第73話 何度も何度も
「しちゃいましたね」
ほんの数秒の接触を終え、その大きな目を開いた美園が小さくそう言った。
あのやわらかな時間は幸せな夢ではないだろうか。そんな疑問も、まだ握りこぶし一つ分の距離にある彼女の顔が、真っ赤な顔で照れ笑いを浮かべる美園が吹き飛ばしてくれる。
「何を、しちゃったんだ?」
自分でも口にするのが恥ずかしい言葉を、彼女の口から言わせたくてとぼけてみた。
「もう……」
口を尖らせて見せる美園だが、その頬は緩んでいる。
その吐息にくすぐったさを感じていると、美園は少し口角を上げて小悪魔の笑みを浮かべた。
「じゃあ、教えてあげますね」
その声の後、目を瞑った美園の顔がゆっくりと近付いて来たのでこちらも目を閉じた。する時も緊張したが、してもらうのを待つ方がより緊張するような気がする。変な顔してないかな、と余計な心配をしてみたが美園は目を瞑っているはずなので問題ない。そう言えば美園のキス待ち顔をもっとちゃんと見ておけば良かった。
などと無駄に高速化した思考でやわらかな感触を待っていたが、接触は唇には来なかった。
「むぅ……」
こぶし一つ分の距離まで戻った美園は、少し気まずそうな笑顔を浮かべて、その高く形のいい鼻の頭を触っていた。
「もう一回」
そう言って再び目を閉じて顔を近付ける美園は、先程の失敗を活かしたのか僅かに顔を傾けている。
僕も再び同じように目を閉じて彼女の唇を待つが、今度はきちんとそのやわらかな唇の感触が届いた。ただし僕の唇からほんの少し右にズレた位置にだが。
「おかしいです」
美園はほんの少しうらめしげな視線を僕に向けている。
「多分、目を瞑るのが早いんじゃないか。どのタイミングで瞑ればいいかはわかんないけど、慣れない内は直前まで目を開けておくとか?」
実際僕はそうした。
「じゃあ。慣れるまでしてください」
上目遣いでそう言われ、僕は無言で美園に顔を近付け――
「……される側は閉じていいんじゃないかな」
「……開けたままします」
少しムキになった美園がおかしくて笑うと、同じように彼女も顔を崩し、そのままキスをした。
◇
僕の腕は美園の背中に、彼女の腕は僕の首にそれぞれ回され、遠い時でも握りこぶし二つ分の距離で他愛の無い話をしながら、何度も何度も思い出したようにキスをした。
ただ唇を数秒重ねるだけの、国によっては挨拶のようなその行為だが、たったそれだけでも何とも幸せだった。
「慣れませんね」
「何度してもドキドキするよ」
「その方がいいです」
「ああ」
足の指まで使っても数えきれない程唇を重ね、方法の側には多少の慣れも出来たが、心の方はいまだ慣れない。美園の言う通り、その方が幸せだろうと思う。
「お姉ちゃん!」
部屋のドアがノックされ、外から元気のいい声がかけられた。声が似ている、妹さんだろう。
「乃々香?」
「入っていい?彼氏さん来てるんでしょ?」
その声で、今の自分達の体勢と距離を思い出し、お互い一斉に距離を取ってテーブルを挟んで向かい合わせに座りなおした。僕が撫でたせいで少し乱れた髪を指摘し、美園は手櫛で髪を梳きつつ部屋の外の妹さんに声を送った。
「いいよ。どうぞ」
しかし中々ドアは開かれない。美園と顔を見合わせ首を傾げると、ドアの外から「カナ姉先に入って」「はいはい」というやり取りが聞こえてきて、顔を見合せたまま笑いあった。仲良し三姉妹に微笑ましい気持ちになる。
「開けるねー」
花波さんの声とともにドアが開かれ、まずは花波さんが室内に入った後、少し遅れてそんな彼女の後ろからぴょこっと顔が生えた。美園を少し幼くしたようなその少女は、黒く綺麗な長髪を垂らしながら僕の方をちらちらと見ている。
挨拶をしようと立ち上がると、突然花波さんが妹さんの顔の前を腕で塞いだ。
「わっ!?何するのカナ姉!」
「乃々香。制服着替えようか。お客さんの前で失礼だからね」
当然不満の声を出す妹さんに対し、花波さんは美園に対し「あーあ」と言わんばかりの表情を向けつつ、冷静に妹さんを諭した。ドアを開ける前に言えば良かったのではないだろうかと思うが。
「さっきはそんな事言わなかったのに、なんで急に?」
「はいはい。後で大福あげるから」
不満を口にし続ける妹さんの背中を押し、花波さんは彼女を部屋の外まで出すと、「美園」と言って自分の唇を指でトントンとつついた。美園は訳がわからないのか首を傾げていると、花波さんは小さく「鏡」とだけ言って妹さんを連れて行ってしまった。
「どうしたんだ?」
「さあ、なんでしょうか?」
またもお互い顔を見合わせて首を傾げたが、美園はそのまま立ち上がって机に向かった。何をするのかと思ったが、花波さんの最後の言葉通り鏡を見ているようだ。
「あああっ!」
「美園?」
痛恨と言わんばかりの声を上げた美園を心配して声をかけるが、彼女は鏡を持ったまま素早く僕に駆け寄りしゃがみ込んだ。ギリギリ見えないがスカートでその体勢は危ないと口にしようとすると、僕の顔を覗き込んだ美園がまたも痛恨の声を上げた。
「大丈夫か?」
美園は力なく首を横にふるふると振った。
「リップが落ちていました……牧村先輩にも少し付いています」
ローテンションの極みと言った状態の美園が差し出してくれた鏡を見ると、確かに唇の周辺がほのかに色付いていた。
「つまり……」
「はい……お姉ちゃんにバレました」
「マジか……」
何が、というのは聞くまでもない。
「べ、別に、恋人同士、な訳だし?キス、くらい普通にするだろ。ぜん全然問題無いよ」
「そう、ですよね!普通の事ですよね」
「ああ。そうだよ」
「そうですよね」
お互いに赤い顔で頷き合い、どちらからともなくもう一度唇を重ねた。
「やっぱり普通の事だな」
「はい。普通の事ですから、最後にもう一回しましょう」
普通の事でこんなに心拍は上がらない。きっと美園もそうだと思う。またも唇を重ねると、触れた唇のやわらかさに加え、自身の心臓の鼓動を強く感じる。
最後の触れ合いは少し長く、名残惜しげに唇と離すと、お互いにぷはっと息を吐いた。そんなお互いの不慣れ具合がおかしくてまたも笑い合う、その瞬間も愛おしい。
「また乃々香が来る前にリップ直しちゃいます。牧村先輩も拭いてくださいね」
「わかった」
バッグから化粧道具を出して机に向かった美園の背中を見送りつつ、本当は拭くのがもったいない――変態的なので口には出来ないが――と思いつつも唇を拭っていると、スマホにメッセージが届いた。
『彼女の実家で初キスするとはねー』
花波さんからのメッセージにはキスマークのスタンプが添えられていた。
『恋人同士なので大目に見てください』
『まあそれはいいんだけどねー』
今度は大量についたキスマークがハート型になったスタンプが送られて来た。微妙に気持ち悪いなこれ。
『一回や二回のキスじゃ最近のリップはそうそう落ちないよ。1時間くらいで何回したんだろうね。初キスもまだだったのに』
今度は僕が痛恨の叫びを上げる番だった。
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