秘密と報告

 エリス・アステライトの朝は早い。

 それは、例え休日であろうと、武闘大会の翌日であろうと、明け方まで姉の唇の柔らかさを堪能していようと変わらないことだ。


 今日と明日は休みだ。今日の午前中には、退学者には通達が下るだろう。そのまま荷物を纏め、今夜にも居なくなるのだ。


 それに対して思うことは若干あるが、普段通りに起きたエリスは、身だしなみを整え紅茶を淹れる。

 姉が目覚めた時には、一番綺麗な自分でいたいからだ。


 全ての身支度を終えたエリスは、寝相は悪いが幸せそうな顔で眠る姉の顔を眺めながら、ゆっくりと紅茶を嗜んでいた。


 それにしても、昨夜の姉は可笑しかった。エリスの頬は微かに綻ぶ。


(お姉ちゃんは、相変わらず分かりやすい)


 エリスはあまり眠りが深い方ではない。何度も寝返りを打つ姉のせいで、度々意識を覚醒させることになった。

 リタは深夜まで、ずっとそわそわとした様子で、その太ももをすり合わせながら、熱い吐息を繰り返していたのだ。気付かないふりをしてあげていたが、正直こっちが変な気分になりそうだった。


 その後、姉がベッドを出てからは少し長めに寝ていた気がする。そんな矢先、シャワーを浴びたらしい少し湿り気のある髪の姉が戻ってきた。いつの間にか、呼吸も大分落ち着いている様子であった。そして、カマをかけてみれば――――。


「ふふふ」


 エリスは思わず笑いを零した。そんな声に気付いたのか、リタは身じろぎをして、ゆっくりとその瞼を開く。中途半端に乾かしたせいで、自慢の長髪も寝ぐせまみれだ。


 小さな欠伸を漏らしながら、不思議そうな顔でエリスを見るリタ。だが、徐々にその目が見開かれていき、完全に覚醒に至る。


「お、おはよう。エ、エリス? き、昨日の夜の、ことなんだけど」


 起きぬけだというのに急に視線を彷徨わせながら、挙動不審な様子でそう話すリタ。


「おはよう、お姉ちゃん。どうかしたの?」


 エリスは出来る限りいつも通りを装って、そう答えた。内心では笑いを堪えるのに必死であったが。


「えっと、そ、その……。エリスが、てて手伝ってくれる、とか、言ってた、アレ……、のこと、なんだけど――――」


「うん。久しぶりに、背中を流してあげようかって思って」


 非常に慌てた様子で両手を振りながら話すリタに、微笑ましいものを感じながらエリスはにこやかに思ってもいない事を口に出す。


「へ? え? 嘘? 何!? ……でも、何か声がって――――」


 リタは、頭を抱えている。恐らく自身の昨夜の記憶とのすり合わせを行っているのだろう。エリスは、畳みかけるように話す。


「どうしたの? また変な夢でも見た?」


「え!? 何処からが夢……? あ、いや! 何でもない!! そ、そうだよね~。夢だよね~。ふぅ」


 エリスの言葉に、納得し安心したのかリタは手のひらで自分を仰ぎながら、笑顔で大きく息を吐いた。リタは意識を失ってそのまま寝たため、若干記憶が曖昧だったのだ。


(ああ、やっぱり面白い……)


「どんな夢を見たの? ねぇ、教えてくれる?」


 エリスはにこやかな顔で、姉に問いかけた。


「なななな何でも無いから! へ、部屋に戻る!!」


 これ以上は勘弁とばかりに、慌てて自分の部屋に戻ろうと駆け出したリタだったが、よっぽど動揺しているのが、部屋の扉に凄まじい勢いで衝突した。扉の軋む音とともに、姉の悲鳴が聞こえる


「痛――――ッ!! くぅぅぅぅ! ……そ、それじゃね!」


 涙目で手を振りながら、逃げるように去っていった姉の姿が見えなくなった途端に、エリスは笑いを抑えきれなくなった。ひとしきり、涙が浮かぶほど笑ったエリスは大きく息を吐く。


「はぁ、今日もお姉ちゃんが可愛い……」


 リタはきっと、昨夜のことはバレて無かったという安心を抱えて、今日も変わらない一日を過ごすのだろう。

 それがとても微笑ましく思うと同時に、自分だけが知っている姉の恥ずかしい秘密に深い満足感を覚える。


 今日は、穏やかでいい一日になるに違いない。窓の外は昨日と変わらず晴れている。エリスは、空になった紅茶のカップをを片付けるとロゼッタから渡された分厚い魔導書を開くのであった。




 慌てて部屋に戻ったリタを出迎えたのは、驚いた顔のラキであった。シャワーを浴びていたのか、濡れた髪にタオル一枚の姿である。


「おはよう、ラキ。……いつも言ってるけど、シャワーの時ぐらい鍵かけたら?」


「おう、今度から気を付けるわ」


 爽やかに笑う彼女だが、このやり取りももう何回目か分からない。きっと彼女は繰り返すだろう。新しいルームメイトに迷惑を掛けなければいいが……。


 エリスの優勝に伴い、リタは夏季休暇明けから部屋を移ることが決まっていた。何故夏季休暇明けかと言えば、どうやら本当に改装工事が入るらしい。広くなるのも、エリスと同じ部屋になるのも歓迎だ。だが、ラキのような気を遣わなくてもいい友人と共に暮らすと言うのも、新鮮で悪くない時間だったなと、少しだけ感慨深くなってしまうリタであった。


