第2話

「あ、どうも……」


 かるく会釈をして席に着くと、グラスに口をつける。思ったよりずっと喉が渇いていたようで、グラスの中身を一気に空にしてしまった。青年は、そんな七海をじっと見つめると、ちらりと隣の席に視線を走らせる。


「あの……あんたさ」


 改めて聞くと、男性にしては少し高めだが、良い声をしている。声をかけられた七海はぱっと青年の顔を見上げた。近くで見ると、割と整った端正な顔立ちをしている。きっとご近所のマダムたちに人気があるだろう。すこし吊り目がちで冷たそうだが、眼鏡がそれを和らげてくれている。なんとなく理系っぽい。

 ぼうっとそんなことを考えていると、突然青年が眉をしかめた。一瞬視線をそらしたかと思うと、頷いてまた七海に視線を戻してくる。


「え、あ、はい?」

「その――なんか、ええと……なんでそっち、座らなかった?」


 青年が視線を向けたのは、さきほど七海が座ろうとして辞めた席だ。七海もつられてそちらに視線を向ける。ほかに客がいないのだから当然だが、そこには誰も座っていない。

 ――誰か座ってるような気がして、なんて言ったら、おかしい奴だと思われるよね。

 これまでに何度か友人に話したことはあったが、全員揃って変な顔をしていた。それを思い出して、七海は一瞬口ごもる。


「そ、その……暖房、そう、暖房がこっちのほうが暖かそうだと思って」

「暖房……」


 青年の視線が、天井にあるエアコンの吹き出し口に向く。「そう」と一言呟くと、青年はおもむろに革張りのメニュー表を差し出してきた。


「注文、決まったら言って」

「あ……はい……」


 やっぱり不愛想なままそう言うと、七海の返事を待つことなく彼はカウンターの中でなにか作業を始めた。客商売だというのに、これで大丈夫なのだろうか。

 余計なお世話だとは思うが、七海はその横顔をこっそりと眺めてちょっと心配になる。

 ぱら、とメニュー表を開いてみる。そこには、珈琲と紅茶、そして奈良だからだろうか、日本茶と抹茶の項目が並んでいた。そのまま更にページをめくると、意外なことに甘味のメニューも充実している。あとは軽食。


「あー、悪いけど、今日はわらび餅はやってないから」

「あ、はい」

「日替わりケーキはシフォン。プレーン」

「あ、はい……」


 あわててページを戻ると、ケーキの項目の中にシフォンケーキの文字がある。味は三種類。日替わりだとケーキセットで、単品で飲み物とケーキを頼むよりもリーズナブルだ。

 ちらり、と壁にかかった時計に視線を走らせる。それから、スマホを取り出して祖母からなにか連絡が入っていないかを確かめた。


『ごめん、ちょっと長引きそう。何か食べとって』


 受信時刻は一分前。七海の口もとが、にんまりと弧を描いた。


「すいません、注文お願いしまーす」

「ん、決まった?」


 かぱ、と卵を割っていた青年が顔をあげる。


「日替わりケーキセット、飲み物はカフェラテで」

「ホット?」


 青年の言葉に、七海は満面の笑みを浮かべて頷いた。



「はい、お待たせ」

「わあ……!」


 かちゃり、と小さな音を立てて、目の前に薄いピンク色の陶器のカップと、それからお揃いの皿に乗せられたシフォンケーキが置かれた。すこし緩めに泡立てられたクリームがたっぷりと添えられている。

 小さく歓声を上げて、七海はふんわりと香る珈琲と、そしてシフォンケーキの匂いを吸い込んだ。


「それと、これも」


 そう言って脇に置かれた小皿には、ピンク色のかわいらしい形をした何かが置かれている。首を傾げた七海に、青年が「角砂糖」と一言で教えてくれた。


「え、これ……砂糖なの……?」


 思わず皿ごと手に取って、しげしげと眺める。よく見ると、桜の花びらの形だ。

 シックな店内にはあんまり似つかわしくないし、この青年が準備したものかと思うと少しおかしい。ふふ、と小さな笑みをこぼすと、青年は仏頂面ですこし肩をすくめるような仕草をした。


