第21話 私とあなたー②

 会社について、同僚と挨拶をかわしつつスマホを開いた。


 新着メッセージがあります


 そんな記述を見る。母からだ。少し迷って、仕事が終わってから返信しようとスマホをしまった。


 ただ、仕事に手を付けるが、あまり進まない。仕方ないので、ため息をついて普段あまりやらない財務書類の整理だけすることにした。


 こういう時は、あまり考えないで済む作業をした方がいい。


 無心になろうと、同僚たちが雑多に敷き詰めた書類を整理していく。


 年代順、名簿順、必要な優先順位。それが簡単に終わったらデータの整理。デスクトップを整理して、一覧ですぐ並べ替えられるよう、ファイル名を統一していく。


 やった方がいいけれど、普段、めんどくさがって誰もやらない作業、無心でできる、そんな作業。


 ただひたすらに黙々と。


 その日の、午前はそんなふうにして、時間を過ごした。


 ただ、何も考えたくなかった。



 ※



 昼休みは近くの公園で独りで過ごした。


 由芽さんがなにやら喋りたそうにしていた気がするけれど、申し訳ないが、今日は喋りたい気分じゃないんだ。


 空を見て、ふーっと息を吐く。


 ちょっと落ち込み掛けたけど、まあ、こんな日もあるかと、弁当を広げながら気を取り直す。


 スマホの通知音が鳴る。どうやら、まいからだ。


 ゆかさん、今日は早く帰ってきてくださいねー


 そんなメッセージ。あれ今日、何かあったっけ。少し、首を傾げていると、まいから追加で気合を入れている牛のスタンプが送られてきた。


 ……どういうスタンプ? よくわからなかったけど、面白かったのでくすっと笑って、私はネコがOKマークを作っているスタンプを返した。


 それだけで、少し気分がマシになった。


 我ながら、随分と単純になったものだ。


 一体、いつからだろうね。そして、誰のせいやら。



 ※



 まいと出会ったのはおよそ一年前、夏の頃。


 その日、私はいつも通り会社の飲み会に辟易としながら、夜の街を独り家路についていた。


 お酒は苦手だ。


 私はあまりアルコールに強くないから、簡単に酔ってしまう。酔ってしまえば、頭がぐちゃぐちゃになって、自分の感情が容易にわからなくなる。


 そんな中で、粗相をしないように必死に抑えてないといけない。それが、なおのこと苦手だった。


 そして、酒と雰囲気に呑まれれば、いとも簡単に周囲が感情を見失うのも苦手だった。


 過度に絡んでくる人、騒ぐ人、周囲の迷惑を考えない人、愚痴ばかりになる人。


 どれにも気を遣わないといけないから、しんどいし。


 飲みそのものを断ればいいのだろうけれど、うまい断り方が見つからないから、いつも流されてばかり。


 その日も、付き合いで飲んだ酒の量が多くて、多少、足元がおぼつかない中、帰り道を歩いていた。


 途中、見も知らぬ男に言い寄られそうになって、走って逃げた。人ごみだったからよかったけれど、追いつかれてたら逃げられなかったのかな。


 酔いが回る中、走ったものだから気持ち悪くなって、道中、自販機で水をかった。


 まずいな。少し、酔いを醒ました方がいい。


 そう思って、川原の近くに来た。川べりは夏でも少し涼しくて、人がたくさん寄っていた。


 もう、遅い時間だから、寄り添うカップルとかは少ないけれど、まだ路上パフォーマンスをしている人が数人いた。


 川原の橋の下に降りた。


 演奏している人たちが何人かいたから、曲でも聴こうかと歩いて、見て回った。


 あんまりいけ好かない、シンガーソングライターがいた。


 私はギターを弾けないから、やっかみも入っているのだろう。程々に、観客がいるのもまた、なんというか腹が立つ。まあ、あの人も相応の努力の果てにそこに立っているのだろうけれど。


 我ながら、理不尽だな。酔ってるからだろう。


 南米あたりの打楽器を演奏している、外国人の男性がいた。楽しそうに、陽気な風貌に見合った音を奏でている。


 それから。


 端っこにうずくまって、ギターを背負った女の人がいた。


 女性の割に少し背が大きく、半袖のパーカーから除く手足は、随分細くてちゃんとご飯食べてるのかなって感じだった。


 ……てか、泣いてる。なんで?


