レンタル彼氏が元カレだった件⑨




―――何だろう、この甘い香り・・・。


梨生奈はゆっくりと目を開けた。 まだ頭が痛み、視界がぼんやりと揺らいでいる。 次第に意識がハッキリし、自分がどこか知らない場所にいるのだと分かった。 

前には先程の田中が背を向けて座っていて、パソコンの画面にかぶり付くように集中している。


「あの、田中さん・・・。 って、え!?」


上体を起こそうとした時に気付く。 自分はベッドの上で横になっていて、両手両足を拘束されているのだ。 その声で田中は梨生奈が目覚めたことに気付いた。


「・・・リオちゃん、お目覚めかい? 早いね、気を失ってから30分も経ってないよ」


食べていたドーナツのカスが口から飛散した。 机の上には大量のドーナツが置かれていて、部屋中に充満する甘い香りがソレなのだと分かった。 

田中が動いたことによりパソコンの画面も見え、そこには梨生奈がアイドルだった時のライブ映像が映し出されている。


「田中さん、ここはどこ?」

「僕の秘密基地だよ。 ほら見て、周り。 リオちゃんでいっぱいなんだ」


秘密基地といったが、ただの自宅なのだろう。 よく言えば年季の入った、悪く言えばボロの木造アパートで部屋が一つしかない。 更に大量の梨生奈に関連したグッズなどで足の踏み場がない。 

テレビなどで紹介される、まさに“アイドルオタクの部屋”といった感じだ。


「ね、ねぇ。 お願い、私を解放して」

「それは駄目だよ」

「私に何をする気?」


田中は棚の中から小さなナイフを取り出した。 刃渡りはあまりないが、それでもその鋭利な切っ先は十分過ぎる程恐怖を煽った。


「ど、どうして・・・」

「彼氏がいたことを黙っていたからだよ。 ・・・いや、違うな。 アイドルを辞めたことが許せないんだ」

「・・・」

「僕はアイドルのリオちゃんが大好きだった。 生きてきた中で一番大好きで、一生付いていくと決めた。 なのにどうして!? どうして僕の気持ちを裏切ったんだよ! そんなのは許せない。 

 だから・・・」


田中はゆっくりと立ち上がりこちらへ近付いてきた。 後退りたいが動けない。


「だから、殺してあげる。 殺して、僕だけのアイドルになってもらう!」

「止め――――」


大きな声で叫ぼうとした瞬間、間の抜けた音楽が鳴り響いた。 二人は完全に固まり、そして音の出所を探し視線が彷徨った。


「・・・何の音だ?」


梨生奈はこの音の正体が瞬時に分かっていた。


―――このメロディは、颯人の着信・・・!

―――でもどうして?


考えているのも束の間、田中は梨生奈のバッグを漁り携帯を取り出した。


「・・・はや、と? 誰?」


梨生奈はただ黙ってじっと様子を窺っていた。


「もしかして付き合っている男?」

「・・・」

「黙っていたら分からないんだけど。 今でも付き合っているの?」

「・・・」

「黙っているっていうことは別れたのかな。 何も言わないなら、僕が出ちゃおうか。 ただこのボタンを押すだけ、リオちゃんの悲鳴を聞かせてみたりして」

「ッ・・・」

「ぷくくッ。 楽しいなぁ・・・! 日本中の注目を集めていたリオちゃんが僕の部屋で僕と二人きり。 彼氏なんかじゃなくて、僕と二人きりだ」

「や、止めて・・・」


梨生奈は怖くて仕方がなかった。 今まで似たようなことがあっても、事務所が何とか守ってくれていた。 

それは時としてうざったくも感じることもあったが、今にして思えばやはり自分は恵まれていたのだ。 田中は携帯を操作し、スピーカーモードに切り替えると通話を受けた。


「もしもし?」

『・・・誰だ、アンタ?』

「それは僕の台詞だよ。 君こそ誰? もしかしてリオちゃんの“元”カレさん?」


梨生奈は声を出そうか迷っていた。 颯人に自分のことを伝えれば助けに来てくれるのかもしれない。 だが同時にそれは田中を刺激することになる。 

ナイフを持った男が逆上したら、どんな行動に出るのか分からず動けなかった。


『リオは今どこにいる?』

「そんなの、教えるわけがないじゃん。 というより、元カレさん空気を読んでよ。 今僕とリオちゃんはお楽しみ中だったの」


そんなわけがない。 信じないでほしい。 そう声を大にして否定したかった。


『居場所を教えないなら警察に』

「あー、リオちゃんが怯えちゃっているからもう切るね。 じゃあねー」


そう言って容赦なく切った。 『やっぱり元カレさんだよね?』と梨生奈のことを見て確認すると、携帯を殴り壊し始めた。 どう見ても普通ではない。 口の端には泡を吹き、目は明らかに血走っている。


「お願い止めて!」

「大丈夫だよ、リオちゃん。 僕たちの愛の間に、こんな携帯は必要ないっていうだけ」


画面がつかなくなったことを確認すると、のろのろとこちらへやってきた。


「さぁ、ようやく二人きりの時間だよ。 本当は今すぐに殺しちゃおうと思ったけど、それじゃあ勿体ないかな? 楽になる前に、もっと僕と楽しいことをする?」


手を伸ばしてくるのに抵抗する術がない。 梨生奈は襲われる悲惨な未来を思い浮かべ固く目を瞑ったが、その時ドアの方から大きな音が聞こえた。



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