優柔不断の僕は流れに身を委ねる

ミドリ/緑虫@コミュ障騎士発売中

第1話

 袋を開けると、つぶらな瞳が僕を見つめ返していた。



 千代田線と小田急線が相互乗り入れを行なっている代々木上原駅にほど近い、坂道の上にあるアパート脇。


 ゴミ集積所に積まれた白いゴミ袋がモコモコと動いていたのに気付いた僕は、それがドブネズミかもしれないという可能性を拭いきれないまま、45Lのゴミ袋を上から覗き込んだ。


 覗き込んで、驚いてつい手を伸ばしてしまった。半透明のビニール袋の中に透けて見えるのは、どう考えても何かの動物だった。


 しかもこの影は見覚えがある。隣の部屋のカップルが飼っていた奴だ。


 僕は急いでビニール袋のきつく縛られた口を解こうとするが、固すぎて開かない。


 どうしよう、このままだと窒息してしまう。

 

 ワタワタと慌てている僕の背後から、低い聞き心地のいい声が聞こえてきた。


「ビニール破ったら?」

「あ! そうか!」


 誰だか知らないがナイスアイデアだ。僕は急いで爪を立ててビニールを引っ張った。だがビニールはただ伸びるだけ。中では小さい奴がキュンキュン言っている。


「あーもう!」

「落ち着けって」


 焦る僕を見兼ねたのだろう、背後の声の主が僕の横に同じ様にしゃがみ、引っ張られて伸び切ったビニールに爪を立てて裂いた。


 裂いた隙間から顔を出したのは、隣の家の紅茶色をしたチワワだった。


 僕の顔を覚えているのか、僕が抱き上げると鼻をペロンと舐めた。可愛いが、何でゴミ袋に入ってるんだろう。


「お前……どうしてこんな所に入ってたんだ?」

「まあ間違いなく捨てられてるな」

「いやだってこいつ隣んちの……」


 そこまで会話して、そういえば隣にいるこいつは誰だ? と横を見ると、思ったよりも近い所に男の顔があった。男は僕を見てにこりとした。


 見覚えがある。


 向かいの高そうなマンションの住人だ。三十位だろうか、上等そうなコートをピシッと着こなしていて、男の僕から見ても様になっていて格好いい。


 鍛えていそうな体つき。ツーブロックの頭はきちんとセットされ、どこからどう見てもイケメン以外の何者でもない、童顔で痩せてる僕とは違う人種だ。


「おはよう。いつも会うよね」


 女なら腰砕けになりそうな雰囲気を漂わせ、顎に手を当てながら言われた。


「たまに会いますね、おはようございます」


 僕はぺこりと挨拶を返した。腕の中でチワワが僕を円な瞳で見ている。


 それにしても、どうしようか。


「その犬、知り合い?」

「知り合いっていうか、隣の家のカップルが飼ってた犬ですけど……捨てられちゃったにしても、ゴミに出すなんて酷いなあ」


 隣で男が深く頷いた。


「生き物じゃなくてアクセサリー感覚なんだろうな。酷い話だ」

「ね、これじゃ隣んちに返してもまた捨てられるだろうし……」

「君が飼えばいいじゃない」


 男は軽く提案してくるが、事はそう簡単にはいかない。


「ペット可の部屋は敷金ひと月多めに払うんですよ。貧乏人の僕には無理です」

「でもじゃあどうするの? 保健所に連れてっても処分されちゃうよ」


 隣の男からはお香なのか香水なのかは分からないが、ほんのりいい香りが漂ってきていた。出来る男は香りも違うのかもしれない。


「貴方のお宅は飼えませんか?」

「俺、いつも帰り遅いもん。ちゃんと面倒みれないよ」

「じゃあどうするんです」

「助けたの君でしょ」

「貴方だって手助けしたでしょ」


 僕と男は顔を見合わせた。そもそも僕は優柔不断なのだ。こんな可愛らしい生き物の生死を決めてしまう様な判断は大の苦手だった。


