第25話 不破と灰谷は次への一手を企図する

 その日華乃は一日中歩き回り、夜には事務所内を彩藍を追って駆け回ったことで疲れ果てたのか、既に就寝して深い眠りに落ちているのだろう。


 夜半過ぎに童士と彩藍は、まだ執務室の長椅子に対面で腰掛け……差し向かいで酒を呑んでいた。


「それにしても気になるのは……任部社長の妹、紅緒に起きた異変だな」


 童士は難しい顔で、彩藍の仕入れた音羽紅緒おとわ べにおの容体について思案している。


「確かにね、僕らが湊川隧道で這い寄る混沌ナイアルラトホテップやらハイドラだのと戦ってた夜から、眼ぇを覚まさんと眠りっ放しなんも妙な符牒を感じるよなぁ」


 華乃が作った酒の肴を頬張りながら彩藍は、モゴモゴと推論を述べている。


「ハイドラの顕現………いや、受肉と言った方が正しいのか?

 ……まあ、この世界にハイドラを呼び出すために、人間の………それも女の血肉が大量に必要だった訳だ。

 ハイドラについては、肉体は完成形に近いような雰囲気を醸し出していたが……精神的にはまだまだ仕上がっていないような気がしたな。

 何らかの形で、人間の精神を乗っ取るなり寄生するなりして………精神的な成長を遂げようとしている、とは考えられるのではなかろうかと思う」


 童士の考察を受けて彩藍も、自身の考えについて述べる。


「童士君の考えも可能性としてはあり得る話やねんけど、もしかしたらもっと単純な話かもやで。

 多吉さんによると、紅緒さんは夜中に絶叫してから意識を失うたらしいから。

 童士君がハイドラの両手を叩き潰した瞬間の、ハイドラから発せられた強烈な感情を……紅緒さんが何らかの形で同期し、受信したってことやね。

 あまりの衝撃に、意識を保つ脳味噌の回線がブツッと切れてしもたかも知らん」


 うむ………と呟きながら、童士は思索を続ける。


「ハイドラ側からの能動的な精神支配なのか、それとも音羽紅緒の受動的な同調体験による結果なのか…………。

 ふむ……何にせよ、彩藍には任部社長への報告と共に、音羽紅緒の現状を聴取して貰わなければならないだろう」


 せやねと頷き、彩藍は同意の意思を示す。


「もしかしたら、童士君がぶっ壊したハイドラの大怪我も、回復すんのにまたが必要になるかもやん。

 僕も三業組合の線でついでに聞き込みはしておくから、童士君もハルさんの商工会議所で聴取しといてくれへん?」


 あぁ判ったと呟き童士は、更に深く思考の海へと漕ぎ出した様子。


「ところで、彼奴等『古き神々』エルダーゴッズの眷属だが………どこに姿をくらましたと思う?」


 気怠そうに酒杯を傾ける彩藍に向かって、童士は問い掛ける。


「童士君が撃退した、ハイドラと深き者どもディープワンズについては……やっぱり水辺に巣食っとるんと違うやろか?

 這い寄る混沌ナイアルラトホテップのオッさんについては、どこに出よるか判らんけどね」


 フルフルと酒杯を揺らして、物憂げな顔で彩藍は応える。


「神戸の水辺か……烏原堰堤より湊川隧道を伝う兵庫運河周辺および和田岬周辺、布引堰堤から生田川を経由し外国人居留地のある神戸港東側近辺。

 取り敢えず近隣の候補地としては、こんな物だろうが……彩藍お前はどう見る?」


 童士の問い掛けに地勢状況を想像しているのか、はたまた泥酔しているのか………半眼となった彩藍は回答を紡ぎ出す。


「う〜ん、前提条件としてアレ等が『』を求めとるなら下流やろね。

 上流に行けば行くほど、あの団体さんは目立ってしゃあないし……人の往来も少ないもんなぁ」


 そうだなと呟く童士は、今後の行動指針について心を決めたらしい。


「俺達の今後の方針としては、ハイドラの行方を港湾方面から北へ追いつつ………取り敢えずあの女怪を叩くしかないか」


 自身に深傷ふかでを負わした女怪との再戦を想像し、童士は切子グラスの杯に残った酒を呑み干しながらニヤリと笑う。


「童士君?

