神になる方法 ~How to be a GOD.~

@wind3104

全1話

 やあキミ久し振りだねえ。よく来てくれた。まあ掛けてくれたまえ。早速だが今日来てもらったのは他でもない、ちょっとした実験を手伝ってほしいのだよ。いやいや、そう警戒するものじゃあないよ。まぁまずは話を聞いてくれたまえ。それから判断しても遅くはないというものだ。


 君は神になりたいと考えたことはあるかい? 実は今回の実験はそれを試してみようというものなのさ。そんな胡散臭い顔をするものじゃあない。まぁ聞きたまえ。


 ひとつ質問だ。君は自分という『存在』が存在しうる理由について考えたことはあるかね? それはね、私の意識が君を見、聞き、触れ、それによって君と君の世界を認識することで君は存在できているのさ。逆に言えばこの私が存在できているのも、君の意識が私という存在を認識するが故に、私とその世界が存在できているというわけだ。


 では意識とは何か? それは『連続する認識』だよ。意識は常に認識によって維持され、その存在を許される。例え睡眠中であっても感覚は常に機能し続けている。だからこそ聴覚や触覚は時として夢にも影響を与えたり、あるいは目覚めさせたりもする。だから睡眠中であっても『無意識中の意識』なるものがちゃんと存在しているということさ。つまり個人の意識は生きている限り、常に認識という枷に隷属し続けているというわけなのだよ。


 では死とは何か。それは隷属した認識からの解放。『個』から『全』への回帰に他ならない。先ほどは個々それぞれの意識が相互に認識し合うことによって個とその世界が存在できているという話をしたね。認識するのは別々の個であるにも関わらず、共有する一つの世界が存在できるのは、本来『意識』というものが一つであることの証左なのだよ。そして個とは単に連続する認識によって固定化された存在にすぎない。死とはそこから解放されることで、全ての意識の集合体、この世を形成する起源である『全意識』に還るということなのさ。つまり意識とは『個』にして『全』、『全』即ち『神』、人はめでたく皆、神の御子であるというわけさ。


 そして連続する認識によって固定化された『個意識』、それが存在する世界を構成する重要な要素が時間と空間だ。


 君は空間とは何だと思うかね? 空間とは縦横高さの広がり、確かにそうだね。形而下の意識においてはその通り。だが果たして空間の本質とは本当にそういうものなのだろうか?


 君は空間を移動することはできるかい? 無論、経済的、物理的制約内の範囲であれば可能と言えるだろう。君は自分の好きなところへ歩いていくことができるし、お金があれば飛行機にだって乗ることもできる。だがよく考えてみたまえ。それは本当に移動していると言えるのだろうか?


 想像してみてほしい、見渡す限り上下左右何もない真っ白な空間を。何も配置されることのない純粋な空間、純粋な宇宙をね。そこには何もない。地面は疎か地球さえないわけだから重力もない。だから左右は勿論、上下も無いわけだ。ついでに言うと光もなければ影もない。だからさっき真っ白な空間と言ったのだが、そこにおいては実は白も黒も同質なのさ。陰陽が重なる混沌。本来何もない純粋な空間とはそんな場所であるはずだ。そんな空間に君は意識だけの状態で浮かんでいるとしよう。そうしてさらに今君がいる地点から好きな方向にほんの10メートルほど移動したと考えてみてくれたまえ。さてここで問題だ。果たして君は本当に移動したといえるのだろうか? 君は移動前と移動後の差分を客観的に証明することができるかい? そう、移動したことを証明するためには必ず『個意識』によって認識される基点が必要なのさ。つまり空間の移動=広がりとは基点が存在して初めて相対的に証明ができるものであって、絶対的な広がりなどというものはそもそも存在しない。つまり絶対的かつ純粋な空間とは本来、『点』であると同時に『無限』であるものなのさ。一方で『個意識』によって認識される基点から、相対的に移動したと仮定する場合、もう一つ必要とされる重要な要素が時間だ。空間を移動したとするならばそれに伴って経過した時間も必ず存在するというわけさ。


