然を装って弟を促した。

「……私はそろそろ帰るよ。荷物を取りに来ただけだから。お前も職場に戻りなよ。」

 イレクは兄をギリシャ向きと表現したが、テッサロニキで生まれアテネで育った彼の青白い肌は、日焼けした者の多い地元民の中ではかなり浮いている。不健康で神経質な容貌と内気で自虐的な性格は、人格形成にも良い影響を与えたとはいえなかった。


 結局イレクトロは駐車場まで見送りに来た。本当は明日空港まで送りたいが、それこそ兄が嫌がるだろう。代わりに弟は兄に右手を差し出した。兄は躊躇しながらも、荷物を置いて右手でその手を握り返し、左手で互いの肩に手を添えた。ペレウスは車に乗ると、弟を振り返らずに市街へ続く坂道を降りて行った。

 2人の幼少時を知る者は、彼らが大変仲の良い兄弟だったと言うだろう。しかしこの1年、彼らは凡そ14年ぶりに同じ町で暮らしていたにも拘らず、ペレウスは弟を避けることが多かった。尤も性格に難ある兄が、優れた弟を嫉妬し敬遠したとして、不自然なことは無いのだが。それでもイレクは兄を思い遣り、結果としてそれが裏目に出ることは少なくなかった。


 ペレウスは再びネア・スムルニの集合自宅に戻ってきた。8月下旬のうだるような熱気のために、カーテンを閉めきった無人の部屋は汗ばむほど暑い。彼は荷物を床に置いてソファに座ると、弟から受け取った包みを開いた。胴色と茶色で塗られたバイカラーの箱で、中には「ペリカン」のボールペンが収まっている。彼は包装を処分し、ペンを自分のカバンに差し込んだ。

 イレクが餞別にペンを選んだのは、兄が手書きを好むからだが、その意味でも2人は正反対だった。アテネとテッサロニキで海運業を営むフィデリオ夫妻は、2人の息子をそれぞれアテネとオクスフォードの大学に入学させ、いずれもギリシャに本部を置く国際機関に職を得たことを誇りにしていた。子供の頃は天文学者か宇宙飛行士になりたいと話して回ったイレクトロは、高校を卒業して渡英すると、兄を追い駆けるように歴史学を修めて記述調査共有委員会に就職し、その都度兄を優に凌駕する結果を出したのだった。

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