記憶が戻る門番
「私の名前はミズハ・スイレンと申します……ししょ……いえ、ヴァーサスさんとは、結婚を前提にお付き合いさせて頂いておりますっ! 将来を誓い合った仲です――っ!」
「な――っ!?」
瞬間。ヴァーサスの思考は完全にフリーズした。
待て待て待て、落ち着け。偶数を数えて落ち着くのだ。先ほど現れたリドルという女性は自らをヴァーサスの恋人だと言っていた。既に一つ屋根の下で寝食を共にもしていると。そしてあの手慣れた口づけとその時ヴァーサスが感じた胸の高鳴り――――。
リドルがヴァーサスとの関係を偽っている可能性はないという確信があった。しかし今目の前に現れたミズハという少女は、自分もヴァーサスとお付き合いを、しかも将来を誓い合った仲だと言うではないか。
ミズハの銀色の瞳は今もまっすぐにこちらを見つめている。その瞳には少しの不安を映していたが、真剣そのものだ。この可憐で一切の汚れを感じさせない純真な少女が嘘を言うとは思えなかった。つまり――――こんな鬼畜生な状況を招いた責任は自分にあるとヴァーサスは判断したのだ!
「(な、なんなのだこれは!? どうしてこうなった記憶を失う前の俺よ!?)」
これは一体どういうことなのか。記憶を失っている今だからこのような状況に混乱しているが、まさか本来の自分は彼女たち二人との関係を平然と受け入れる、二人の見目麗しい女性の純粋な心を弄ぶようなド外道だというのか!?
ミズハの告白に、頭を抱えてうんうんと混乱するヴァーサス。だがミズハはそんなヴァーサスの様子を見てきゅっと唇を引き結ぶと、俯いて小さく呟く。
「やはり……私では、駄目でしょうか……?」
「――っ!?」
「やはり、ヴァーサスさんから見て、私が恋人というのは……不足……っ」
「そ、そんなことはないっ!」
ミズハの瞳に僅かな涙が浮かぶ。ヴァーサスは思わず声を上げ、僅かに身を乗り出すと震えるミズハの手を力強く握った。
「不安にさせてすまなかった。ただ、君のような素敵な女性が俺の恋人だということに驚いてしまったのだ。君にそこまで想われていた俺は本当に幸せ者だと心から思う。 ――――許してくれ、ミズハ」
「ししょ……っ……ヴァーサス、さん…………っ」
とにかくこれ以上目の前の少女を悲しませる事態だけは避けなくては。ヴァーサスはその一念で必死に思ったことを素直にミズハへと伝えた。
だがミズハは、そのヴァーサスの言葉とまっすぐに自分を射貫く瞳に感極まって思わず涙を零してしまう。しかしすぐにその零した涙を拭うと、ぶんぶんと頭を左右に振り、ゆっくりと席を立った。
「もう大丈夫なのか?」
「師匠……私、師匠にそう言って貰えて、凄く嬉しかったですっ! でも、やっぱりこんな――」
席を立ったミズハはヴァーサスに一礼すると、ドアを開ける。最後にドアの前でもう一度ヴァーサスへと向き直ると、再びそのまっすぐな瞳で決意を固めたように呟いた――。
「どうか、早く良くなってくださいねっ! 私、もっともっと師匠に相応しくなれるように頑張りますからっ!」
「ああ……楽しみにしている!」
そう言うとミズハはそのまま扉の向こうへと姿を消した。
まただ。ヴァーサスは再び猛烈な既視感に襲われる。このたった今ミズハと交わしたやりとり――これも間違いなく何度も行ってきたという確信があった。やはり、彼女も自分にとってかけがえのない、大切な存在なのだ。
だが、再び部屋に一人となった当のヴァーサスは――――。
「ど、どうすればいいのだ……っ!? かつての俺は一体どんな男だったのだ……!? どうもとんでもないクソ野郎なのではという気がしてきたのだが……!? このまま記憶が戻ってしまって本当にいいのだろうか!?」
リドルと出会うまでのヴァーサスの男女の恋愛観は、それこそ十歳児前後くらいのものであった。リドルと出会ってからも基本的にヴァーサスの色恋に対する向き合い方は非常に古風で、もっぱら保守的なものから変わっていない。
一人の女性を生涯愛し、守るというタイプのあれである。
そんなヴァーサスの古風な恋愛観からは到底許容できない、邪悪な笑みを浮かべ、金銀財宝を背にリドルとミズハを両手に抱える自身の姿が脳裏に浮かぶ。
「(く……っ! 記憶が戻ったら、こんな奴を再び世に解き放つことになるというのか……っ!? 考えろ……彼女たち二人を、俺の魔の手から救わなくては!)」
うんうんと眉間に皺を寄せてベッドの上で唸るヴァーサス。しかしそんなヴァーサスの元に、更なる追撃の一手がもたらされる。
コンコン――――。
「――入りますよ」
残された時間は少ない。焦るヴァーサスの元に、再びドアがノックされる音が響く。穏やかで落ち着いた雰囲気のその声の後に現れたのは、先ほどやってきたリドルという女性……否、似ているが微妙に違う。
「体の具合はいかがですか? 家に帰ったらいきなり貴方が倒れているから、とても驚きました」
「君は……先ほど黒い服を着ていた……」
「はい。私の名前はリドル・パーペチュアルカレンダー。先ほど貴方の部屋に来たリドルとは同姓同名の姉妹なんですよ」
「なるほど……先ほど俺をここまで運んでくれたこと、心から感謝する」
「いえいえ、いつもの事ですから。こういうことにももう慣れっこですよ。だって私は――――」
扉を開け、ヴァーサスの傍までやってきたもう一人のリドル。リドルはヴァーサスのベッド周りに花瓶と花を飾り、ヴァーサスのはだけた患者用のローブをそっと締め直しながら、どこか遠くを見るような目で呟く――。
「私は、貴方の妻なんですから――」
「ぶふぉっ!?」
三人目の訪問者であるもう一人のリドルの発したその言葉に、ヴァーサスは完全に言葉を失う。妻。妻である。既に婚姻関係を結んでいるということだ。では先の彼女たち二人はなんだったというのか!?