 時間とは、『個意識』において過去~現在~未来へ連なる一連の流れと認識されるものだが然にあらず。それはあくまでも認識によってもたらされる感覚でしかないのだよ。空間が点であると同時に無限であることは先ほど言ったとおりだ。そうであるならば、移動に伴う時間の経過もまた相対的な存在でしか無い。過去~現在~未来へと続く一連の流れ、つまり一方通行の線であらわす時間の経過なるものは、『個意識』による形而下の概念でしかない。本来の時間とは空間と同様、方向性のある線などではなく『一瞬』であると同時に『永遠』であるに等しいものなのだよ。


 人の人生というものはよくレールの上を走る列車に例えられるね。それは得てしてリリックな意味においてなのだが、形而上学的にも、非常に的を射た表現といえる。君は君が住む町を自由に移動することができる。君が列車に乗って移動した時、君の意識が認識する世界はその列車の窓から見える視界のみだね。しかし実際には窓からの視界以外にも、世界は存在するし、街並みはどこまでも広がっている。あるいは君が望むなら君は途中で列車を降り、その窓からは見えなかった他の場所へ自由に移動することだってできる。時間も然り、全ての見えている空間と全ての見えていない空間が既にそこに存在している様に、時間もまたそれに等しい。君の『個意識』という固定化された存在は連続する認識によって『人生』という列車に乗せさせられているのさ。君は誕生という始発駅から、君の人生という列車の窓から見える世界の中でのみ、時間の経過を経験することができる。それが形而下の時間の正体なのだよ。では形而上の時間とは何か? 東西古今全ての列車、つまり時間とは全ての『個意識』の人生のことなのだよ。自分が経験した、あるいは経験したかもしれない全ての選択肢と、これから経験する全ての可能性、また同じく自分以外の『個』が経験する全ての時間は既に存在しているものなのだよ。


 もし仮に人が『個意識』のまま時間を超越し、移動することができるとするならば、それは『個意識』間の移動に等しい。よくある三文SF小説のタイムトラベルなどいうものは随分な出鱈目だよ。時間の移動とは全ての場所、全ての時代に既に存在する『個』の人生を行き来することなのだよ。つまり例えるなら、異なる路線の異なる駅、異なるダイヤの列車に乗降すること、それこそが人が人のまま時間を移動することの解なのだから。


 さっき睡眠の話をしたが、睡眠中は意識があるとは言っても勿論覚醒中と比べれば無意識に近い。それはつまり個としての境界が希薄となり、より『全意識』に近い状態であるといえる。君は夢を見ることがあるだろう? その時君は常に『君』という存在でいるのかい? その夢の中では他人になり替わり、それに対して何も違和感を覚えないまま夢が進んでいく、そんなこともあるのではないのかな?


 さて随分と遠回りをしてしまったがここからがようやく本題だ。『個意識』は連続する認識によって個人の人生に固定され、生きている限り時間の流れに束縛される。さらには肉体によって物理的な空間の制約を受けてもいる。そしていずれ死を迎え、全意識に回帰し神の御許へと召される。いずれの人もそのサイクルに組み込まれ、逃れることはできないことになっているのさ。


 ではそのサイクルを抜け出すことができるとしたらどうだろう?


 人がその『個意識』を維持したまま、視覚を止め、聴覚を止め、触覚を止め、嗅覚、味覚を止めたとき、人は認識によって固定化された『個意識』の枷から解き放たれることで『全意識』の隷属からをも脱却し、独立した新たな『完全なる意識』となりえるのではないだろうか。『全意識』、つまり神の従属から離れ、新たな世界を手に入れる、すなわち新たな神の誕生というわけだ。


 ・・とまぁここまで話してわかると思うが、どうだいキミ? ぜひともこの新たな世界の創造主たる神になってはみないかね? 肉体による一切の空間の制限を受けず、一瞬から永遠までの全ての時間に存在する全能の神にね。


 ・・・尤も、神の庇護を離れた魂の果ては、冥府の主であるかもしれないがね。


                   了

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