 演奏が大失敗だったのだろうか。それか、観客にひどいことでも言われたのだろうか。


 まあ、私には関係ないのだけれど。


 どうせ、私の心には、私独りしか入らないのだから。


 他人をかまっている余裕なんて、ないのだから。


 目を逸らそうとした。


 でも。


 もし。


 この人が。


 この女の人が。


 私と、同じだったら?



 酔っている。



 いつか、ギターを弾けなかった私と同じだったら?



 酒に酔ってる。



 歌いたいのに、歌えなかった私と同じだったら?



 自覚はあるよ。めちゃくちゃ酔ってるね。走ったせいかな。



 ざっと周りを見回した。周囲の演奏者にはどれもそれなりに人が集まっている。



 思考がまともじゃない。



 この女の人を見ようとする人は、どこにもいない。誰も彼女を見てはいない。



 どうかしてる。



 この人は独りだ。歌うこともできないまま。



 本当に、どうかしてると思う。



 女の人の前に、私は腰を下ろした。



 歌って、くれないかな。



 相手に都合のいい幻影を見てる。自分じゃない相手に、自分を重ねて都合のいい救いを求めてる。



 引きこもっていた、自分を。



 自分のことしか受け止められない、自分を。



 弱く、小さな自分を。


 そんな自分彼女が殻を破るさまを。


 期待して、夢見てる。



 彼女は歌ってくれない。俯いて泣いたまんま。ちらりとこちらを見たけれど、また俯いてしまう。


 時間が流れる。彼女は歌わない。そりゃそうだ、現実、そんな都合よくはできてない。


 我ながら、都合のいい妄想に呆れて少しため息をつく。


 時計を見た。


 いつのまにやら、終電が迫ってる。そう長くはいれない。


 そう、現実なんてそんなものだ。


 そう劇的にはできてない。私が引きこもりから脱出するときだって、そうだった。


 都合のいい、誰かの強い声で、自分の殻から引っ張り出されるとなんとなく思ってた。


 そういう劇的な何かを求めてた。


 でも、そんなことはない。そんなものなくても時間をかければ、なんとなく心は回復する。


 矛盾を抱えたまんま、問題を抱えたまんま。それでも前を向けるようになってしまう。


 それと同じ。変化はそんな劇的におこらない。なんとなく、おこるだけ。


 気づきもしないうちに。ゆっくりと。


 女の人はよく、泣いていた。むせながら、嗚咽を漏らしながら。


 あー、ありゃダメだね。私も引きこもりの頃、よく泣いたけれど、ああいう泣き方をすると止まらない。途中から、喉が痛くなって、涙が気道を塞いで、泣くことそのものが苦しくなる。鼻水だか、涙だかよくわかないものが喉を熱くさせて、苦しくなっていく。だから、余計、泣く。まあ、わかるよ。私もそうだったし。


 ああいうときは、一度、流さないと、苦しみそのものを。


 声をかけようと、思った。


 どうかしてる。


 でも、酔ってるしなあ、私。


 どうなってもいい気がした。


 今くらい、自分を守らなくていい、気がした。


 どうせ、私の心は今、お酒で穴が開いているから。


 自分が多少、流れたところで気にならないよ。明日の私は気にするかもしれないけれど。


 だから、そう、だから。


 声を、かけた。


 「歌わないの?」


 ばーか、歌えないから、こうしてるんでしょうが。


 自分で言ってて、呆れる。やっぱ、酔ってるとダメだね。


 でも意外と、女の人は歌おうとした。慌てたように顔を上げると、涙をながしたまま、ギターを構えて、ピックをもって。歌おうとしたけれど、喉を震わすたび、咳と嗚咽ばかりが漏れてくる。