「どうしたんですか……? なにか驚くようなことでもありましたか?」
「い、いや……すまない……。なにぶん、記憶が混乱していて……」
「ふふ……おかしなヴァーサス……こんなに汗もかいちゃって……」
そう言うとリドルは妖艶さを感じさせる動作でヴァーサスへとその身を密着させてしなだれかかると、手に持った布でヴァーサスの胸元をゆっくりと拭う。
理解している範囲では本来の自分はこのようなことをされれば緊張し、とても落ち着いてはいられないはずだ。だが、なぜかそのリドルから受ける温もりと優しさはヴァーサスの心を落ち着かせた。
間違いない。今目の前にいるもう一人のリドルも、自分にとってはこのような親密なスキンシップをされても問題ないような、かけがえのない大切な存在なのだ――――。
「り、リドル……もう大丈夫だ、ありがとう」
「ふふ……なんだか、そんな貴方を見るのも久しぶりですね……まるであの頃に戻ったみたい……」
「り、リドル……?」
そこでヴァーサスはふと異変に気づく。否、それはヴァーサスが今まで気づかなかっただけで、彼女は最初からそうだったのだ。どこか焦点の合っていない赤い瞳。そして、その儚げで、可憐でありながら深い絶望が覗く気配――――。
「私はいいんです……私はいつだって貴方の味方……たとえ貴方が誰と何をしようと……私は、貴方と一緒に居られるだけでとっても幸せなんですから……」
「き、君は……まさか……」
なんということでしょう。
これは、知っている。
ヴァーサスの妻であるという目の前のリドルは、記憶を失う前のヴァーサスが、妻である自分以外に二人の女性と関係を持っていることを、間違いなく知っている――――!
かつての自分の行いが、彼女をここまで追い詰めてしまったのだ。なんという悪魔の所業。一体こいつの血の色は何色だろうか。貴様には地獄の業火ですら生ぬるい!
「リドル!」
「あ――――っ」
どこか遠くを見るような、虚ろな瞳でかいがいしく自分の体を拭くリドルを、ヴァーサスは強く抱きしめた。しかしそれは決して彼女が苦痛にならないように、できる限りの注意を払って――――。
「許してくれ……妻である君をこんなにも追い詰めてしまった俺を……! 全て俺が間違っていた……!」
「ああ……ヴァーサス……っ」
「どこまで覚えていられるかはわからない。だが、俺はきっとやり直してみせる! 真っ当な人間になると誓う! だから、記憶が戻ったらもう一度俺と話してくれないか。必ず、俺がケリをつけてみせる……!」
「はいっ……待ってます……ずっと……っ!」
お互いの背にしっかりとその腕を回すリドルとヴァーサス。
それは冷え切ってしまった夫婦の温もりを再び暖め、優しく癒やしていく――。
そうして、しばしお互いの温もりを感じていた二人だったが、やがてゆっくりと離れる。そしてもう一人のリドルは先ほどよりも生気を取り戻した瞳でヴァーサスに微笑むと、静かに手を振って部屋から出て行った――――。
「く……っ!」
ヴァーサスが立ち上がる。最早一刻の猶予もない。
自分自身が恐るべき悪魔に戻る前に、なんとしてもこの状況を打開する道を切り開かなくてはならない。
二人のリドルも、ミズハも、全員が全員信じられないほどの素晴らしい女性だった。そんな彼女たちが自分のような悪魔の手によってその人生を踏みにじられていいものだろうか!?
「否、断じて否だッ!」
吼えるヴァーサス。
ヴァーサスは必死になって自身の中に眠る悪魔を封印する方法を探し求める。しかし、その時である――――。
コンコン――――。
「――っ!?」
四度打ち鳴らされる扉。さらなる追い打ちに身構えるヴァーサス。そしてその扉から現れたのは――――。
「ハハッ! やあヴァーサス! 君が記憶喪失になったと聞いて帝国から飛んできたよ! なんでかって? それはもちろん、君が僕の最愛の恋人だから――――」
「いや、ドレスよ。俺とお前は親友だが、恋人ではない」
背後に後光を纏い、満面の笑みで病室に現れたのは門番皇帝ドレス・ゲートキーパー。しかしそんなドレスの姿を見たヴァーサスは、すかさず誤った関係性の否定の言葉を発した。
「…………? おかしいね。僕は君が記憶喪失だって聞いて急いでやってきたんだけど……」
まるで拍子抜けしたように首を傾げる門番皇帝。ヴァーサスは自身が立っていたベッドから軽々と飛び降りると、ドレスの前に歩み寄り、笑みを浮かべてその純白の甲冑に覆われた肩をポンポンと叩いた。
「はっはっは! どうやらお前の姿を見たことで記憶を取り戻したようだ! 感謝するぞドレス!」
「ハハッ! そうかい! ほんの少し残念だけど、君の力になれたのなら嬉しいよ! ヴァーサス!」
「ドレス!」
「ヴァーサス!」
そう言って二人は互いの瞳を輝かせると、固い友情の握手を交わしたのであった――――。
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