 華乃ちゃんのおかげで、最近顔が柔和になって来たと思っとったのに……これまたどエラい悪い顔になっとりますよ?」


 彩藍の指摘に童士は、フンと鼻を鳴らして応える。


「そもそもこれが俺の本性だ、彩藍………お前も良く知っているだろうが。

 華乃に見せる顔が偽りだとは言わんが、これこそが鬼の鬼たる所以なんだろうよ」


 彩藍は一瞬虚を突かれたような顔をするが、直後にはニヤニヤ笑いを浮かべる。


「ふ〜ん………それでも華乃ちゃんへ見せる顔については、強く否定はせぇへんのやねぇ。

 それはそれは……華乃ちゃんに伝えてあげたら、彼女は喜ぶと思うけどなぁ。

 この発言については、必ずハルさんにも伝えとこうっと」


 彩藍の揶揄いにムッとした表情を見せる童士だが、それでも本気で怒る様子でもない。


「ハル婆さんにはお前から、好きに伝えるが良いさ。

 お前に揶揄われるのも面倒だから、もう華乃に対する感情についても否定はせんよ」


 諦め半分のぶっきらぼうな台詞に、彩藍は眼をキラッと輝かせる。


「童士君……本気なんやね。

 それなら華乃ちゃんのことは、気合いを入れて僕らで守ってあげなアカンなぁ。

 泉美さんと死に別れて、あないな境遇になっても……元気で可愛いエエ娘やもん」


 彩藍の言葉に重々しく頷く童士だが、一点だけ否定の言を述べる。


「多分………『守ってあげる』と云う表現は、少し違うと思うがな。

 華乃は確かに……元気で可愛いらしい娘だ、その上で地に足のしっかりと着いた、人としての強さを持った娘でもある。

 俺は出来得る限り、その強さを支えてやりたいと思うんだ」


 童士が珍しく饒舌に自分の想いを語るが、彩藍もまた珍しく童士の発言を茶化すこともせず…彩藍にしては真顔で聞き入っている。


「そやね……僕らみたいに刹那を生きる事件屋と違うて、華乃ちゃんには真っ当な幸せを掴んで欲しいもんな。

 せやけど童士君?

 まさか華乃ちゃんの幸せのために、この稼業しょうばいを畳むとかは言わんやんね?」


 少し不安げな表情で童士を見つめる彩藍に、童士はフッと笑顔を見せて返す。


「華乃が俺の傍に居ることで幸せを感じているのなら、今のままの俺と一緒に居ることの折り合いを付けて貰うさ。

 仕事と私事を混同する程、俺も愚かではないつもりだ。

 まぁ……今までならば仕事で死ぬことを恐れないことが、俺の鬼としての矜持ほこりであり自尊心プライドだった。

 しかし……これからは華乃の待つ場所に、必ず生きて帰るために足掻いて闘うことが、不破童士の存在意義レゾンデートルであり果たすべき責任やくわりになるんだろうな」


 いつになく熱い語りに童士は、少し酔いがまわったかと笑う。

 彩藍も、僕も酔って逆に真面目な話をしてしもたかな?と薄く笑顔を浮かべる。


 そして……本来であればもう既に眠っていた筈の華乃は、執務室に通じる扉の前で童士と彩藍の対話を確かに聞いていた。

 童士の誓いを、彩藍からの祝福を………偶然にも聞いてしまった華乃は、声が漏れぬよう両手を口に当てている。

 そして両手が塞がっているために、無防備に大きく見開いた両眼から……ポロリと涙の雫を一つ溢したのだった。

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