第35話 悶える×先生の怨嗟

「……井野さんの主観や、昔どんな扱いを受けて来たかは僕はまったくもって知らないけどさ。っていうか、僕だって井野さんのこと今年の春からしか知らないし。全部なんて知れるはずもないけど」

 男子が集まる理由がわからない、と口にした井野さんに対して、僕は穏やかに話をする。


「まあそれに? 百歩譲って他の男子が井野さんのことを可愛くないって言っても、……廊下に五人の人だかりができたからそれはないと思うけど、僕は、井野さんに可愛いところあるとは思っているから、そこまで極端に自分を下げなくてもいいよ」

「……ひぅ」

 そこまで言うと、井野さんはもぞもぞと体をくねらせては、体育座りの両手の間に、顔を擦りつける。


「……ど、どうかした?」

「……そ、その。あまり可愛い可愛いって言われると、どうしても……そ、その……」

 うー、とさえずり声をあげる井野さんは、恥ずかしさで悶えている。


 ……あれ? 僕、ここで何回「可愛い」っていう単語を発した? ひいふうみい……あれれ?

「……んん。とりあえず、すぐに朝のホームルーム始まるから、教室戻らないとだけど」

 いざ冷静になると僕のほうもなんか悶えそうになる。スマホで時間を確認し、


「あっ、あと。この際ちょうどいいから今詰めておくけど、週末にあった、お互い口にしがたい秘密事項は、どっちも喋らないってことで、いいよね?」

 適当に話をそらすため、懸案していた踏んだり蹴ったりのことを確認しておく。……僕が家で毎日小学四年生の妹と一緒にお風呂入って洗いっこしていることとか、同じベッドで寝ていることが学校に知れ渡ったら、良くてシスコンの烙印を押されるか、酷ければ変態扱いだろうし。


 さすがに残りの高校生活を変態として過ごす覚悟を僕は持ち合わせていない。

 下の毛事情も、男子だったら適当に笑い飛ばして済むだろうけど、女子でそんな話をされたらとんだ生き恥だろう。


「……ひゃっ、ひゃい……。そ、そうしていただけると……助かります……」

 僕の言葉にぴくっと反応した井野さんは、両手をスカートの足の付け根の部分に持ってきては、大事なところを隠すような素振りをして、消え入りそうな声量で返す。

 ……あの、いや、まあ気持ちはわかるのだけど、このタイミングでその仕草は僕が鼻血を出したくなるから勘弁してください……。


 ただ、ここでそれを言うとまさに墓穴になるので、ぐっと鼻血を堪え、とりあえず視線を窓のほうへと逃がす。


「……じゃ、教室帰らないと──あっ」

 瞬間、ホームルームが始まるチャイムが鳴り響いた。

「……急いで戻ろうか」

「ひゃっ、ひゃいっ!」

 ハッとなった僕と井野さんは、大急ぎで部室を出て、静まり返っている廊下を全速力で駆け抜けて教室に向かった。


「はぁ……とうとう八色くんもそっち側に行ったのかあ」

 その日の放課後。図書室当番だった僕は、司書室で松浦先生と一緒に先日募集した図書の購入希望調査のアンケート結果をまとめていた。


「……そ、そっち側って、どういうことですか」

 司書室のパソコンにふたりで向き合って、エクセルにひたすら結果を打ち込んでいくなか、先生は深いため息をつく。


「どういうことって、先生の敵側ってことだよ」

「て、敵って……ええ……?」

「聞いたよ、それに見たよ? 図書室に通いに来ていた女の子、バッサリ前髪切っちゃって。あんなの、八色君に振り向いてもらうために決まっているよ。ああ……リア充爆発しないかなあ」

 せ、先生? 言葉がなんか荒れてますよ?


「この間も上川先生が慌てて職員室戻ってきたと思ったら、それ以上に大慌てで帰っていって、あこれは奥さんが迎えに来たんだなって他の先生方とニヤニヤしてたし。はぁ……はあ……」

 それは……なんかすみません。いや、正確に言えば漫画の原稿用紙を飛ばした風が悪いんですけど、なんかすみません。


「生徒は続々と彼氏彼女いない歴イコール年齢を卒業しているというのに……引き換え私は……いいもん、私はもう仕事に生きるよ。送られてくる結婚式の招待状なんて全部欠席にマルつけて送り返してやるもん」

 やることが生々しいですよ……先生。


「いっ、いやっ、別に僕と井野さんが付き合うとか、そういうことにはなってないですし」

「……でもねえ? 髪切っちゃったらねえ? 怪しいよ?」

「そ、そういうものなんですか……?」

「そういうものなんだよ」

 帰りたい……。先生の怨嗟が段々強くなっている気がする……。

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