インバウンズ-ようこそ、どんな欲望も満たす異世界へ-

師走那珂

第1話 アマガミ リョウ



 天神アマガミリョウのは、もう昔の話である。

 勉強は赤点をとらない程度で、「良い」とも「悪い」とも言い難い。


 けれど彼には、バスケットボールがあった。


 中学生のころは静岡県選抜に選ばれ、その功績が進学先を決めた。

 バスケの名門校に特待生として入学後は、U-18日本代表にも選ばれた。


「リョウ、今度キョウヘイの進学祝いでご飯食べに行くの、あなたも来ない?」

「親父もキョウヘイも、俺がいたら迷惑だろ」


 それが今となっては、高校を中退してから職にも就かず実家の二階にある自室にこもり、朝から晩までゲームやネットばかりの穀潰しと成り果てた。

 母の祥子ショウコはこうして、「親父と顔を合わせたくない」と食卓を囲もうとしない亮に料理を持ってきてくれたり、気にはかけてくれる。


「そんなこと──」

「あるよ、そんなこと」


 しかしそれは、「腹を痛めて産んだ子への最後の良心だろう」と亮は思う。

 かつて「流石は俺の子だ」と亮を褒めない日はなかったであろう父の雅和マサカズは、もう彼になんの期待もしていない。

 当然である。なんの生産性もなく、ただ遊んで飯を食らっている彼になにを期待できるだろうか。


「せっかくの祝いの席を、俺のせいで台無しにしたくない」


 近所の見知った人々も、両親も、かつて亮に期待していた人間は、もう誰も期待していない。

 その期待の眼差しが向けられたのは、東京の有名大学に入学が決まった弟の恭平キョウヘイである。


「わかった、夕飯代置いておくね」


 亮にとっては、それでよかった。

 というのは、彼にとって幸せなことだった。


「うん」

「じゃあ、お父さんとキョウヘイ、もう帰ってくるから──」

「その、母さん」


 高級そうな長財布から取り出した五千円札を、かたく閉ざされた部屋の扉の前に置こうとしたその時、どこか悲しそうな祥子の手がピタリととまる。


「なに? リョウ」

「ありがとう」


 亮のたったひと言が、祥子は嬉しくて嬉しくて堪らない。

 歓喜のあまり、瞳を涙で潤ませながら祥子は「うん」と笑って頷いた。


 しばらくすると家の一階からは父と弟の声が聞こえたはじめ、そして消えた。

 祥子以外のふたりに共通していたのは、亮が食事についてこないのを少しも疑問に思っていなかったということ。


「なに食おうかな」


 熱中していたゲームがひと段落し、「ふぅ」と息をついた亮が、なにもない天井をボーッと見あげる。

 少し歩いたところに牛丼屋があるのだが、その店では亮の中学生時代の後輩が働いている。

 静岡県選抜になった中学生時代は尊敬されたものだが、今のボサボサ頭にヨレヨレのスウェット姿では、合わせる顔がない。


「そういやあいつら、飯食ったかな」


 思い出したように手元のスマホで連絡先を探したのは、ここ一年二年でつるみはじめたゲーム仲間。

 画面越しに知り合った彼らだったが、同じ浜松市内在住とかなり近かったために、亮が家に居づらいときはこうしてよく誘っている。


『飯食べた?』


 グループチャットで亮が問いかけてから、『まだ』という返事がくるまで一分も経たなかった。


『これから飯とカラオケいかね?』

『わかった、いつも通り浜松駅でおけ?』

『おけ、ベコピンとくりはまだ仕事?』


 四人で作成したグループにも関わらず、ついた既読はひとつだけ。

 返事をしているツラミ以外のふたりは、まだチャット画面をひらけるような状況ではないのだろう。


『そうっぽい、先に集まってゲーセンで時間つぶそうぜ』

『いいね、早速向かうわ』


 さすがに上下スウェットのまま電車に乗るのも、駅前をうろつくのも、亮に残された世間体を気にする最後のプライドが許さない。

