第17話 不破と灰谷は休養中に叱咤される
どうにか大輪田芸能興行社に帰り着いた童士と彩藍は、各々が自身の部屋に戻ると、何はともあれ寝室に転がり込んで眠りに墜ちた。
どれ程の時間を睡眠に割いたのだろう、睡眠過多で疲れ果てた肉体に、芳しくも欲望を刺激する香りが漂って来る。
食欲を刺激し空腹をさらに激しい物へと変質させる、何とも言えない美味を予感させる
「何の匂いだ?」
「良い匂いやなぁ」
事務所内の執務室で鉢合わせした童士と彩藍は、空腹に眩暈を起こさせる誘惑の香りに釣られて、同時刻に寝床から這い出したようだ。
「童士君……仕出し屋でも呼んだん?」
「俺は知らんぞ、さっきまで眠り続けていたからな」
彩藍と童士、両名ともに不思議そうな表情をその
「僕も今さっき起きたトコやねんけど……じゃあ、この匂いは何かの罠かいな?」
「これが罠で、食い物がありませんでした………では、このボロ家ぐらい破壊し尽くすぐらいには怒り狂えるぞ」
空腹のあまり物騒な台詞を吐く童士と、同じく空腹のあまり混乱し切っている彩藍、二人の会話に合わせるように、執務室に入って来た存在が居る。
「童士さん、彩藍、二人ともやっとこさ起きたんかいな。
もうすっかり夜になっとるで」
ひょっこりと割烹着姿で顔を覗かせたのは、ハルの息が掛かった店に預けた筈の華乃であった。
「…………ッ!!
二人ともっ!
ボロボロになっとるやんかっ! 傷まみれの血まみれやし……彩藍は片腕まで無いなっとるがな!」
笑顔で現れた華乃だったが、激闘を終えたままの二人の姿を目にした瞬間、驚愕の叫び声を上げる。
華乃を預けた後に一仕事をこなした旨を説明し、ボロボロの姿だが睡眠で休養が取れたので、見た目より状態はマシだと説明すると、華乃は少しだけ落ち着いたようだ。
「ハイハイ!
童士さんも彩藍も、二人ともご飯の前に身綺麗にしといで。
今の
大の大人が二人も揃って、泥だらけになるまで遊んだ子供が母親に追い立てられるように、浴室へと追い立てられる。
「あーっと、華乃?
俺は昨夜から何も食ってないんだが……少しだけでも何かを口に入れて良いんじゃないか?」
童士が珍しく憐れを誘うような口振りで、気弱に異議を申し立てようとする。
「華乃ちゃ〜ん、一生のお願いっ!
おにぎり一個だけでも恵んだってぇなぁ」
彩藍は軽い口調であるものの、端正な顔で眼をウルウルと潤ませて………華乃に縋り付く。
「絶対に……アカンッ!!
童士さんも彩藍も、自分の姿を鏡に写してみぃな!
エラい薄ら汚くなってしもた上に、全身からドブ泥の臭いがしよるで!
『清潔な躰と美味しい食事』これはお婆ちゃんから仕込まれた、一子相伝の家訓やねんで!
………理由は知らんけど」
かなり適当な論理ではあったが、華乃の剣幕に押し切られるように、童士と彩藍は各自の階にある浴室へと向かう。
「華乃ちゃん……小うるさいお
彩藍がポツリとボヤく。
「まぁ……仕方あるまい。
俺達の姿は、本当に華乃が言う通りのモノだとは思うしな…………」
童士は彩藍を見、自身の躰も見回すと、身に着けた着衣の臭いを嗅いで顔を
「ほなまた後で」
「手早く風呂に入ってから飯だな」
空腹に伴う低血糖に全身を震わせながらも、素直に浴室へと向かう童士と彩藍であった。
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入浴から数十分後、全身の擦過傷や
「うわぁ〜、豪勢なご飯やなぁ〜」
「うむ……こんなに美味そうな飯は、いつ以来だろう」
当初は華乃への気遣いから、褒める方向性で行こうと心に決めていた童士と彩藍だったが、配膳された料理の予想以上の仕上がりに、本心から感嘆の声を漏らした。
「アタシを預かってくれた惣菜屋さんの小父さんと小母さんに、材料を分けて貰ったんよ。
二人のお口に合うかは判らへんけど…………」
望外の褒め言葉を童士と彩藍から受け取り、照れて顔を赤らめた華乃は二人に食事を勧める。
並べられた夕食は、炊き立ての白米に一汁と焼き物と煮物と和え物が添えられた、一般的な家庭料理とも言える品々であった。
しかしながら出来たての、湯気が立ち昇る温かい料理など、童士と彩藍のこれまでの暮らし向きではあり得ない食卓の情景であった。
「いただきま〜す」
「うむ、戴こう」
「はい、召し上がれ」
童士と彩藍が夕食を作ってくれた華乃への、感謝の念がこもった挨拶を終えると、飢餓状態が極まった感のあった二人は箸を取り夕食に取り掛かった。
一口を頬張った後に一瞬眼を見開き、そのまま食事を続ける童士と彩藍。
しばし無言で米飯とお菜を貪るように掻き込む童士と彩藍、二人を見つめる華乃は少し心配顔のまま。
一膳目の茶碗をほぼ同時に空けた童士と彩藍は、先を争うように声を上げる。
「華乃、お代わりを貰えるか?」
「華乃ちゃん!お代わりっ!」
差し出された茶碗を童士の分から先に受け取り、華乃は恐る恐る二人に尋ねる。
「あの……美味しい…………?」
童士と彩藍は顔を見合わせてから、華乃に向かって邪気のない笑顔で告げる。
「すまん……美味すぎて食べるのに夢中で、喋るのことも忘れていた。
これは本当に美味い、店で出せる程の味だと思うぞ」
「メッチャ美味しいっ!
