かぎろひ―バイト先の喫茶「陽炎」はあやかしのたまり場でした―

綾瀬ありる

第1話

「うう……さっむ……」


 駅のホームに降り立った七海は、吹きつけた風に身を縮めて呟いた。都会ではありえないほど閑散とした電車に揺られて辿り着いた下車駅で降りたのは、七海一人である。

 山間の、小さな駅だ。さすがに駅の周辺だけあって、まったく民家がないということはないが、少し遠くに目をやると緑に覆われた山が連なっている。

 なんとなく振り返った目の前で、電車の扉がぷしゅうっと間抜けな音を立てて閉まった。


「あ……」


 そのまま遠ざかっていく電車をじっと見送る。

 駅のホームにひとりぽつんと取り残されて、なぜか急に心細さを感じてしまったせいだ。


「……おばあちゃんに、連絡しないと」


 ポケットからスマホを取り出して、メッセージを送る。すると、すぐに返信があった。年齢のわりに電子機器の扱いに長けた祖母からは「少し遅れるから、駅前の喫茶店で待っていて」という文章と、両手を合わせるウサギのスタンプが送られてくる。

 かわいらしいセレクトにほっと和む。それから再び吹いてきた風の冷たさに身をすくめ、七海は足早にホームの階段を登り始めた。


 水分七海(みくまりななみ)、十五歳。中学を卒業したばかりで、四月からは高校生になる。両親の海外転勤を機に祖母の家で暮らすことが決まり、東京からはるばる奈良へとやってきた。

 生まれも育ちも東京都の七海だが、祖母も、そしてこの奈良も大好きだ。だから、何の抵抗もなく祖母の元に行くことを決めた。両親も友人たちも「変わってるね」と言ったが、七海は笑って「奈良、良いところだよ」と答えたものだ。

――だって、東京はちょっと息苦しいもの。

 ぴ、と軽い電子音とともに改札を抜けて、ふうっと息をつく。冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んで、もう一度「さむっ」と口に出し、身体を震わせる。

荷物はあらかた送っているから、七海の荷物は背中にしょった大き目のリュック一つだ。それほど重たくないはずなのに、階段を登ってきただけで息が上がってしまっている。

 運動不足かな、と苦笑して息を整えると、七海は駅の出口に向かって歩き始めた。


「駅前の喫茶店、って書いてあったっけ」


 首を傾げながら、今度は階段を降りていく。何度も来たことがあるが、駅前に喫茶店があった記憶はない。チェーンのドーナツショップがあったはずだから、それのことだろうか。

 だが、それならわざわざ喫茶店、とは書かないだろう。おいしそうなドーナツが並ぶ店を横目に通り抜け、一応きょろきょろと周囲を見回してみる。


「あ、あった……」


 一度見ただけでは気付かなかったが、路地の入口に看板が出ている。


「喫茶……なんて読むんだろ」


 『喫茶店陽炎』とだけ書かれたその看板は、まだ真新しいもののようだった。またずしりと重たくなったような気がするリュックを、えいっと担ぎなおすと、とりあえずその店に向けて歩き出す。

 ひょい、と路地を覗き込むと、路地を入ってすぐのところにやはり真新しい扉がその姿を現した。大きなガラスを嵌め込んだ焦げ茶色の扉はなんとなく大人びた空気感が漂っていて、中学校を卒業したばかりの七海は一瞬たじろぐ。

 ドアノブには「OPEN」という札が下がっているが、中に人の気配はない。まあ、平日の喫茶店などそんなものだろう。

 見上げると、扉の上にも看板がかかっている。そこには、漢字で書かれた店名の下にひらがなが添えてあった。


「喫茶店……かぎろひ、って読むのか」


 あ、と七海は口元を押さえた。確か、古文の授業で習ったはずだ。


『東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへりみすれば 月傾きぬ』


 そういえば、この近辺には「かぎろひの丘」という場所があるはずだ。七海も一度訪れたことがある。


「柿本人麻呂……だったっけ」


 受験が終わった後、開放感に任せて勉強をおろそかにしていた七海は、おぼろげな記憶をたどってそう呟いた。多分間違っていないはず。

なるほど、この地ゆかりの店名ということなのか。

 ――渋いな。

 すると、マスターはこの辺りに住んでいて定年を迎えた渋いおじさまかもしれない。狭い町のことだ、祖母の顔見知りである可能性に思い至って、七海はほっと安堵の息をつくと、それでも少し緊張気味に扉を開いた。

 カランコロン、とドアベルの音が小さな店の中にこだまする。

 店内には、やはり客はおらず、薄暗いカウンターの奥に人影がひとつ見えるだけ。だが、その人影を見て、七海は首を傾げた。

 どう見ても、若い青年だ。年のころはそう――二十前後だろうか。ナチュラルなショートヘアに、黒縁の眼鏡をかけていて、店名の入ったエプロンを身に着けている。

 だが、おかしいのは彼が若い青年だということではない。カウンターの隅っこで、青年は誰もいない正面の席に向かってなにやらぶつぶつ呟いているのだ。

 ――ヤバい店入っちゃったかな……。

 じり、と後退ろうとしたとき、その青年が何かに気付いたように顔を上げた。そこで、ばっちり七海と目が合ってしまう。


「あ……」

「ああ……いらっしゃいませ」


 逃げられなくなった。じっとりと汗ばむ手を握りしめると、七海は仕方なく店の中に一歩足を踏み入れた。

 にこりともしない愛想の悪い青年が「どこでもお好きなところへ」と声をかけてくる。それに曖昧に頷くと、七海は扉から一直線の場所にあるカウンターの椅子にしようと足を向けた。だが、その椅子に手をかける直前になって、七海はそこからぱっと手を引いてしまう。

 ――あ、ここは駄目な気がする。

 これまでにも七海はそう感じることがあった。電車でも、飲食店でも、それこそ公園のベンチでも。

 まるで、見えない誰かが座っている。そんな気がするのだ。

 手を引っ込め、隣の椅子に手をかけた七海は、はあっと大きなため息をついた。長旅をしてきたせいなのか、妙に疲れている。

 ことん、と音がして顔を上げると、あの不愛想な青年が正面に立ち、お冷やを置いてくれたところだった。

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