 しばらくそうした後、女の人は首を振った。泣きながら。歌えない、か。


 ダメ、かなあ。まあ、そりゃそうだよね。


 だって、その泣き方、つらいもん。


 そこんとこ、わかってないよね。


 仕方ないから、私は持っていた水の封を開けて、歩み寄って、彼女の口に突っ込んだ。


 自分の心のことは酔っていても自覚する癖に、この行動がおかしいと気づくのは酔いがさめてからだったりする。


 それから、水のんだらマシになることを告げて、彼女に水を押し付けた。


 彼女は少しびっくりした顔をしていたけれど、驚きで涙は引っ込んだみたいだ。


 私はちょっと安心して、それからどうしよっかなって悩む。


 もう、終電も近い。これから、彼女が自信をもって一曲弾ききる姿はちょっと想像しにくい。


 そういう時は……なんだっけ、引きこもり脱出で得た知識。……ハードルを下げるのか。


 もう一度、歌ってと告げた。ただ、今度はハードルを徹底的に下げる。ちょっと足さえ上げれば飛び越えれるくらい。


 あなたの意思があればそれでいい。前に進む意志さえ見れれば、私はそれでいい。


 諦めた私に比べれば、歌えない私に比べれば、あなたを前を向ける、進んでいる。それだけでいい。


 結果なんて、どうだっていい。それはいつか花開くものだから。別に今じゃなくていいのだし。


 だから告げた。


 一言だっていい。


 一音鳴らすだけだっていい。


 あなた一歩踏み出せるならそれでいい。


 そうなれば、あなたに都合のいい幻影を重ねる私は。あなたが一歩踏み出してくれるなら、それでいいのだ。


 それだけで、私は、少しだけ勇気をもらって、きっと前に、歩いていける。


 それだけで、私は明日、頑張れるから。


 そう告げると、女の人は少し驚いたような顔をして、怖がったような顔をして、決意に満ちた顔をして。


 ピックを持った。ギターを構えた。


 私はじっと、それを見守る。


 ピックがギターの弦に触れる。


 上手く鳴らず、ピックが指から零れ落ちた。


 指が震えて、まともに持ててない。


 それでも彼女はピックを拾い上げると、泣いたままの顔をもう一度こちらに向けた。




 もう一度、今度は確かに音が鳴った。




 何の音かもわからない、練習なのか、曲の一音目なのか。弦を押さえる指が震えているから、正しい音かもわからないし、それを聞き分ける耳も私にはない。


 もう一度、音が鳴る。


 指が震えているから、かすれるような小さな音がギターから漏れる。


 震えたまま、もう一度。


 もう一度、もう一度。


 上手くいかなかったのか、何度も弾き直す。


 私はその様をじっと、ただ、じっと見ている。


 終電のことが一瞬頭をよぎったけれど、すぐどこかに消えてなくなった。今は、いい。


 彼女が声を出した。


 初めて聞くその声は、涙に濡れて、濁って、掠れて、とても聞けたものじゃなかった。


 何を言っているのかすらわからない。


 つたないまま、泣いたまま、震えたまま、掠れたまま、声を上げている。


 形にもならない、意味もなせない。


 でも、確かに、彼女は歌っている。


 震えたまま、歌ってる。


 暗い橋の下で、泣きながら歌ってる。


 何度も何度も弾き直す、何度も何度も歌い直す。


 歌はなにを歌っているんだろう。


 切れ切れの歌詞は 私 や あなた という言葉がギリギリ聞き取れる程度。


 その程度。


 ただ、曲もおそらく中盤に差し掛かるころに、ようやく言葉の判別がついてきた。



 「どこにも行けない」



 そうだね。辛いね。



 「誰にもなれない」



 そうだね。私も、そんな感じだよ。



 「それでも」



 それでも。そう、それでも。



 「どこかの、あなたに、届けと」



 うん、届いてるよ。



 上手く、聞き取れないけれど、彼女は泣いたまま。



 「それでも私は歌っているんです


 どこかのあなたへ歌っているんです」



 私へと歌ってくれた。

 


