君に捧ぐ花

伊東 桐

君の秘密

 ありふれた街のありふれた光景、その街角に、一人の男性が、目の前の女性にユリの花束を差し出した。

百合ゆりさん、僕と、結婚してください!」

 百合と呼ばれた女性はしばらく驚いた様子で男性を見つめた後、首を横に振った。

「私は……結婚はしません」

 ユリの花束を掲げたまま呆然とする男性に、百合は続けた。

達樹たつきさんは何も悪くありません。ただ、私は、結婚してはならないのです」

 思いつめた様子の百合に、達樹は言った。

「理由を聞いてもいいかい?」

 百合は、首を横に振った。

 自分の事情に、達樹を巻き込む気はなかった。

 だが、達樹は、引かなかった。

「理由も聞けずに、納得できない」

 百合は一つ息を吐いた。

 大好きになった人だったから、綺麗に別れたかった。

 もっとも、そう思うのであれば、達樹と付き合わなければよかったのに。

 惹かれあわなければ、よかったのに。

 今さら後悔してもどうしようもない。

 百合は、心を決めて、達樹を見た。


 看護師として働いている百合は、医師に用事があって探していた。

 解剖に立ち会っていると聞き、解剖室に入っていったとき、患者の体液に暴露した。

 後から患者はクロイツフェルト・ヤコブ病だとわかって、医師から散々謝られた。

 それもそのはず、百合が暴露した体液は、最も感染率の高い患者の髄液だったのだ。

 百合は、解剖されていた患者や、ほかに数名のクロイツフェルト・ヤコブ病の患者に接していて、どういう経過だったか知っていた。

 その病の潜伏期間は長い。

 だが、一度発症すると、病はどんどん脳を侵食していく。

 大切な人に、悲しい思いをしてほしくない。

 それに、母から子に感染する垂直感染も否定はしきれないので、子をなすこともできない。

 その日から、百合は自身に、恋することを禁じていた。

 それなのに……。

 達樹を好きになる気持ちが止められなかった。

 楽しいひと時を過ごして、いつか、別れなければと思っていたのに、プロポーズされてしまった。

 一通り話した百合は、達樹に言った。

「達樹さん、私以外の誰かと、幸せになって」


 達樹は百合の話を静かに聞いていた。

 百合が話し終えても、しばらく黙っていた。

 顔を上げた達樹は、百合を抱きしめた。

「一人で抱え込んで大変だったね」と、抱きしめる達樹に百合は言った。

「本当に、本当に、発症してしまうと大変な病気なの、だから、達樹さん、ちゃんと病気のこと知って、考えて!」

 今の勢いだけで決めてしまったら、きっと後悔するのは、達樹だと百合は思った。


 達樹は、百合に言われた通り、その病気について調べた。

 発症してからの症状は確かに恐ろしいものだった。

 それでも、発症すると決まったわけではないし、それまでの間、百合一人でおびえながら生きていくのは悲しすぎるという思いが強くなった。

 達樹の結婚の想いが揺らぐことがなかったため、結局百合が折れて二人は結婚した。


 二人は誓い合った。

 健やかなるときも、病める時も互いを愛することを。

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