 チワワは僕の手の中でただ見つめ返していた。


「君、学生さんだよね? 結構暇なんじゃない?」


 決めつける様な言い方をされて少しむっとしたが、暇なのは事実だ。僕は素直に頷いた。


「暇は有り余ってますけどね。その代わり金はないです」


 男が爽やかな笑顔で言った。


「俺、暇はないけど金はあるんだよね」


 こうして、僕とこのイケメンのチワワ共同育成生活が始まったのだった。



 渡されたのは一枚のカードキー。男が名刺入れから自分の名刺を出して四桁と六桁の番号を書いて僕に渡した。


「これ暗証番号ね。ついてきて。あんまり時間ないから」


 そうだ。男は明らかに出勤前の様子である。僕は小走りで駆けていく男の後をついていった。腕にチワワを抱いて。


 鍵を差し込み、エントランスの暗証番号を入力すると、マンションの入り口の自動ドアが開いた。


 男はエレベーターに乗り込むと僕が入るのを待ち、最上階のボタンを押した。どんな金持ちなんだ。


「君、名前は? 俺はひじり沢井さわいひじり。独身」


 横に立つと、背もかなり高い。これは相当もてるだろう。羨ましかったが、ないものをねだっても仕方がない。


「僕は小川和也おがわかずやです。大学生二年生、仰る通り暇人です」


 エレベーターが最上階についた。エレベーターから降りると、左右の焦茶の壁に電子ロック。


「この階は二世帯しかないから間違えないと思うけど、うちは右ね」


 そう言うと、鍵をもう一度挿して、今度は六桁の暗証番号を入力し、カチリと開いた玄関のドアを開けた。


「さあどうぞ」


 にこりとしながら招き入れた。まあ愛想のいい大人だ。


 見たこともない様な洒落た部屋だったが、生活感が全くない。至ってシンプルな家具ばかり。


「お金、ここに置いていくから。必要なものは自由に揃えて。あ、これ俺の連絡先ね、時折経過の写メ送って。ていうか一回連絡して。君の連絡先分からないし」


 聖はバタバタと僕の前に名刺とメモとお金を置いていくと、再び玄関に向かった。

 

 そして一旦止まると引き返して、僕の耳元で囁いた。


「女の連れ込みは禁止」

「しっしませんよ! 相手いないし!」


 思わずぞわっとしてしまい、僕は慌てて身を引いた。聖が楽しそうに笑った。


「可愛い顔してるからてっきりいるのかと思った。じゃあ行ってくる」

「あ、はい、いってらっしゃい」


 僕がタジタジになっていると、聖は背中を向けて颯爽と出て行った。


 ふう、焦った。


 さて。僕はチワワと顔を見合わせた。こいつが暮らすのに必要な物がさっぱり分からない。


 それにどうせ僕にはちゃっちゃと決められない。であれば、店におもむき一式お任せでそろえてもらおう。確か駅前にペットグッズ屋があった筈だ。


 僕はチワワを抱えたまま、名刺とお金とメモを持って再び外に出た。



 チワワはオスだった。名前は知らなかったので聖に連絡すると、「決めていいよ」と返ってきた。うう、迷う。


 ペットグッズ屋でリードをつけてもらい、小さなペットキャリーにふわふわのマットを敷いてもらい、オシッコシートやペットシート、皿にドッグフードにと全て揃えてもらった。


 捨てられていたと素直に話をすると、渋谷区役所への登録を勧められた。犬にも登録が必要だとは思わなかった。近所にある動物病院での検査も勧められた。狂犬病の予防接種は四月、このチワワは成犬なので多分摂取済みなので問題ないが、ワクチンを打っていない可能性はあるとの事だった。近所の動物病院なら、この子の事ももしかして知っているかもしれないから聞いてご覧、とも言われた。