華乃ちゃん良いお嫁さんになれるって」
二人の感想に顔を赤らめながら満面の笑顔を弾けさせて、華乃は二人の茶碗を持って二膳目を入れるために席を立つ。
間もなく二膳目を二人に渡すと、華乃は真剣な顔で童士と彩藍に話し掛ける。
「二人とも……聞いて欲しいことがあるから、食べながらでも良いから聞いてな…………」
口一杯に夕食を頬張ったまま、童士と彩藍は顔を見合わせてから頷く。
「あんな……アタシは昨日の朝に、何も教えて貰えんとお惣菜屋さんに預けられたやんか。
お店の小父さんも小母さんも良い人やったし、アタシもお店の手伝いとかしながら楽しく過ごしとったんやけど……童士さんからも彩藍からも何の連絡のないまま、今日の朝方にハルさんって人の使いの人が来て、二人が戻って来たよって言われたん。
ここに来たら二人とも寝とるみたいやから、起こさんように台所を片付けてご飯の用意して、夜になって起きて来たらあの有様やん?
二人ともボロボロやから、もしかしたら敵討ちにでも行ってくれたんかと思うと……嬉しいけどアタシのせいで二人がボロボロになったら嫌やねん。
それに、童士さんはアタシのことを守ってくれるって言ったやん!
もしものことがあって童士さんが
二人のお仕事に口を挟むつもりなんてないけど……待って心配しとるアタシにも、二人が何しとるかは教えて欲しいねん…………」
気丈に振る舞ってはいたが、頼るべき人に再び去られてしまう恐怖を感じていたのであろう、涙を浮かべて童士と彩藍に懇願する華乃。
「華乃ちゃん、お代わり!」
二膳目を食べ終えた彩藍は、その場の空気を読んでいないかのように大声をだした。
華乃が次をよそう間に、彩藍は童士にそっと耳打ちをする。
彩藍の三膳目を渡した時、童士は華乃に精一杯の優しい声で語りかける。
「華乃………済まなかった、俺は華乃を、単に子供扱いしていたのかも知れない。
お前に何も告げなかったのは、無駄に心配を掛けまいとする気持ちからだったんだ。
そのことが華乃を、余計に心配させるとは思ってもみなかった。
これからは華乃が心安く待てるように、ちゃんと行き先は告げようと思う。
しかし……華乃を独りきりで待たせるのは、逆に俺の方が心配になってしまう。
だからこれからも、俺と彩藍が二人で出る時はあの店で待っていてくれ。
必ず俺が迎えにいくから……頼む…………」
頭を下げる童士に華乃は、顔を赤らめて恥ずかしそうに頷いて告げる。
「はい……童士さんの言うことをちゃんと聞いて、童士さんが安心して戦えるように………ずっと待っています…………」
「ありがとう華乃……それと済まないが、俺にももう一杯お代わりを貰えるだろうか?」
おずおずと茶碗を差し出す童士の姿に、華乃はプッと吹き出した。
「うん!
お代わりはまだまだあるから、たくさん食べてね」
歩いて行く華乃を見ながら、彩藍はニヤニヤ顔で童士の脇腹を左肘で小突く。
そんな彩藍を仏頂面で無視しながらも、童士は優しい眼差しで華乃の背中を見つめていた。
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