第六話 新しく始まる日常

「ふぁぁ……あ、朝だ」


 机に突っ伏していた身体を起こせば、固まってしまった筋肉が軋んでいく。特注の大きくて長い机の上にはノートと薬品が入ったフラスコ。

 窓から差し込む朝日でフラスコの中の結晶はキラキラ輝いている。眩しいと思ったのはこれが原因だと理解した。

 近くにあるもう一方のフラスコ内は何も反応が起きていない。ただ葉っぱの水分が抜けただけの形が残っている。ついため息をこぼした後に、固まっている背中をゆっくりと起き上がらせて背中を伸ばした。

 どうやらまた寝落ちしてしまったらしい。チエリにバレたら怒られる。


 ゆっくりと扉を開けて、一階からはいい匂いとパタパタと忙しなく歩く音がする。どうやらチエリは下に居るらしい。

 顔を洗うためには部屋の前を通過しなければいけない。気付かれないようにしないと。


 ワンピースの形をしたパジャマを何処かに引っ掛けないように気に付けながら、そっと扉を閉める。僅かに軋む音が今ではヒヤリとする要因。

 ゆっくりゆっくりと進んで、なるべく床の軋む音がたたないように。

 細心の注意を払って空き部屋の前を通ろうとした時だ。


 ガチャ。


「うわっ!?」


 空き部屋だと思った扉が突然開いて、声をあげる。驚いて固まっていると、部屋からは大きな身長に白髪の男性。パチリと青紫の瞳と目が合った。


「……あ、ゲラルドおはよう」


「今僕のことを忘れていたな」


「ごめんって」


 そうだ。ここは空き部屋じゃない。ゲラルドの部屋。

 昨日から正式に暮らすことになった。膨大な魔力と頑丈な身体をもった、稀有な存在。

 ゲラルドは私を呆れた眼差しで見ていたと思ったら、何かに気付いてゆっくりと私の方へ手を伸ばす。頭上――髪の毛に何か触れた。


「どうしてこんなところに枯れた葉っぱなんぞ付けているんだ。森で寝てたのか」


「枯れた葉っぱじゃないよ。これは弱火で水分を飛ばしたもので、ごくわずかに精油っていう油がとれるはずなの。でもね、絶対にこの方法じゃない気がする」


「へぇ、それで徹夜ですか」


「だって知りたいじゃん。前に読んだ文献で欲しい物質を取り出すための、えばぽ、ってものが分かればなぁ……あ」


 最初の声はゲラルドのもの。でも次に質問してきたのはゲラルドにして声が高過ぎる。そもそもゲラルドと間違えるわけがない。

 ゆっくりと振り向けば、後ろにはさっきまで居た実験室として使っている扉と――チエリ。


「わぁ、チエリに背後取られちゃった。おはよ」


「おはようございます、ソフィア殿、ゲラルド殿。……じゃ、ありません! やっぱり徹夜していたんですね!」


「バレてたか」


「バレてたか、じゃありませんよ!? 何してんですか!? コソコソしてもバレバレです!」


「そっか。じゃあこれからは堂々とするね」


 ごめんね、と頭を撫でれば「いやそうじゃない!」と言われてしまった。朝から元気である。

 ふわり、と鼻腔をくすぐるのはチエリの郷土料理の一つ味噌スープ。私はこの料理が好きだ。

 ゲラルドは鼻をすんすん、と動かしてわずかに表情を緩めた。どうやらお気に召したらしい。


「ゲラルド、チエリの作る料理は飯テロレベルだよ。行こう」


「めしてろ、というのはなんだ」


「チエリより上のフロアに居るものが全てチエリの料理に殺されるの」


「恐ろしいスキルだな」


「誤解です!」


 ゲラルドの背中を軽く押した後に階段を降りていく。するとさっきよりも味噌スープ以外に沢山の香りがふわりと香る。卵焼きの匂いもしてきた。


「あの香りが食べられたら、私は研究しながら美味しい料理をありつけるのに」


「そんな事がもし出来たとしても、某は絶対にそれを阻止しますからね。食卓はみんなで囲むものです」


「もし出来たとしても、チエリの料理は別だって」


 テーブルにはもう全て用意がされていた。ちゃんとゲラルドのものも。昨日まで二つしかなかった椅子は三つになっている。チエリが用意してくれたんだろう。

 チエリは自分に厳しい。でも他人には厳しくなれないところがある。私はそういう人間くさいところがとても好きだ。

 いただきます、という合図を言ってチエリのご飯を口に入れた。ゲラルドは食べたことないものだったらしいけれど、どれも美味しそうに頬張っていてチエリの表情は嬉しそうに和らぐ。

 よかった、案外やっていけそうだ。


「さて、今日はこれから私は山に出掛けるよ。やっと苗木も育ってきたし」


「ソフィア殿、少しは村へ顔出されては……」


「初日行ったじゃん」


「街へ行くのか?」


 ゲラルドは少し驚いた表情でチエリを見つめる。その反応を見て、チエリは「ソフィア殿の御母堂様がいらっしゃるんですよ」と答えた。

 するとゲラルドは微妙に嫌そうな表情をした後に、私を見て「お前たちの母か」と呟いた。なんだその露骨に嫌だ、って顔は。


「お母さんと言っても、私とエルの本当のお母さんじゃないけどね」


「それは……悪いことを聞いた」


「別に重い話じゃないよ。この時代、よくある話。私とエルにはお母さんの代わりとお父さんの代わりが居たし、なにより村の人たちがみんなで育ててくれたから」


 仕方ないだろう。魔王という存在が居る前は人間同士の争いが激化していた。魔王が現れたことで、それは鎮静化したように見えるけど、まだまだ争いは絶えない。

 子供を捨てていく親も居れば、親が亡くなる事だって少なくはない。だからこそ教会はそういう子供たちのために必要な場所。

 私たちは何不自由なく育ててもらった。幸運な方だろう。


「では今までミターニアに住んでいたのか」


「ううん。十三歳くらいの時にエルがお父さんと喧嘩しちゃってね。それでクレモデア王国の森奥に移り住んだんだ」


「喧嘩……」


「よくある親子喧嘩だよ。お母さんはね、まあ悪い人じゃないんだけど会うたびに結婚はまだかー、っていってくるからさ。それに苗木が育ったし! チエリ、また今度顔見せる、って言っておいてくれない?」


「家に来ても知りませんからね」


 そこまではしないだろう、とは言えない人だ。チエリがこんなことを言うということは、そろそろ痺れをきらして来そうだ、本当に。

 卵焼きが気に入ったのか、夢中で食べているゲラルドに話しかける。子供のように頬張っている姿は可愛らしい。


「ゲラルドは私と一緒に森に行こう。挨拶と謝罪はしてないでしょう?」


「……謝罪?」


 卵焼きを飲み込んだ後に、私の言葉に怪訝な表情を向けてくる。何も謝るものはないし、そもそも何に謝るというのだ、ってものだろう。

 ゲラルドは私が見つけた時、薬草中毒だった。

 あれはある薬草を食べると、出てきてしまう症状。その薬草が生えているのはこの家の裏の山。そこから食べたのだろう。


「自然は優しいけど、寛大ではないんだよ」

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