第1話

校舎をつなぐ渡り廊下に緑の匂いを孕ませた夏の風が吹き抜ける。


――いや、風を感じるのは俺が走っているからだ。


せっかくの昼休みだってのになんでこんなに走りまわらなきゃいけないんだ!


「待ってよー!少し付き合ってくれるだけでいいの!少しでいいから!」


逃げ惑う俺の後ろを追いかけてくるのは幼なじみの蛭子えびす摘麦つむぎだ。


だから嫌だって言ってんだろ!とは思っているが声に出さない。


対して、摘麦は廊下ですれ違う生徒たちを気にすることもなく叫び続けている。


「廊下は走っちゃダメだからー!止まりなさーい!」


アイツは何を言っているんだ。人の振り見て我が振りなおせとはまさにこのことだ。


校内で大声を出すだなんてアニメの世界じゃあるまいし恥ずかしくないのか。


いま行われているのは追いかけっこなんていう易しいものじゃない。


狩りだ。獲物を追い込む狩人と息を殺して逃げる小動物との闘いだ。


新しい薬があるから飲んでくれだなんて冗談じゃない。真っ平ごめんだ。





昼休みが終わるまであと七分。


この時間になればあの狂実験者といえど諦めるだろう。


だからといって足を止めたのは逃げ切ったことを確信したからではない。


教室の入り口に人の壁があったからだ。


「いだっ!急に止まったら危ないでしょ!あっ、それとも実験に付き合う気に――」


「いい加減にしろよ!」


廊下にまで響く怒鳴り声。


追突してきた摘麦も俺の背後に隠れて声のした教室の中の様子をじっと伺っている。


「いつまでウジウジしてんだ?なんとか言えよ」


上級生と思われる大柄の男が男子生徒の胸ぐらを掴んでいる。


胸ぐらを掴まれている男子生徒は口をへの字に曲げて何も話す様子がない。


「もう野球はやらないっていうのか」


男子生徒は無言のまま、だが目は相手を見据え睨みをきかせている。


一触即発の空気――――そこに間抜けなほど場違いなチャイムが鳴った。


「お前を野球にもどすまで俺は諦めないからな」


大柄の男は掴んでいた手を解くと、ぶつぶつと何か言いながら教室を出ていった。


ただ、背後に隠れていた摘麦だけは俺のシャツの裾を掴んだままだった。





昼の一件のあとも男子生徒は何事もなかったかのように授業を受けている。それどころか机に突っ伏して居眠りを始めることさえあった。


「お前を野球にもどす」と彼は言われていただろうか。


だが俺の記憶が確かなら彼は、手代木てしろぎはるは入学してから何の部活にも属していないはずだ――





放課後になると教室の中にいた生徒は半分ほどに減ってしまった。


「先輩はきつい言い方してたけど僕も晴には戻ってきてほしい――先に行ってるよ」


「……おう」


大きなエナメルバックを肩にさげたメガネの少年は部室棟の方へ向かっていった。


どうして俺はあの騒動のことを気にしているのだろう。


「それじゃあ彼方かなた、私たちも化学部に行こうか!」


「待て待て。俺は化学部じゃない」


「そんなことは知っておりますとも。でも今日バイトないんでしょ?暇なら来ない?新入部員大歓迎だから」


つれないことを言いなさんなとばかりに摘麦がぐいぐいとリュックの肩紐を引っ張る。なんで俺の予定知ってるんだよ。


逃げるタイミングを失った俺は、これで何度目かの勧誘を断りきれずにしぶしぶ着いていくことになった。

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