(まぁ、まだ夏季休暇までひと月以上あるんだけどね……)


 リタは、部屋に戻って早々、自分用の物置から外出用の私服を取り出して着替えた。そして、鏡で見ながら髪を梳かし入念に身だしなみを整えていく。


(別に乾燥してないんだけどな……。なんか唇荒れてるな……)


 リタは唇に、保湿剤を塗り込みながら首を傾げる。


「おう、気合入ってんな? デートか?」


 後ろからは、ラキのからかうような言葉が聞こえてくる。


「ううん。ちょっと、色々とね。――――夕方までには戻るよ」


「そうか、ごゆっくり」


 含みを持った言い方のラキに苦笑いを返したリタは、軽い足取りで寮を出た。見上げれば、雲一つない青空が広がっている。彼女が眠る、あの荒野にもこんな澄んだ空が広がっていればいいな、とリタは思う。


(いつか、キリカと一緒に行きたいな……)


 それから暫く、王都の貴族街をリタは一人で歩いていた。


 一人で歩くのは久々だ。それにしても、こんなにも美しい街並みだっただろうか。最近は考えることが多かった反動か、思わずスキップしそうになるくらい心が軽くなる。日に日に暑さを増していく初夏の朝を、全身に感じながら石畳を進んでいった。


 いくつか上品な店を巡り、手土産を購入したリタは人通りの無い裏路地に入る。そして周囲を魔眼で十分に確認した後、転移魔法を行使した。


 一瞬の浮遊感の後、目の前に広がった光景は、二か月前まで暮らしていたクリシェの自室であった。綺麗に掃除されているようだ。そんなことも嬉しく感じる。


 さぁ、まずはこの言葉からだ。

 リタはほんの少し緊張しながら子供部屋の扉を開く。


「ただいまー!」


 階下から聞こえる驚きの声。先月の帰省以来、一か月程度で変わる訳も無いのだが、変わらない笑顔の両親が迎えてくれる。あの時、ずっと家族だと言ってくれた。私を受け入れてくれた、大切な人たち。


「おかえり、リタ! あら、今日は一人なのね?」


「あはは、ちょっとね……」


 そんなリィナの問い掛けに、リタは苦笑いで誤魔化すことにした。


(別にバレてないみたいだし、エリスと一緒に帰っても良かったんだけどね……。でもなんか、寝てる妹がいる中でって考えると、ちょっぴり罪悪感というかなんというか……)


「おかえり、リタ。うん? お前、そんな洒落た服持ってたか? ……ま、まさか、男が出来たんじゃないだろうな!?」


 驚愕の表情を浮かべながら、いつもと同じことを言っている父親をリタは軽くからかう。


「出来てたらどうする?」


「相手の男が死ぬか、俺が死ぬか、どっちかだ!!」


「冗談だよ、父さん」


 リタが一人で帰省したことに驚きつつも、喜んでくれる両親に手土産を渡しつつ、落ち着く実家の匂いを感じながらリタはリビングのダイニングテーブルについた。


(父さんも休みで良かった。ちゃんと、自分の口で伝えたかったからね)


「父さん、母さん。報告があるんだ――――」


 そしてリタは、再会を果たした少女のことを両親に話し始める。


 暫く経って全てを話し終えたリタを、リィナはそっと抱き締めてくれた。

 その後三人は夕方まで談笑して過ごした。リィナは数年前と同じくどんな関係なんだと迫ってきたし、クロード相手が男じゃなくてよかったと心から安堵している。


 賑やかで、暖かな家族との時間に、リタは確かに満たされていくのを感じていた。


「じゃ、そろそろ戻るよ」


 そう言って立ち上がったリタに、クロードが声を掛ける。


「そう言えば夏季休暇は、ずっとこっちで過ごすんだろう?」


「うーん。どうかな? 私だって青春を謳歌したいし……」


「何ィ!? やっぱり男か!?」


 騒ぎ始めるクロードの頭を、リィナが振るったフライパンが打ち抜き、甲高い音が聞こえた。相変わらずのキレだ。だが、こちらも変わらず我が父は頑丈なようで、フライパンがひしゃげている。


「あ・な・た~? 年頃の娘にそんな事ばっかり言って! ほら、リタはもう戻りなさい? 遅くなったら困るでしょう?」


「うん、ありがとう。行ってきます」


「ええ。行ってらっしゃい」


 しょげているクロードと、笑顔の母に見送られリタは王都へと戻った。




 王都に夜の帳が降りた頃、リタは寮の部屋で寛いでいた。ラキは、何処かに行っているのか不在だ。特に詮索する気は無いが、もしかしたら退学者の見送りかもしれないとリタは思う。


 そろそろ夏季休暇の予定も決めないといけないな、とリタは考えながら母が持たせてくれた夜食を頬張る。相変わらず美味しいし、落ち着く味だ。


(とりあえず、夏季休暇のことは明日キリカに予定を聞いてから考えよ。それから、出来れば他の友達とも遊びたいし)


 まさか、夏休みに友人と遊ぶ予定を立てる日が来るとは……。悲しい前世を思い出しながら、リタは小さな欠伸を漏らすのであった。

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