第1章 僕は、空気になりたい。2
黒板の日直欄には、7月10日と書かれていた。
もうすぐ、一学期が終わろうとしている。
これまでの三ヶ月、僕はまったく虐めを受けることがなかった。それは僕にとっては奇跡的なことで、じつに小4以来の心穏やかな日々だった。この事実により、僕は自分の仮説の正しさをいっそう確信しつつあった。
ただし今日、初めてミスを犯した。
授業中にクラスメイトの注目を集め、認識される機会を自ら生み出してしまった。
あの悪夢さえ見なければ……。
気にしすぎだと自分でも思う。実際、級友たちには、瑣末なエピソードだろう。
しかし、長年、虐められ続けてきた僕の心はひどく臆病になっていて、仮説を脅かすほんの些細なことでも僕はひどく恐れた。
幸いにして、その後は何事もなく時間は過ぎ、そのまま無事に放課後を迎えることができた。
あとは、速やかに荷物をまとめ、帰宅するのみ。
ようやく気持ちが落ち着いてきて、手早く鞄にノートや筆箱を収めているそんな時だった。
「――えっと……乙幡くん? だっけ?」
女子の声だった。
思わず身が縮こまる。
クラスメイトの女子に名前を呼ばれたのは、入学以来、初めてのことだった。
やはり、今日の出来事のせいか? 一気にネガティブな推測が巡る。
僕は警戒しながら、視線だけを下から上へ動かした。
真っ白な上履き。
紺のハイソックスに包まれた、細くまっすぐな足。
ほんの少し短めにたくし上げた制服のスカート。
清潔感あるシワひとつない制服のYシャツ。
正しい位置に配され、整えられたリボン。
そして、恐ろしくまっすぐで艶やかなロングの黒髪……。
顔まで確認しなくても、その髪で僕は声の主がわかった。
――
入学早々、圧倒的他薦でクラス委員に推挙された、クラスの中心人物だ。
そのままシャンプーのCMにも出られそうな、長く美しい黒髪。透明感のある色白の肌、黒目がちで大きな瞳、いわゆる清楚系美少女、なんだと思う。取り巻きの女子たちが『玲奈、読モだしね』的な発言をしているのを聞きかじったこともあるので、おそらく読者モデルなんかもやっている。性格も裏表がなさそうで、リア充独特の自然体な印象。クラスのカーストも当然、1、2位を争う上位者で、男子はもちろん女子にも、おそらく学年単位、いや下手したら学校単位で人気がありそうだった。彼女を仮に擬音で表現するなら「キラキラ」とかになりそうだし、とにかく僕が最も苦手とする、存在自体が眩しいタイプのクラスメイトだった。
そんな新垣さんが……なぜ? 僕に?
嫌な方向にしか想像が膨らまず、ひとりキョドっていると、
「――ねえ、返事してよ! 乙幡くん……で、いいんだよね?」
半ば苛立ち、半ば不安を合わせたような声がした。その声音に、僕は焦った。
――マズい!
クラスの人気者の新垣さんを怒らせたとなれば、かなり目立ってしまう!
まだ教室には、ほとんどの生徒たちが残っていたので、なおさら焦りは加速した。
やむを得ず僕は、自ら定めた禁を犯し、おそらくこの教室で自発的に初めてしゃべった。
「ははっ……はい。あっ、あ、あの……なにか?」
盛大にドモった……。
「あーもー、間違えたかと思って焦ったよー! すぐに返事してよね、乙幡くん」
「……ごごご、ごめん、なさい」
また盛大にドモり、僕は顔を伏せた。
と、急に新垣さんの声のトーンが一段高くなった。
「でね、乙幡くんにちょっと……手伝ってほしいことがあるんだ♪」
手伝ってほしいこと? 僕に?
やはり、嫌な方向にしか想像が膨らまない。
あるいは、このお願いこそが高校での虐めの始まりの狼煙、なんて考えすぎだろうか……。
おそらく、自然と険しい表情をしていた僕に、新垣さんはたたみかける。
「大丈夫、大丈夫、すぐ済むから! 乙幡くん、力持ちそうだから声かけただけだし。他意はないって! ほら、あそこを見て。あそこに、うず高〜く積まれたプリントあるじゃない? あれを職員室まで持ってくの手伝ってほしいんだ」
彼女が指さす教室後方を振り返ると、確かに棚の上に、いつの間にか大量のプリントが積まれていた。
「五十嵐先生、酷いんだよ? 椎間板ヘルニアになったとか明らかな嘘ついて、この一学期に自分で貯めに貯めたクラスの小テストのプリント、職員室に運んどけって……ひどくない?」
それでか……ようやく事態が飲み込めた。
「そんな日に限って、伊藤くんはお休みだし……。乙幡くって、ぱっと見、相撲部とか柔道部とかにいそうじゃん? 絶対、力あるでしょ? だからお願い!」
そう言って、新垣さんは両手まで合わせる。ちなみに、伊藤くんとは男子のクラス委員で、確かに今日は病欠だった。
正直、見た目だけなら、僕は確かに相撲部や柔道部っぽい。
でも、それは単にデブなだけで、体力にも腕力にも正直まったく自信がない。
しかし、カーストの頂点に君臨する新垣さんの願いを、最下層の僕が無下にできるはずもなく、またこの瞬間も教室に残る生徒たちから『なんであのクソデブが、俺らの新垣さんと話してんだ?』的な視線も感じる……ような気もし、さらに焦った僕は仕方なく首肯した。
「よかった〜、助かるよ! じゃ、これだけ私も持ってくから、あとの残りお願いね♪」
彼女は棚の前に行くと、厚さノート1、2冊分ほどのわずかなプリントを手に取るとスタスタと歩いて行ってしまった……。当然、棚には、ほぼ手つかずのプリントの山が残っていた。
仕方なく、僕は急いで棚の前に行くと、残った膨大な枚数のプリントをなんとか持ち上げ、彼女に続いたのだった……。
「乙幡くん、気をつけてねー!」
先行する新垣さんの弾むような声だけが聞こえる。だが、その姿は見えない。
膨大なプリントが、僕の視界を完全に塞いでいたからだ。その重みも、ちょっと尋常じゃない……。
「乙幡くんが手伝ってくれて、本当に助かったよ~」
言葉とは裏腹に、新垣さんの声にはまったく実感がこもっていなかった。むしろ、この力仕事を適任の僕に任せられ、晴れやかな気分のようでさえあった……。
やがて、重力が一定の働きをすると、僕の両腕は徐々に悲鳴をあげ始めた。
残念ながら、まだ職員室まではかなりの道のりがあった。
さらに厄介なことに、全身に汗をかき始めていた。
デブにとって、7月初旬はもはや夏本番だ。しかも、廊下はクーラーがほぼ効いていないので、なおさらだった。
ついに、額から滝のような汗が顔全体に伝いだした。
だが、両手を塞がれ、その汗を拭うこともできない。
ついには、その汗の雫が右目に入った。
僕は無意識に目を閉じ、首を左右に激しく振った。
絶妙なバランスを保って両腕に収まっていたプリントも、大きく左右に揺れた。
次の瞬間――
「――あっ、危ない!」
新垣さんのその短い叫びが、まるでスローモーションのように認識された。
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