第64話 助手席×そういえば

 翌日。僕より速い時間に家を出ていた美穂を追うように、僕は出発した。

「……よし」

 リュックサックに一日分の着替えを詰め込んで、夏の陽射しを帽子で遮りながら駅へと歩いて行く。地元も地元でシンプルに暑かったけど、東京は東京でアスファルトの照り返しがきつい。


「……もうちょっと涼しくなってくれてもいいんだけどなあ……」

 あと、夏にしんどいのは、外の気温だけではなくて……、通勤電車も、だ。

 わかってはいた。平日朝の東京行きの快速電車。七時台後半とは言え、混雑率はまあ高い。高校生は夏休みと言っても、世間は普通に平日だ。


 僕の肩が触れる先には、もう既にぐっしょり湿っているワイシャツを着たサラリーマンの男性が額に玉のような汗を浮かべている。

「…………んぐ」

 別にこの人に罪はないのだけど、それでもどうしても不快指数は上がってしまうし、ただでさえ外気温は高いんだ。狭苦しい鉄の箱にずし詰めとなれば、悲鳴のひとつやふたつ漏れてしまう。


 ひと区間で各駅停車に乗り換えて、そっちは始発電車だから座って楽に行けるからそれまでの我慢だけど、それでもキツイものはキツイ。

 ……ま、まあ、ちょっとで終わるから、ちょっとで……。


「ふぅ……なんとか着いたよ……」

 約束の十分前。満員電車から解き放たれた僕は、人の流れと逆行するように改札口を出た。改札前には、やはりこの通勤ラッシュの人混みのなかでは浮いて見える私服姿の井野さんと、池田さんが僕を見つけるなりそれぞれ手を振り始めた。


「あっ、おはよう八色君。そういえば通勤ラッシュのことすっかり忘れちゃってたよ、ごめんねー。これなら待ち合わせ場所、少し考えるべきだったかも」

 顔より高い位置でブンブンと手を振っていた池田さんは、僕が側に寄るなり軽い調子でそう言っては、頬をポリポリと掻く。


「……いえ、まあ慣れっこなんで。というか、中央線沿線に住んでいる人間なら避けて通れない道なのは池田さんだって知っているじゃないですか」

「え? あ、私大学逆方向だから、ラッシュには巻き込まれないんだー」

 なんでもないように答えた池田さんとは対照的に、僕はがくんと項垂れたくなった。


 ……なんだろう、この何とも言えない敗北感は……。

「……い、井野さんも、おはよう……調子はどう……?」

「ひぅっ! おっ、おはよう……ございます……」

 これ以上敗北を味わうのは癪なので、僕は視線を隣にずらして、さっきからペコペコと頭を小さく下げていた井野さんに話しかける。


 山を歩くわけでもないので、完全に軽装の井野さん。夏っぽく麦わら帽子を被ったり肩まで露出しているノースリーブのトップスを着ていたりと、これまた視界が眩しくなる格好だ。

 ただ……ただ……。


「……すー、すー……ひぃんっ! あっ、えっと、そっ、そのっ……!」

 この間の映画見に行ったときと同じように、時折船を漕いで見せる井野さんは、うつらうつらと目を開けたり閉じたりと、現実と夢の狭間を彷徨っているようだった。

 つまるところ。

「……今日も寝不足でいらしたんですね、この子は」


「ははは、そうみたいだねー。かわいいところもあるものだよね。さ、じゃあ早速行こっか。車は近所のコインパーキングに停めているからさ」

 そうして、僕ら三人はそのコインパーキングへと移動を始めた。その途中、

「今更ですけど、免許持っているんですね、池田さん」

 眠たげな井野さんを片手で引っ張りながら、僕はそんなことを尋ねる。


「あー、サークルの合宿とかでよく車使うからね。取っちゃったんだ。さすがに車はレンタカーだけど。あ、助手席乗っちゃう? 乗っちゃう?」

「いや、最初っから助手席乗るつもりでいましたけど。運転手させてるわけですし……」


「ふうん。それだと私の(助手席の)はじめては八色君になるわけかー、なるほどなるほど。まあそれも悪くはないかー」

「──はっ、はじめては八色くんっ! ひゃぅん……!」

 ……このむっつりスケベはどこを切り取ってそんな反応をしているんだ。


「……あと、サークルで運転しているなら、絶対誰か助手席に乗せたことありますよね……? 冗談もほどほどにしておいてください」

「あー、バレちゃったかー。てへっ」


 てへっ。って。

 やがて目的のパーキングに着いたみたいで、池田さんは運転席に乗り込み、僕は助手席、井野さんは後部座席という座席割で進む、はずだったのだけど。


「……うっ、うううう……」

「えっ? 井野さん?」

 動いた瞬間、後ろから、そんなやばそうなうめき声が聞こえてきて、状況は変わった。

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