失恋しました。祝ってください。

nero

第1話 先輩

「失恋しました」


 あっけらかんとした口調で彼女はそう言った。涙一つ零さず、瞼を腫らしてすらいないその顔からは失恋とはかけ離れているように思えた。


 泣くのを我慢しているわけでもないらしく、口元は緩やかに微笑んでいる。その口で、馬鹿げた言葉が飛び出した。


「祝ってください」


 そうして俺の家のティーカップをさも自分のものであるかのように差し出す。


 ……その、失恋と祝うがどうして結びついたのか。まずはそこから答えてほしい。

 彼女の頭の中でよく分からない化学反応でも起きたのか。


 胡乱な目で彼女へ視線を向ける。彼女は尚も満面の笑みでティーカップを差し出していた。


「……祝う、ねぇ」


 殆どオウム返しで呟く。頬杖をつきながらのその姿はさぞ間抜けだろう。


「失恋がめでたいのか?」

「それ以外の何で祝いたがるんですか」


 それで祝いたがるのが変だからこうして訊いたんだ。そう返すのは棘があるだろうか。

 言葉に迷った俺は結局「……いや、お前……変わってるって言われないか?」と妙にしどろもどろに返した。


「言われますねえ」


 のんびりと言った彼女は特に気にした素振りを見せない。

 なんだかどっと疲れた気持ちで、一先ず差し出されたままのティーカップを受け取る。


「ティーパーティーってことか?」

「ティーカップを持っているんですから」


 ……つまり、それでいいらしい。分かりにくい返答だ。

 やれやれと肩を竦めながら、座っていた椅子から腰を上げる。そのままぺたぺたとフローリングの上を歩きながらキッチンへ向かう。

 薬缶に火をかけ、その間に使い捨てのティーパックを取り出す。ちなみにティーカップにはまだ入れない。

 沸騰する素振りはまだなく、さっと冷蔵庫の中を確認して真白い箱ごと取り出す。


「ケーキだけ先に出すぞ」

「……あるんですか?」


 彼女の顔にはありありと、唐突に押しかけたのに何故、と書かれてあった。

 無いと思っていたのなら祝えだのなんだのと言わないで欲しい。世間ではそれを無茶振りというのだ。


 呆れた気持ちは溜息として零れ出る。それを霧散するように、ピイイイ、と甲高い音をたてて薬缶が鳴った。


 予想より早かったか!


 バタバタと駆け足で止めに行く。

 するとリビングの方から「ああ!」と悲鳴を上げる声が聞こえた。


 今度は何だ!


「これ誕生日の残りですね!? チョコプレートにばっちり書いてありますよ!」

「……ああ、気づいたか。弟チョコ嫌いでさあ」


 そうキッチンから言いながらお湯をティーカップに入れ、皿で蓋をする。そして傍にあった砂時計をひっくり返す。


 紅茶はティーカップを保温したら美味しくなる、とどこかで見てから紅茶を入れる時は必ずしている行為だ。正直効果はよく分からないままだ。


「あ。暇ならフォークよろしく」


 それに返事はないまま彼女がふくれっ面でこちらへ来る。


「返事しろよ」

「お祝いなのに残飯処理ってどうなんですか……」


 未だ文句を連ねる彼女に、呆れた声でそれを諌めた。


「急に言うからだ」

「それはそうですけど……」

「失恋するなら一ヶ月前に言っておけ」

「そんなの無理です!」


 目を吊り上げた彼女に苦笑する。

 まぁ、確かになぁ。


 砂時計の砂が落ちきる。それに合わせてティーカップの中に入ったお湯を捨て、パックを入れてまたお湯を入れる。


「保温するくせにポットは使わないわけですか」

「買うのが面倒」

「いちいち保温する方が面倒くさいですよ」


 呆れたように返すと、彼女はリビングへと戻っていく。

 透明なお湯がじわじわと綺麗な色に染まる。この瞬間を見るのが、何気に好きだ。

 見るならコーヒーの色より紅茶の色の方が好きで、案外こういうところで俺は紅茶党でいるらしかった。


 もう使わないティーパックを捨てて、彼女が待つテーブルへと紅茶を運ぶ。テーブルの上ではケーキがちょこんと小皿に乗っている。


 彼女を見ると「勝手に小皿に分けました」と自己申告した。


「おお、ありがと」


 そう礼を言って席に着く。


 彼女は何度か俺の家へ出入りする。暇をしていれば顎で使う俺なので、家の構造や食器の仕舞い場所等は把握されている。

 俺としてはありがたい限りだ。彼女に負担してもらう仕事が増える。


「お祝いっていうなら」


 ふっと手元のティーカップを掴む。


「なにか掛け声でもするか?」


 頭の中にあったのは飲み会の音頭だった。


「ハッピーバースデートゥーユー?」

「残念。俺の誕生日は先月だ」


 それに祝われるのはお前だろう。呆れた声を出して、ティーカップを軽く揺らす。カップの中で紅茶の水面がゆら、ゆら、と揺れる。


「何でもない日、おめでとう!」

「そりゃアリスだろ」


 そう返すと「やっぱり分かりますか」と呟かれた。

 俺も彼女も本は嫌いではなく、たまに本の内容を使っての掛け合いをしたりした。

彼女は一つ、勿体ぶるように「んん」と目を瞑って唸ってみせた。暫く間を置くと、やがて小さな声で告げる。


「失恋した日、おめでとう」


 そのちぐはぐな言葉はやっぱり違和感があって、変てこで、少し笑った。


「おめでとう」


 カチャン。そう言ってワインでも乾杯するように、ティーカップを突き合わせた。

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