 僕は大きなビニール袋を肩に背負い、手にはドッグキャリーを持ち、チワワを歩かせながら聖の家に戻った。しかし立派なマンションだ。一体何をしてたらこんな所に住めるのか。


 先程見た聖の名刺には、カタカナの会社名が書かれていた。コンサルタント会社の様だったが、勿論それが具体的にどういう仕事なのかは僕には分からなかった。


 先程店で教わった通りにセッティングを行なっていく。犬にミネラルウォーターは使うなと言われたので、水道水を用意した。


 写真をパチリと一枚撮って聖に送付すると、速攻で返事が返ってきた。案外暇な仕事なのだろうか。


『完璧』


 この世で褒められて嬉しくない人間などいるのだろうか。少なくとも僕はその点素直な人間なのだ。つまり、嬉しくなってにやりとした。


 ソファーに座る僕の膝の上で呑気に寝ているチワワを見る。朝から何も食べていないのかもしれなかったが、食事は一日二回がいいとのことだったので、今日の夜からあげる事にした。


「お前の名前、考えないとなあ」


 小さな軽いふわふわを腹の上に乗せ、僕はソファーのあまりの座り心地の良さに、睡魔に襲われるまま抵抗せずに落ちていったのだった。



「和也」


 頭のすぐ上から低い声が降ってきた。


「おーい」


 声が近くなる。僕は渋々目を開けると、すぐ近くに聖がいた。


「うわっ」

「ぐあっ」


 慌てて飛び起きると、聖の鼻におでこを強打した。ぽたり、と聖の鼻から血が垂れた。僕は大慌てで胸の上で寝ていたチワワをソファーの上に起き、ティッシュを取りに行った。どこだどこだ。聖が手で鼻血を溜めながらキッチンの方を指差した。


「ああ、ごめんなさいー!」


 箱ごと聖の元に持っていき、しゅぱしゅぱ出して聖の鼻に当て、手に溜まった血を吸い取る様に更に出して、聖の手のひらに置いて血を吸い取った。ゴミ箱を探す。ああ、分からない。


