第5章 僕は、チカラになりたい。1

『さあ、まだ夜明け前であります。時刻は、朝5時前。我らが乙幡剛はすでに目を覚ました。早起きの習慣は、すっかり身についたようであります。乙幡剛は、今朝からはまたごく普通の高校生に戻るわけであります。乙幡剛の高校生活第二章、つまり二学期が本日よりスタートするわけであります!』


 正直に言えば、朝からかなり憂鬱だった。


 この夏休みは、僕にとって完全にイレギュラーで、非日常過ぎる日々だった。道場でのトレーニングの日々は、正直、ついていくのがやっとで、学校のことや他のことなど考える時間も体力的な余裕もなく、瞬く間に時間が過ぎていった。

しかし、だからこそ、急に学校という日常に一気に引き戻されるような気がして、憂鬱な気分が朝から押し寄せたのだ。


 それに学校に行けば、一番会いたくないにも会うだろう。


「――おまえ、あのだよな? 今、思い出したわ……相変わらずデブでクソ情けねえヤツだなぁ? てか、おまえさ、もう新垣さんの半径5メートル以内に近づくな。わかった? 身分の違い、わきまえろ。ブタ」

 

 夏休み初日に言われた、あの言葉が今さらのように甦る。

 トレーニング中は、すっかり忘れていたのに……。


 僕はそうした複雑な気持ちを振り払うかのように、とにかくベッドを出た。そして、家の周りを少しランニングすることにした。着替えて外に出てみると、まだ日の出前だったが、走り始めると朝日が顔を出した。


 美しい朝焼けの中を僕は約30分ほど軽く走った。とても、心地よかった。

 走るのが心地いいと感じるなんて、夏休み前からは考えられないことだった。


 肉体に限定すれば、この夏休みで僕は大きく変わったようだ。

 そう思うと少しだけ、憂鬱さが紛れた気がした。

 

 ランニングを終えシャワーを浴びると、嫌々ながらひと月ぶりに制服に袖を通した。が、驚くことが起きた。


 制服が……ブカブカだった。


 特にズボンのお腹まわりはユルユルで、まるで雑誌の裏表紙のダイエット食品通販のビフォーアフターのアフターの写真のようだった……。


 この一ヶ月は、ほとんどトレーニグのことしか頭になく、自分の体の変化を顧みる暇などなかった。時々、頭に聞こえる伊達さんの実況が「顔つきが変わった」とか「スリムになった」とか言ってるのは聞こえていたし、なんかちょっとジャージゆるくなったなとは思ったことはあった。でも、鏡をまじまじと見たりはしなかったし、ジャージもお腹まわりを紐で締めるタイプのものだったから、自分が痩せたという自覚はほとんどなかった。


 しかし、さすがにこの制服のズボンには自分でも驚き、ようやく自覚した。


 ――このひと月でけっこう……痩せたかも。


 思い出したように、叔母さんがバスルームの奥に置いていた、高性能で体脂肪率も測れる体重計を引っ張り出してきた。僕はドキドキしながら、その上にのってみた。


 ピピッという電子音とともに、そこに現れた数字を、僕は思わず二度見した。


 体重:66キロ

 体脂肪率:18%


『おっとー! これは乙幡剛にとって、驚くべき数字だったんでありましょう! 実際、乙幡、思わず二度見であります‼』


 伊達実況の通り、僕は内心ひどく驚いた。

 

 約15キロ、体重は落ちていた……って、15キロ⁉

 

 えっと……この体重だと……おそらく……標準体重以下、だよね?

 

 赤鬼式ダイエット恐るべし……と思ったのと同時に、


 ――もう……デブじゃないんだ。


 と、僕はしみじみ思ってしまった。

 密かに、かつ少しずつ、うれしさが心の奥から込み上げてくるのがわかった。


『そうであります! と言いますか、今ごろ気づいたんでありましょうか⁉ 私、伊達が再三に渡る実況で「スリムになった」「体が絞られた」あるいは時には「激ヤセ」とも表現し、乙幡剛に対し、痩せたという事実を伝えてきたわけでありますが、まったく伝わっていなかったということでありましょうか⁉ 正直、若干ショックを受けております‼』


 伊達さんの実況はさておき……物心ついた頃には、すでにデブだった僕。元々、太りやすい体質で、何を食べても飲んでも、結果は同じ、太った。

密かに何度かダイエットを試みたこともある。断食したことだってある。


 でも、痩せることはなかった。


 むしろ、ダイエットに失敗する度、反動でジャンクフードやスナック菓子をバカ食いし、さらに太るという悪循環を繰り返した。しまいには、完全に痩せることをあきらめ、日常的に自堕落な生活を送っていた。それを咎める大人もいなかったし。やがて、太って醜くなればなるほど、虐められるという負の連鎖も加速した……。


 そんな自分が虎の穴で過ごすうちに、いつの間にかダイエットに成功し、物心ついて初めて標準体重以下を達成してしまったのだ。


 ――そうか、僕はもう……デブじゃないんだ。


 再び噛みしめるように思うと、大鉄さんや斬日の選手たちに改めて感謝した。

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