Xデーは3年以内
夕食後の君岡家のリビングに固定電話の呼び出し音が響いた時、そこにいたのは長女の花波のみだった。母と妹は揃って買い物に出かけており、父はする事があると言って書斎に籠っている。
家の電話に出るなどいつぶりだろうかと思いながらディスプレイの表示を確認し、花波は受話器を取った。
「久しぶり、美園」
『うん。久しぶり。お姉ちゃん』
「
君岡家における美園の近況報告の窓口は大体が花波だ。花波が一方的に美園や牧村から聞き出しているとも言う。
『うん。大学の成績が出たからその報告をと思って』
「律儀だねえ。お父さんならいるけど呼んで来ようか?」
『書斎にでもいるの? 呼ぶのも悪いしまた今度にしておこうかな。春休みは帰れないからお母さんともお話しておきたいし、また二人がいる時に電話するよ』
「了解。そう言えばバイトも始めたんだってね」
『うん。先週からね』
確か学習塾の事務に週二回と(牧村から)聞いている。卒業生の穴を埋めるような形で採用になったという話だった。
「体気を付けてね」
『ありがとう。でも大丈夫だよ』
「牧村君がいるもんね?」
『うんっ』
少しからかうつもりだったのだが、名前を聞いただけでこんなに嬉しそうな声を出す妹にそれ以上何も言えなかった。
『智貴さんと一緒ならどんな事でも大丈夫。それに、智貴さんが見守ってくれているって思うと、恥ずかしい自分は見せられないなって気持ちになるの』
多分向こうも同じ事を思っているだろうなあと、無自覚にのろけ始めた妹の声を聞き流しながら花波は思う。似た者同士が上手い事くっついたものだと、二割程の呆れを含みながらも感心する。
「そんなんで四月から大丈夫?」
『うん。大丈夫だよ』
実際に少し心配だった。二人の同棲は三月いっぱいという約束だと聞いている。現在幸せを噛みしめている美園だが、その反動があるのではないかと。
以前牧村と話した時には大丈夫だと思ったが、やはり大切な妹の事だけに、彼には悪いがそう思ってしまう。
しかし当の妹はあっさりと、しかし明確に答えた。楽観とは違う、意志の強い声。
『言ったでしょ? 智貴さんに恥ずかしくないような自分になるの。それに、同じお部屋にいられないのは寂しいけど近くにはいるんだしね』
「そっか」
『美園は強い子ですよ』と、牧村の言った通りだった。
(ああ……悔しいなあ)
美園と牧村の付き合いは1年足らず。それでもきっと、もう彼の方が美園を理解している。
思えば1年前、美園が自分を変える決意をしたのも――姉である花波が何度言ってもまるで気にしていなかったクセに――たった一度会っただけの彼にもう一度会うためだった。
娘を嫁に出す父親というのはこんな感じなのだろうかとふと考え、自分も娘の側だった事を思い出して少しだけ苦笑が漏れた。
『どうかした?』
「ううん、なんでも。結婚式はいつかなあと思ってさ」
『何月がいいかなあ? 智貴さんはチャペルと神前式はどっちがいいって言うと思う?』
「気が早いって」
今度こそ本格的に苦笑してしまうと、電話の向こうの美園は『お姉ちゃんから言ったクセに』と少しいじけている。
「ごめんごめん」と適当に謝る花波だったが、ちょうど大切な娘を持っていかれる側の人間がリビングにやって来た。
「お父さん来たけど代わる?」
『うん。お願いしていいかな。お母さんにはまた今度携帯の方にかけるね』
「ちょっと待ってて」
電話口を押さえて「お父さん、美園から。早くしないと切れちゃうよ」と呼びかけると、父は必死な顔で駆け寄って来た。花波はまたも苦笑してしまう。
「美園? 元気でやっているか?」
何とも幸せそうな父の顔を見て、電話越しではあるが二人きりにしてやろうと花波は席を立った。
◇
30分後、花波がリビングに戻ってくると父はまだ通話中だった。流石に呆れた。
「そうか。それじゃあまたな。くれぐれも体に気を付けて……ああ、おやすみ」
「長すぎ」
父が受話器を置いたタイミングで花波が声をかけると、気まずそうに「いたのか」と言われた。
「一度切ってこちらからかけ直しているから通話料はかからない」
「それにしたって30分くらい電話してたでしょ」
「そんなにか?」
驚いたような父は時計に目をやって「おお」と感心したように呟いた。楽しい時間が過ぎるのは早いといったところだろうか。
「何をそんなに話してたの?」
「まずは成績の話だな。優が三つでそれ以外は全て秀だそうだ。実行委員の仕事で忙しかったと聞いていたが、頑張っているんだな」
嬉しい、というよりは鼻が高いといった具合だろうか。父は穏やかに笑う。
「それから自動車学校に通っていた時の話やアルバイトを始めた話も聞いた。花波から聞いた時は大分心配したんだが、楽しそうに話してくれたよ。」
今度は感慨深そう表情を崩す父は「あの美園がなあ」と小さく呟いた。
「牧村君に感謝じゃない?」
「ああ、そうだな……二人の交際は順調、なんだろうな」
「30分も電話してたんだから自分で聞けばよかったでしょ」
花波が呆れながらそう言うと、父はどこか気まずげに目を逸らし「いや、だってなあ?」と言葉を濁した。
「一言で言えばこの上なく順調」
「……そうか。それならいい」
「じゃあそういう顔したら?」
「しているつもりだが」
「いやいや」
苦虫を噛み潰すとまではいかないが、今の父は大分複雑な表情をしていた。
「そんなんで牧村君が『娘さんをください』って言いに来た時どうするの?」
「……まだ大分先の話だろう」
想像をしてしまったのか、今度こそ父は苦虫を噛み潰したような顔をしている。
父は牧村の事を嫌ってはいない。それどころか美園の交際相手としては十分過ぎる程に認めているのは見ていてわかる。
しかし、やはりそれとこれとは別らしい。
「美園が大学卒業する頃までには間違いなく来るよ」
その時になってショックを受けられても面倒なので、今の内から慣らしておこうと花波は思った。
恐らくだが、牧村が就職を決めたら挨拶に来るだろうと花波は踏んでいる。美園の様子からしても、二人の間で将来の話が出ている事は明らかだった。
「早くないか?」
「年齢的にはそうかもだけど、交際期間的には3年以上な訳だし」
「冗談ではなしにか?」
「うん」
大きなため息をつき、「そうか」と父はガクッと肩を落として俯いた。
10秒程そうしていただろうか、父は突然顔を上げ、真剣な表情を貼り付けて口を開いた。
「花波はそれまでに結婚する予定はあるか?」
「人をクッション扱いしようとするのやめてくれる?」
「いや、花波はこの家に残ってくれるだろう? だからだな――」
「だとしても、私はしばらく結婚するつもりないし」
バッサリ斬って捨てると、父はまたしても力なく俯いた。
牧村がその決定的な言葉を伝えに来るまで、花波の目算では3年以内。
その時に父との間にどんな空気が形成されるだろうか。
(楽しみだなあ)
牧村は「勘弁してくださいよ」とでも言うかもしれないが、その時に少しでもスムーズになるような下地作りをしたのだから許してほしい。
諦めたような顔で「ありがとうございます」と口にする未来の義弟の顔がありありと頭に浮かび、花波はふふっと笑みをこぼした。
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