 大慌ての僕の様子が可笑しいのか、鼻をティッシュで押さえながらも口の端に形のいい笑みを浮かばせた聖は、またもやキッチンを指差した。


 僕はゴミ箱を急いで持ってくると、聖の手の方のティッシュを取って捨て、鼻の方に新しいのを用意して渡した。


「君って結構そそっかしいんだね」


 楽しそうにくつくつと笑う聖。僕はむっとはしたが、怪我をさせたのは僕なのでぐっと抑えた。


「本当すみませんでした」

「まあいいけど」


 外を見ると、すでに真っ暗だった。


「え! 今何時ですか!?」


 初めて上がった人の家で何時間も惰眠を貪るなどいくらなんでも失礼だろう。昨日明け方までゲームをしてしまったのが響いたのだ。


「七時」


 鼻を押さえたまま聖が言った。目が笑っている。


「あ! こいつに餌あげないと!」


 僕は大慌てでキッチンに洗って干しておいた餌皿を取り出し、餌を秤で重さを測った。よし。


「そして案外細かい」

「うわっ」


 いつの間にか後ろに立っていた聖が、僕の肩越しから餌皿を覗いた。


「あのっ聖さんちょいちょい近くないですかっ」

「何意識してんの」

「意識してるとかじゃなくて、近いんですってば!」

「そう? そりゃ失礼」


 僕が抗議すると聖は大人しく距離を置いた。いや本当勘弁してくれ。僕はノーマルなんだ、いくら相手がイケメンだからって可笑しいだろう。


 いやでも俳優とかは格好いいなと思うから誰しも同性にときめきを感じてしまう瞬間は普通にあるのかもしれない。今回はきっとそれだ。


 僕は自分をそう正当化した。


「和也、俺明日休み取ったんだ。和也は明日も暇? 代々木公園までこいつの散歩に行ってみない?」


 餌を食べ終わっても皿を舐めてるチワワを見ながら、聖が言った。ようやく鼻血は止まった様だった。


 そして僕は明日も暇だ。


「いいですよ」

「じゃあ決まりな。それとさ、今日色々犬の事教わってきたんだろ? 教えてよ。あと名前とか」

「あ」


 名前を考えようとして寝てしまったんだった。


「実はまだ名前は」

「まだ決めてないの?」

「いや、寝ちゃって」

「じゃあ何にしようか」

「僕、優柔不断で。聖さん決めて下さい」

「じゃあ優柔不断のユウ」

「僕の事からかってます?」

「分かった?」


 聖の笑顔は急に子供っぽく見えて、僕は素直な感想を述べた。


「聖さん、イケメンだからモテるでしょ。いいなあ」

「和也も可愛いからもてそうだけど」

「否定しないのは流石ですね。僕は駄目です。優柔不断とすぐ慌てるのがどうも頼りないみたいで」

「そこがいいのに。近頃の女子は分かってないねえ」


 今度は急に大人の男の顔になって笑う。


「でもいいじゃない、ユウ」

「由来がどうも」

「いいって。こいつの名はユウだ」


 聖が決定した以上、僕に異論はない。どうせ僕だと日が暮れても決まらない。まあもう日は暮れてるけど。


「あ、そうそう、区役所に届け出が必要だそうです」

「じゃあ明日朝イチで行こうか」

「そうですね」


 僕はその後、今日店で教えてもらった知識を聖に話し、話し尽くしたのでそろそろいい加減帰ろうと思って聖を見ると、それまで終始にこにこしていた聖の表情が急に曇る。ユウをぎゅっと抱き締めて僕を見て懇願してきた。


「朝の餌やりも手伝って。お願い」

「手伝うも何も測って出すだけですけど……」

「美味しい朝ご飯付き」

「手伝いましょう」

「よかった」


 聖はほっとした様に笑顔になった。ユウの頭を撫でつつ「ユウもよかったねえ」などと言っている。その様はまるでドラマのワンシーンの様で、僕は思わず見惚れてしまった。


 イケメンは何をしても様になる。


 でもいい加減おいとましなくては。


「じゃあ聖さん、僕そろそろ帰るんで」

「え! いきなりユウと二人きりになるのか」

「大丈夫ですよ、大人しいから」

「ええー、でも……あ! 晩飯一緒に食おう! な?」


 犬を飼い始めたのに犬と二人きりになるのにびびる聖があまりにも意外で、僕は思わず吹き出した。


「何だよ」


 照れ臭そうな聖の顔。それを見て、僕は更に笑ったのだった。



 デリバリーの晩飯をご馳走になり、僕は若干後ろ髪を引かれながら聖の家を出た。心細そうな聖の表情がその原因だった。


 今日はあとは風呂に入って歯磨きして寝ればいい。今日は変な一日だったな、と隣の家の玄関をちらりと見た。中からは大声で喧嘩する声が聞こえた。ユウが捨てられたのもこれが原因だろう。