 涙が、こぼれてた。


 なんでだろ、別に私が頑張ったわけじゃない。


 震えながら、怖がりながら、それでも歌ったのは彼女であって、私じゃない。


 なのに、なんで、私はこんなに泣いているのだろう。


 嗚咽もないままに、頬を伝うそれを感じた。


 よかった、という想いがあった。心の奥の底で何かが震えてた。


 ああ、よかった。


 あなたが前を向けて。


 あなたが歌うことができて。


 あなたがここにいてくれて。


 本当に、よかった。


 ふうと息を吐くと、涙が一気に零れだした。


 自分でもわけ、わかんないくらい。


 ぼろぼろと零れてく、化粧は崩れて、きっと酷い顔してる。


 でも、でもね、それでもね。


 よかったって、そう想えるから。


 あなたは頑張って、歌ったんだよね。


 辛いけど、苦しいけれど、それでも歌ったんだよね。歌ってくれたんだよね。


 ほんの少しの勇気を振り絞って、歌ってくれたんだよね。前を向いてくれたんだよね。


 きっと、いくらお金を払ったって、こんな体験できないよ。


 彼女に、あなたに、歩み寄った。


 報いれるものがないから、とりあえず、財布からお金を全部引っ張り出して、手渡した。


 あなたはびっくりしたような顔をしているけれど、私は満足だ。


 だって、あなたが今日歌ってくれたこの体験に比べれば、こんなお金、惜しくない。


 何より、少しでもあなたが自信をもって、これから歌うことができるのなら。


 こんなお金、何も惜しくはない。


 「ありがとう! 明日頑張れる」


 そう声をかけて走り出す。


 終電も近い、急いで、帰らなきゃ。


 走って、走って、ふと気づく。


 ちょっと、血の気が引く。


 そう言えば、私、電車代をICカードにチャージしてない……。


 今から、戻る? 折角、気持ちよく渡したのに。


 でも、背に腹は代えられない……かあ。


 足を止めると我ながら、すごすごと情けなく、彼女のもとまで戻った。


 それからおずおずと声を漏らす。


 「ごめん、帰りの電車代ないから1000円だけ返してもらっていい?」


 うまく目が見れない。なんて、情けない。


 幻滅されないか、ちょっと心配だったけど、あなたは泣いたまま笑ってたね。


 「うん! もちろん。あと、お姉さん、私、明日歌うから、今度はちゃんと歌うから。よかったら聞きに来て!」


 私はちょっとのあいだ、言われた意味が解らなくて、理解した瞬間。彼女の手を握ってた。


 「うん、絶対、絶対くるね!」


 そう言って、私たちは別れた。


 会う時間も決めていなかったから、私は次の日の仕事終わりに急いで川原に来た。


 飲み会の誘いは、用事があると言って断った。同僚たちはそうか残念と言っただけ。なんだ、こんなに簡単に断れるものだったのだ。


 そしたら、あなたは早い時間だと言うのに、もう私を待っていて。


 私が来ると、ギターを取り出して歌い出した。


 他の人は足を止めない。なにせ拙いし、まだ照れたり震えたまんまだから。


 でも、私は見てる。あなたの前で、あなたの歌を聞いている。


 歌い終わったら、少し話して、いい時間だったからご飯を食べた。


 次の日も、次の日も。


 ある時、あなたが震えながら、連絡先を聞いてきたから快く交換した。


 休みの日に、私から連絡して買い物に出かけた。


 電気店に通りがかかった時に彼女はじーっとマイクを見ていた。録音したら、ネットにあげようと思ってるらしい。そっちは一人で演奏できるからって。


 まあ、確かに路上ライブ向けじゃないよね、性格が。


 買ってあげるよ、といったら非常に恐縮していたけれど、私は問答無用で買い与えてしまった。いやあ社会人でよかったね。


 その後、私たちは仲のいい姉妹みたいに、休日に出かけたり、ご飯を食べに行ったりした。


 初めて録音した「震えた指」をアップロードしたときは二人で、どぎまぎしながら、反応を待ってた。あなたはずっと慌てた感じで見てておもしろかったっけ。二人で一時間ごとに再生回数をチェックしたりして。相当数の再生数を私達が稼いでた。でも再生数はあんまり伸びなかったんだよね。ちょっと落ち込んだけれど、だからこそ高評価やコメントが付いたときは二人で飛び跳ねて喜んだ。曲はいいけど、音質が悪いってコメントがあって、私は色々調べていい録音機材をそろえた。普段、あまり使わなかったボーナスが役に立った。あなたは使った金額を聞いたら、青ざめていたけどね。