「別に、おれの趣味じゃないからな。ばあちゃんが……あ、ここ、ばあちゃんの店だから」

「え、そうなんですか?」


 さっそくぽとりと桜の花びらをカフェラテに落とし、七海は青年の顔を見上げた。


「そう。そういえば、あんた、この辺の人じゃないな。旅行? にしちゃ渋い行き先を選んだもんだけど」

「ううん……引っ越してきたんです。こっちで祖母と住むことになって」

「へえ……じゃあ、ばあちゃんの知り合いかもな。戒長、っていうんだけど、聞いたことある?」

「うーん……苗字じゃわからないかも……」


 くるくるとカフェラテをかきまわしながら、苦笑する。祖母たちの会話には、苗字などほとんど出てきた試しがない。それどころか、正式な名前さえわからない。

 どこそこの誰ちゃん、みたいな言い方ですべて通じてしまうからだ。


「赤人」

「赤人?」


 おうむ返しに繰り返すと、青年は自分の顔を指さした。


「おれの名前。戒長赤人(かいちょうあかひと)」

「あ、私は水分七海と言います……」


 思わず自分も名乗り返して、七海は「ん?」と首を傾げた。はて、何の話をしていたのだったか、としばしくるくるとスプーンを動かしながら考える。

 だが、青年――赤人は、ぽん、と手を叩くと納得したように頷いた。


「そっか、水分のばあちゃんとこの孫か」

「知ってるんですか?」

「ああ、そりゃな……ばあちゃんの友達だし、ここの常連だから」


 そこで初めて、赤人の口角がわずかに上がった。


「んじゃ、あんたも常連候補だ。よろしく頼む」

「え、あ、はい」


 ぱちぱち、と目を瞬かせて頷く。そんな七海の顔を見て、赤人がぷっと噴き出した。


「さ、早めに食べてくれ。自家製だからな」

「えっ……戒長さんが作ったんですか?」


 手元のシフォンケーキと赤人の顔を交互に見ながら、七海が驚いて尋ねる。すると、赤人は重々しく頷いた。

 ほええ、と意味不明な言葉を発しながら、フォークをもってシフォンケーキを切り分ける。ふんわりとした弾力があって、切り口からまた甘い香りが漂ってきた。たっぷりのクリームを掬って乗せると、七海は「あーん」と大きな口を開けてケーキにかぶりつく。


「ん、んま……!」

「そうだろうそうだろう」


 ふんわりとしたシフォンケーキが、口の中でゆるやかに溶けてゆく。クリームは甘さが控えめで、ケーキに合わせてか軽やかな口当たりだ。

 至福。

 そんな言葉が頭の中をぐるぐるまわる。


「戒長さん……天才か……えっパティシエなの……?」

「いや、大学生だけど」

「え、ええっ?」


 驚きに目をむいた七海に、赤人が苦笑いする。


「そこまで言うほどのもんでもないけどな……」

「い、いやだって、これ、今まで食べたシフォンケーキのなかで一番おいしいですよ!」

「そりゃどうも。……あ、そうだ。おれのことは、赤人でいいよ。ばあちゃんも戒長だし、ややこしいだろ」

「おばあちゃんも、お店に?」


 ふわっふわのシフォンケーキを頬張りながら訪ねると、赤人は「そりゃそうだろ」と頷いた。


「ここはばあちゃんの店だから。俺は手伝い。そのケーキはばあちゃんに仕込まれた」

「へえ……あ、じゃあ私も七海でいいです。おばあちゃんもここによく来るんでしょう?」


 そう七海が言うと、赤人は妙な顔をした。だが、彼が口を開くよりも早く、店の扉が開く音がする。

 カランコロン、と澄んだ音が店内に響き、続いて明るい声が店の中に響き渡った。


「七海、ごめーん、おそなったわ……あれ、赤人くん、今日は店番?」

「いらっしゃい。今日は休講になったんで、出てきたついでに」


 ずかずかと店内を横切ってきた祖母が、七海の隣に腰を下ろす。さきほど七海が避けた場所ではなく、反対側だ。

 思わず赤人の顔を見るが、彼は平然と「いつもの?」と祖母に声をかけている。

 なんだか釈然としない気分で、七海はシフォンケーキの最後の一口をぱくりと頬張った。

 どういうわけか、感じていた肩の重みがだいぶ軽くなっている。だが、七海はそのことにはまったく気づいていなかった。

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