 狭い家の中に入っても、まだ痴話喧嘩の声がする。何だか一気に日常に連れ戻された気がして、僕は深い溜息をついた。



 翌朝、七時前に聖の家に行った。


 まだ寝てるかな? そう思って合鍵で入る。廊下を静かに抜けると、ドッグキャリーの中からカリカリとドアを引っ掻く音がした。


 僕が扉を開けると、ユウが嬉しそうに飛び出してきた。パタパタする尻尾の可愛い事。


「おはようユウ」


 僕はユウに顔を付けてぎゅっと抱き締めて挨拶した。暖かくてふわふわだった。


「さーてと」


 餌やりのやり方を教えるには、聖にやってもらうのが早い。僕は廊下にあるドアをノックした。しばらく待つが返事はない。


「聖さん、入りますよー」


 ドアを勝手に開け中に入ると、大きなベッドとグレーの柔らかそうな布団が見えた。盛り上がって見えるのが聖だろう。


 僕は布団を少し剥いで聖の顔を探す。あった。そして剥き出しの肩と背中。思っていた通りいい体をしていた。


「聖さん、餌やりしますから起きて下さい」


 ベッドに腰掛けて聖の肩を揺すると。


 聖の腕が僕の腰に伸びてきて、一気に引き寄せられる。


「うわわわわっ」


 そのまま押し倒され聖が上に乗ってきて、何と首筋にキスをし始めた。上半身裸のイケメンに組み敷かれる軟弱男、という脳内テロップが流れ、僕は完全に上がってしまった。


 抵抗しようにも両手首を掴まれてしまい、僕の力ではどうにもならない。聖は一体誰と勘違いしているのか。気持ちだけが焦る。


「聖、さん! 僕です! 和也ですってば! 寝惚けてないで起きて下さい!」


 耳元で大声を出した。すると、がばっと聖が僕の首筋から顔を上げ、ゆっくりと目を開けた。やはり寝ぼけていたらしい。


 不機嫌そうな顔だった。


「……おはよう」

「おはようございます」


 男が男にベッドの上で組み敷かれたままする挨拶でもないと思ったが、挨拶は大事だ。僕が律儀に返すと、聖が寝ぼけまなこで僕に言った。


「顔赤いよ、大丈夫?」



 聖に餌やりとトイレシートの交換の仕方、水の交換などあれこれ再度説明しつつ実行してもらった。


 ラフな私服に着替えた聖がユウにリードを付けようと四苦八苦している姿は可愛らしいのだが、その固そうな首筋を見て、僕は先程の事を思い出してしまいつい目を背けてしまった。


 あれにはびっくりした。


 男に組み敷かれて首元とはいえキスされるなど、男として普通に生きていたらまあない経験だ。従って僕の心臓が飛び跳ねたのは正常な反応だ。きっと。


 聖は「寝惚けたごめん」と軽く謝ってきたが、寝惚けて横にいる人を襲うなど、きっと今まで息をする様に当たり前に恋愛をしてきたに違いない。それは僕の想像を超えた世界だった。


 優柔不断で告白すら出来なかった僕とは、やはり人種が違う。


 ユウに何とかリードを付けた聖と一緒に駅近くの区役所に向かい、登録を済ませた。鑑札を貰い、首輪に付ける。


 今度は駅前に向かい、ペット可のモーニングをやっているカフェで朝食。何とも優雅だった。


 聖は、コンサルをやっているだけあって話が上手だった。あっという間に僕の平凡な生い立ちを洗いざらい聞き出すと、今度は楽しそうに自分の事を教えてくれた。高校は頭のいい事で有名な男子校、大学も有名大、仕事ばかりで最近楽しみは少なく、僕の事は結構前から見て知っていた事。


「いつも慌ててる風だから可愛い男子がいるなって思って微笑ましかったよ」


 そう言ってにっこり笑われた僕のこの微妙な気持ちが分かるだろうか。


「慌てん坊で優柔不断で童顔って、男らしさゼロじゃないですか」


 僕が溜息をつくと、聖が慰める様に笑った。


「俺は羨ましいけどね。前回の恋人に『聖は何でも勝手に決め過ぎる』って振られたし」

「僕達、足して二で割る位が丁度良さそうですね」

「そうだね」


 僕と聖が笑い合うと、ユウが僕の膝の上で尻尾を振った。それを合図に僕達は代々木公園へと向かった。



 登録をすればドッグランを利用出来るという事だったが、ユウの狂犬病の予防接種票がない為登録出来なかった。


 仕方なく僕達は歩道をのんびりと散歩する事にした。ドッグランは柵の外側から様子を見たが、犬の交流というよりも人間の交流の方が盛んな様だった。


 やはり聖は目立つ。犬連れの女性がチラチラと聖を見る。それを全て何事もないかの様に無視しているのは流石と言うべきか。


 すると、女性二人連れが聖に声をかけてきた。社会人だろうか、化粧もばっちり、所謂いわゆるキラキラ女子ってやつだ。勿論僕にはこれまで間違っても縁のない人種。


「あのー、お二人ですか?」

「そうですが」


 だが、聖の表情は冷たかった。


「あの、私達ここの公園初めてで、よかったらご一緒に」

「俺達も初めてですよ。な、和也」


 そう言うと、聖は僕の肩を抱き寄せて僕の頭にキスをした。うおいおい!