 すぐにチノパンとロンTに着替え、窓をひらく。空が茜色に染まる屋外から吹きこむのは、体を凍てつかせるような冷たい風だった。


「うう、寒っ」


 三月の下旬、まだまだ冬の寒さとやらは健在らしい。

 分厚いダウンジャケットをうえから羽織ると、亮は部屋の前にぽつんと置かれた五千円札を拾いあげて、足早に家を出ていった。

 満二十二歳の亮に、免許はない。自転車は高校時代の通学用に使っていたものが家のガレージにあるのだが、こぐたびにギィギィとうめき声をあげてしまう錆びだらけのそれに乗ろうとは思えなかった。

 とはいえ、歩きでは最寄りの駅までそれなりの距離があるし、外は突き刺すような冷たい風が吹き続けている。


「はやく店であったまりてぇ」


 ダウンのポケットに両手を突っ込み、駅まで急ぐ亮。

 道中、右のポケットが震えた。


「ツラミのやつ、もう着いたのかよ」


 バイブレーションは一瞬で、おそらくメッセージの受信だろう。

 少しばかり早めな気もするが、浜松駅で待ち合わせたツラミが到着したに違いない。そう思って、亮はメッセージを見なかった。

 人通りの少ない裏道を選び、駅までの最短ルートを急ぐ亮。

 曲がれば駅の駐輪場が見える角に彼の足が近づいたその時、亮は背後からなにかが近づいてくる気配を感じた。


 視界の隅のほうに捉えた影は大きい。人が走ってくるのではない、自転車でもないだろう。

 車と思うのが普通だが、おかしなことにエンジン音もライトの灯りもなかった。

 待ち合わせに向かう途中で事故に巻き込まれては、たまったものじゃない。そう思った亮がすぐに立ち止まり、背後から迫るなにかのほうを振り返る。


 ――――そこにいたのは、大口をあけた黒い化け物。


 近くにあった二階建てのアパートすら、ガブっと噛みつけてしまいそうなほど大きな口をひらいているせいで全貌はよくわからない。

 アスファルトを泳ぐ巨大なサメのようにも見えるし、恐竜のようにも見える。

 ただひとつ、亮がわかっているのは、大きくひらかれた口が向かう先がほかでもない自分だということ。


「なんなんだよコイツ!」


 感じたことのない危険に亮は冷や汗を流し、大慌てで角を曲がった。

 それでも、化け物は追ってくる。


「だっ、誰か! 誰か助けてくれ! デカい化け物がっ!」


 全力で走りながら、亮が声を荒げた。

 しかし誰も来てくれない。気づいてくれない。


「けっ、警察――」


 警察がこの事態を対処してくれるかはわからない。そもそも、今から110番に連絡したって間に合うはずがない。

 だが今の亮には、それしか縋れるものがなかったのだろう。

 すぐにポケットからスマホを取り出すが、慌て過ぎて絡まった指がスマホをうまく掴めず地面に落としてしまった。


「くそっ、くそ!」


 足を止めることなど、絶対にできない。そんなことをすれば食べられてしまう。

 学生時代にバスケをやっていたお陰で、足の速さにはそれなりに自信のある亮。しかし化け物の速度は、それを遥かに上回っていた。

 まるでそれは、アクセルをいっぱいに踏み切った乗用車。


「うわあああ――――」


 化け物に追いつかれ、ひと口で食べられてしまった亮の断末魔は途絶え、誰の耳にも入ることはなかった。

 亮の姿や断末魔とともに化け物は姿を消し、茜空の下の細い道路では亮の使っていたスマホが哀愁を漂わせる。


 亮と化け物が姿を消して、五分ほど経ったくらいだろうか。道端に落ちた亮のスマホが誰に操作されるわけでもなく、勝手にメッセージを削除しはじめた。

 スマホがひとりで削除したのは、直近のメッセージ。


『シーズン3の開始に伴い、新たなプレイヤーを追加します。』


 亮がどうせツラミからのものだろうと無視した、発信元のわからないメッセージ。

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