第76話 大人げない×オーバーキル
「……お兄ちゃん、昨日今日と井野さんと一緒にいたの? どういうこと? どういうことなの? ねえ、ねえってばっ」
プクりとハリセンボンみたいに頬っぺたを膨らませた美穂は、僕の足にしがみついたまま、グルングルンと僕の体を前後に揺らす。
「まさか、お兄ちゃん、あの女と付き合い始めたとか、そんなのじゃないよね? 駄目だよ、お兄ちゃんには私がいるんだし、彼女なんていらないよね? そうだよね?」
……うーん、そのまさかなんだけど、それを何も考えずに無策で言うと、恐らくこの家が美穂の涙か僕の血で沈んでしまう。
「うううううううう」
見てよ、美穂の今にも泣き出しそうな顔を。なんだったら見下ろす先の瞳にうっすらと光るものが見え始めているし。
「え、えっと……そ、その……」
違うよと言うのは簡単だけど、どうせ目ざといし鼻ざとい美穂のことだ。これくらいの嘘、すぐに見破ってしまうだろう。
「……お兄ちゃん?」
ああ、言わないといけないってわかっていても、捨てられた子犬みたいな目をされたら気持ちが揺らいじゃうってこんなの……。
ブラコンなこと差し引いてもうちの妹は可愛いからなあ、うん。別に僕はシスコンではないけども、ええ、シスコンではないけども。大事なことなので二回言いました。
「……み、美穂? 美穂だって、ずーっと僕と一緒に暮らせるわけじゃないことくらいわかってるよね?」
仕方ないので、直球勝負ではなく、変化球を交えてお話をすることに……。でも、これでうまくいくかなあ……。
僕は、足元にしがみついている美穂の目の前にスッとしゃがみ込んでは、ひとまず慣れ親しんだまん丸の頭をよしよしと撫でてあげる。すると、美穂は猫みたいに心地よさそうな顔を一瞬だけ浮かべた。一瞬だけ。
「くふふ……って、頭撫でてくれるくらいじゃ誤魔化されないよ、お兄ちゃん」
「……わ、わかってるよ、僕だって……」
こんなんでどうにかなってしまうのなら、世の中の人間関係に駆け引きの四文字は存在しない。
「……いつか、僕だって就職するし、そうなったらどこで働くかわからなくなる。東京じゃないかもしれないし、もしかしたら北海道や沖縄、日本に限らず、下手をすれば海外とかに行くかもしれない。そうなったとしても、美穂は僕と一緒についていくの?」
「……つっ、ついていくよっ」
まあ、この反応は予想の範疇。
「……言うのは簡単だけどさ。実際、僕と美穂が今山梨の実家を出て、ふたりで東京に暮らしているの自体、それなりにお金がかかっているんだ。僕が働きだす頃だって、まだ美穂は中学生か高校生でしょ? ってことは、僕についていくって言ったって、そのお金を出すのはお父さんなわけで」
「うっ……うう……」
大人げない理論攻撃だとはわかっているけど、今の僕に、それ以外の方法は浮かばない。
「……いつか、僕と美穂が離れ離れになるんだよ。だから、いつまでも、僕にべったりし続けられるとも、限らないし……」
少しずつだけど、僕は外堀を埋めて、本題の井野さんの話題に入る準備を進める。我ながら、随分と大人げないことをしている。
「だっ、だから、少しずつでもいいから、兄離れっていうか、なんていうか……」
「……ううううう……」
次第に、目の前に立つ妹の唸り声は大きく、そして表情も険しくなっていく。折角の可愛い顔が、しかめっ面で台無しだ。
僕は、そんなことはお構いなしに、二の矢、三の矢と言葉を繋いでいく。
「そっ、それに、普通の兄妹だったら、四年生くらいになったらお兄ちゃんのこと嫌いになるものだし──」
けど、
「──今普通の話なんて聞いてないよっ! お兄ちゃんのバカ! おたんこなす! わからずや!」
繋いだ言葉は、どうやら美穂をオーバーキルしてしまったみたいで、我慢の限界に達した妹は、ポカポカと僕の頭をひっぱたいてから、
「もうお兄ちゃんなんて知らないっ!」
僕の勉強机にしまっていたスマホと財布、さらにはお年玉などを律儀にため続けていた貯金箱を手にして、
「あっ、ちょっ、美穂っ、どこにっ──」
僕の呼び止める声を待たずして、家の外に飛び出して行ってしまった。
「──え……これって……もしかして……」
俗に言う、兄妹喧嘩による、家出ってやつですか?
その考えに至った瞬間、僕は血の気が引くのを自覚した。
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