「ひっ聖さんっ」

「という事なんで失礼します」


 聖は営業スマイルを繰り出すと、僕の肩を抱いたままドッグランに背を向け歩き出した。後ろできゃー! という黄色い声がした。


「ひ、ひ、聖さん」

「だって面倒なんだもん」

「だもんてあんた」

「俺、ああいう自信たっぷりの女苦手なんだよね」

「そりゃ意外」


 肩を組んだままの聖が僕を見下ろしてクラクラする様な笑顔で囁いた。


「俺は和也くらい優柔不断で慌てん坊で小心者の方がいいんだけど」


 そして、僕はようやくその可能性に気付いた。聖はもしかして。


「聖さん、もしかして前の恋人って」

「あ、分かった? そう、男だよ」


 何か変だと思ったら。僕が口を開けてパクパクしていると。


「俺、男も女も両方いけるんだ。オールマイティだろ?」


 爽やかな笑顔で聖が笑った。



「だから、和也を襲おうとかそういう事は考えてないから。今のところ」

「今のところって何ですか」

「だって先は分からないだろ?」

「すでに襲われましたけど」

「あれは軽いスキンシップだ」

「まさかあんたあれわざと」

「はは」


 代々木公園からの帰り道。ユウを聖に渡してはいさようならとする訳にもいかず、警戒しつつも一緒に聖の家に向かっていた。


 まあ考えてみれば男女問わずオッケーであっても好みというものは勿論ある。僕が対象にならなければ別に問題はない、筈だ。それに襲わないと言われているし。て、こんな事を考える日が来るなんて思ってもみなかった。


「そう警戒しないでよ。だから言いたくなかったんだよね。ユウの事は本当にお願いしたいし、頼むよ」


 俳優かと思えそうな笑顔でお願いされて、無下に断れる訳もなく。


「分かりましたよ」

「あーよかった」

「ユウの為ですから」

「ありがとう、和也」


 安心した様な聖の言葉に、僕は警戒心を抱いてしまった事を後悔した。



それからは毎朝七時になるとユウの餌やり。朝食を聖と一緒に食べて聖は出勤、僕は時折学校。夕方にまた聖の家に寄り、ユウの世話を焼いて聖の帰りを待つ生活となった。

 

 聖の仕事は忙しさにムラがある様で、早く帰れる日もあればかなり遅い時間になる日もあり。ここのところは連日深夜帰宅が続いていた。


 仕事するって大変なんだなあ、と聖を見て思う。今日はようやく早く帰れるという連絡が入ったので、すっかり家政夫と化した僕は、聖の為に少し小洒落た晩飯を用意してみた。簡単なパスタにサラダとパン程度だが。ついでにワインも買って冷やしておいた。本当すっかり主夫だな、と我ながら呆れてしまう。


 でも、優しい頼りがいのある聖と可愛いユウしかいない生活は、僕にとっては快適そのものだった。


 そう、僕は元々人付き合いがそれ程得意ではない。強い人の意見にすぐ流されてしまう。そんな自分に嫌気がさして心機一転独り暮らしをさせてもらったが、結局学校に馴染めず今に至る。