 あなたは時々、私に彼氏とかいないんですかって聞いたっけ。


 いないよとそのまま伝えたら、ちょっとだけ嬉しそうだった。


 そういえば、あの頃から、ちょっとスキンシップが激しかったよね。


 後から思うと、そういう意味だったのだろう。


 何曲か曲をアップロードした。


 反応や固定ファンみたいな人たちも少しずつ増えていった。


 季節は夏から秋になって、冬がやってきた。


 あなたは就職先が決まらないと焦っていたけれど、その日、ようやく決まったと諸手を上げて報告してきたっけ。


 その日は、クリスマスの日。


 雪が綺麗に降ったそんな日。


 その日、あなたは随分とお酒を飲んで、酔っぱらって。


 いつかの川原で私に告白した。眼を真っ赤にして、泣きそうな顔で。


 私はそれを聞いて、みょーに合点がいったというか、あー、色々触れてきたのとか聞いてきたのそういう意味だったのかと納得した。


 でも、私、そういう経験ないからなあ。わかんないよ。


 だから、応えた。


 ごめん、私はそーいう趣味じゃないから。


 そう告げると、あなたは愕然とした顔で、取り乱して不謹慎だけどちょっと面白かった。


 仕方ないから、一緒にバーに行ってやけ酒に付き合った。


 もー、私と会えないなんてやだ! と駄々をこねるから。誰もそんなこと言ってないでしょって言ったっけ。


 あなたは泣きながら、抱き着いて、優しい! 好き! って言ってたっけ。振られたばっかだっていうのに、元気だった。


 私としても、そういう趣味が合わないだけで、あなたと離れるのは勘弁願いたかったしね。


 それから、あなたはちょっと遠慮気味にだけど、私と一緒にいてくれた。


 歌う曲にあまりに露骨に失恋が入ってくるものだから、あなたがいないところで思わず笑ってた。


 でも不思議と、曲は感情が乗っていいものになっていくんだよねえ、なんでだろ。


 あなたは四月になって、ちょっと離れたところに働きに行くことになった。


 会える機会も月一になるかな、なんて話してたら、あなたはなんていうか、この世の終わりみたいな顔をしてたっけ。


 私、以外の人、探しなよって言いかけて、私は口を噤んだ。


 それを言ってしまったら、本当に関係が終わってしまう気がしたから。


 あなたが就職して二週間が経ったころ、仕事から帰ると、私の部屋の前で膝を抱えたあなたがいたよね。


 まるで、いつかの橋の下みたいに。


 あなたは泣きながら、途切れ途切れに、告げたっけ。


 実家には帰れないこと、仕事は辞めてしまったこと。住む場所は引き払ってしまったこと。


 多分、仕事場が合わなかったんだね、なんというかあなたは難しい性格をしてるから。


 実家は確か、お父さん一人だけなんだっけ。あんまり仲が良くないって言ってたっけ。


 後は、なんだろ、私と会うのが難しくなったからかな。


 ごめんね。


 ちょっとだけね、嬉しかった。


 あなたは辛いのに、あなたが私に会いに来てくれたのが、嬉しかった。


 私を頼ってくれたことも。


 こんな気持ち、あなたが知ったら嫌われてしまうかな。


 ふふ、さすがに幻滅されちゃうんだろなって思った。


 もうちょっと頼れるお姉さんらしくしないとね。


 あなたに会えない間、私も元気がなかったのは秘密にしながら。


 そうして、私はあなたと暮らし始めたんだよね。


 


 アラームが鳴った。昼休みも終わりだ、会社に戻ろう。


 私は目から零れたものを拭きながら、ゆっくりと腰を上げた。


 うん、午後からは頑張れそう。


 


 ※




 どうしても終わらない仕事があったから、まいに連絡だけして、ちょとだけ残業した。


 まいからは泣きながらガッツポーズするネコのスタンプが送られてきた。


 早々に切り上げて、ちょっとだけ焦りながら家路についた。


 小走りで駅の改札を抜けて家に帰る。


 でも、なんでこんなに焦っているんだっけ。ちょっと分からないまま、私は玄関のドアを開けた。







 「 






 え。


 ドアを開けると、パーティ帽をかぶったまいが小さなクラッカーをパンと鳴らした。


 え?


 「27歳の誕生日、おめでとうございます! 生まれてきてくれてありがとう!!」


 ええ? 私、誕生日、だっけ。


 「行きたいところがあるので、ゆかさんはお着替えを! 私はその間、準備してますので!!」


 まいはそう言って、私を部屋に押し込んでいく。


 私は困惑したまんま、あれ、誕生日、そっか、誕生日か。


 社会人になってから、意味を忘れて久しいそれを、私は茫然としたまま、受け止めていた。


 そういえば、まいに誕生日、祝われるの初めてだね。出会ったときにはもう、誕生日、過ぎていたし。


 服を脱いでいるうちに、ようやく、実感がわいてきた。


 あ、うん、ほんのり、嬉しい。


 あんまり、慣れないけれど。


 スマホをふと見た。


 母からの未読メッセージを見やる。


 「ゆか、誕生日、おめでとう」


 そんな短い、メッセージ。


 「ありがとう」


 短く、私はそう返した。


 社会人になってから、恒例と化したそっけないやり取り。


 でも今日はちょっと心が温かくなった。


 服を着替えて、部屋を出る。


 さあ、まい、今日はどこに連れていってくれるの?


 私が笑うと、あなたもにっこりと笑った。



 ※

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