 そんな僕にとって、聖とユウがいるこの守られた空間はとても居心地が良かった。聖は強い人間だが、それでも僕を待ってくれるから。


 いつまでもこんなぬるま湯の中にいていい訳もないだろうが、せめて今だけは。


 僕は、聖という人間が取る距離感が好ましく、というか聖という人間が好きになっていた。一緒にいてとにかく安心するのだ。


 こんなんじゃ余計他所の人と関わらなくなっていきそうだな、と自嘲気味にユウに笑いかけていると、ガチャ、と電子ロックが解除された音が聞こえた。聖が帰ってきたのだ。


 僕は玄関まで行き聖を出迎えた。のそのそと聖が靴を脱いでいる。


「聖さんおかえりなさ……」


 ぐら、と聖が倒れ込んできた。一瞬苦しそうな表情が見えたが、僕は押し倒される様にひっくり返って床に頭を強打した。


「……ぐっ」


 涙が出て目の前に星が飛んだが、一緒に倒れ込んだ聖からは殆ど反応がない。はっとして首を触ると熱かった。熱がある。


「聖さんっしっかり!」


 聖から抜け出そうとするが、重くて動けない。すると、ぼんやりとだが聖が目を開けた。


「和也……ごめん」

「僕は大丈夫だから、布団行きましょ、熱すごいですよ!」

「ごめん和也、ごめん」


 僕は驚いて上にいる聖の目を見た。泣いているじゃないか。泣く程辛いのか。

 とてとてとユウがやって来て、聖の涙を舐めた。


「頭痛いんですか?」

「心が痛い」

「不整脈ですか」

「まだそんな年じゃない」


 目の前の聖の口から出る息が熱い。相当熱が高そうだった。


 そしてとんでもない事を言った。


「和也ごめん、どうしよう、やっぱり好きだ」

「……へ?」

「前から気になってたから、和也が困ってるの見てラッキーって思って近付いた」

「え」


 熱で朦朧としているのだろう、呂律も巧く回っていない。そして勝手に聞いてもない事を供述し始めた。


「犬は、実はあんまり得意じゃないんだけど、和也が可愛がってるの見て俺もユウなら平気になって来た」


 そうだったのか。


「何とか一緒に居れないかなと思ってあれこれ画策したら、和也も楽しそうにうちにいる様になって、それで満足出来るはずだったんだけど」


 そう、あれからは接触はなかった。


「こんなに具合悪いのに和也帰っちゃうかなと思ったら悲しくなって」

「聖さん、熱出すと途端に気弱になる典型的なタイプですね」

「そういう急に冷静になるところも、好き」


 相変わらず聖が乗っている。だから僕はちっとも冷静なんかじゃなく、僕の心臓がばくばくいってるのは分かって……ない?

 

 僕は、聖の心臓も僕に負けず劣らずばくばくいっている事に気付いた。


「和也、このまま一緒にいてくれ」

「聖さん、これはその、告白というやつですか」

「そのつもりだけど」


 熱で目をとろんとさせながら聖がふにゃ、と笑った。うおお。


「ぼ、僕、正直聖さんとユウといるのは凄く落ち着いてて好きなんですけど」

「けど?」

「優柔不断だからこの先どうしていいか分からなくて」

「うん」

「どうしたらいいでしょうか」


 聖が一瞬キョトンとして、次いで破顔した。


「男同士って踏み出すの勇気いるかもだけど、俺が引っ張ってやる」

「でも、い、いいんでしょうか」


 そう、邪魔をするのは僕の中の常識だ。聖は好きだ、気になる、一緒にいたいけど、怖い。未知の世界は、怖い。


「優柔不断なんでしょ?」

「はい」

「じゃあ流されてみたら」

「え」


 聖の潤んだ瞳は、僕だけを見ていた。


「俺が引っ張るから、和也は流されてればいい。俺が守るから」

「聖さ……」


 聖の熱い口が、僕の口を塞いだ。やだな、嫌な気が全然しない。流れに身を委ねるって、こういう事を言うんだろうか。


 ああ、風邪移っちゃうな。


 でも、それもいいか。一緒に寝込んじゃえばいいんだ。


 聖の言葉通り、優柔不断な僕は、聖に身を委ねる事にしたのだった。

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