ハテノハツカ

環境

ハテノハツカ……01

「世界を閉じるだけでいいんだよ」

 

 晴れきった空の下、切り立ったような岬に立っていた。深い青だけがそこにあった。


***


 無数の針が頬を刺す。

 微睡みの中で、まぶたより先に意識が覚醒しつつあった。冷え切った鼻先は痺れ、否応なしに本格的な冬の訪れを理解する。あたたかであるはずの毛布はすっかり熱を失い、端からじわじわと染み込んでくるのは、鋭い冷気だった。ほんの少しでも体の置き場をずらそうものなら、たちまちのうちに重く冷たい拒絶を受ける。口の中で小さな悲鳴が生まれ、私はそこではじめてはっきりと目を覚ました。

 窓を叩く風雪の音と、妙に薄暗く陰った朝。私はここにいるべきでない、いてはいけないと悟ってしまった。


に行こうと思います」


 事実上の自殺予告は、家族の団らんを数秒ほど停止させるのに役立った。暖房の効いたダイニングで朝食をとっていた彼らは、一様に凍りつく。父と母、兄と妹が全員空間は、あるいは生まれてはじめての光景だったかもしれない。その静けさが妙に可笑しく思えて、口の端を歪めた。彼らも同じように、ぎこちなく頬を引きつらせると、空虚な笑い声が部屋を満たしてゆく。表面上であっても平穏は保つべきものであり、場の空気を乱すふるまいは許されない。少なくともこの家においては。

って、そりゃまたどうしてなんだ」

 ひとしきり愛想笑いを終えたところで、兄が口を開く。浅黒い肌は骨太の体躯にとても似合っている。指先で顎を持ち上げ、見下げるようにして話しかけるのは彼の癖だった。

「今日はやめておいたほうがいいんじゃないか」「行くならご勝手にどうぞ」「お前なんて厄介者、消えてしまえばいいのだ」「なにか悩みでもあるのか?」「俺で良ければいつでも相談しなさい」

 兄の言葉に、妹も首肯する。彼女はトーストにあずきをひと粒ずつ乗せると、丁寧に並べてデコレーションを施していた。

「そうよ。姉さんも今日が何の日か知っているでしょ。家にいるべきよ」「またはじまった。かまってほしいだけなのよ、結局」「どうでもいい」「今日のはキレイに仕上がりそう」「果ての山は10月から閉鎖されているし」「兄さんの機嫌が悪くなるじゃない」「めんどうくさい」「どうかしら、今日はみんなでボードゲームでもやるってのは」「絶対に御免だけど、どうせ断るのよ。断ってね」

<果て>とはこの地方一帯の山脈を意味する俗称だ。この国に存在する他の山々がそうであるように、<果て>にも禁忌がある。

 何人たりとも忌日に立ち入ってはならない。一本足の化け物に食われてしまうから。祖父母が生まれる前から語り継がれている伝承だった。本当にそんな化け物がいて、その上綺麗さっぱり食べて貰えるなら、それでも良い。痕跡ひとつ残さずに消えてしまえるのなら。幸運にも出会うことがあれば、試してみたいことだってある。

「そんなところに立ってないで、座ったらいいじゃない。コーヒーでも淹れてあげましょうね」

 やおら立ち上がり台所に向かう母親は、この積雪でテレビのアンテナが曲がってしまうのを懸念しているようだ。除雪されたばかりの庭には、早くも新しい雪が積もり始めていた。

「やあねえ」

 コーヒーケトルを傾けると、湯気がふわりと立ち上る。その向こう側で、彼女がどんな表情を作っているのかは知る由もない。

「どうしてこの子はそんなことを言い出すのかしら」「どうせ本気じゃないのよ」「引き留めてあげないと」「あなた、朝はモカ・マタリだったわよね」

 食卓につくと、目の前に淹れたてのコーヒが差し出される。家族との別れなど惜しくもないが、母の淹れたコーヒーが飲めるのもこれが最後かと思うと、多少の未練が残った。黒く泡立つ水面をぼんやりと眺めていると、今にも泣き出しそうな表情が映し出される。彼女は恨みがましげな目つきでこちらを見つめ返すのみだった。


 昔から、人の気持ちがよくわかる子どもだった……といえば聞こえはいいが、私が持っているのはとは到底かけ離れた能力だ。真逆と言ってもいい。より正確に表現するならば、他人の思考が体質に生まれたのだ。

 話し声と寸分たがわぬ声色をもつ「心の声」が、どうやら他人には聞こえないようだと気が付いたのは小学生の頃だった。大人たちが自分のふるまいを気味悪がっている言葉が絶え間なくいたからだ。

 未就学児の頃は、自分だけが忌避される理由に思い至れず、癇癪を起こして暴れることも多かった。当時の私には、話し声と「心の声」の判別がつかなかったからだ。どれが口から出た言葉で、どれが言外に含ませた言葉で、どれが秘められた言葉なのか。それらのどれ一つとして、当人にとっての真実と判断できる材料はなかった。ひっきりなしに聞こえる誰かの声、声、声。耳を塞いだところで、完全に遮断することは出来ない。私は誰の心をもわかってしまうのに、私自身は誰にも理解されない。いっそのこと、何も聞こえなければよかったのに。幼い私は、口を閉ざす選択をした。

 今日からことにすればいい。それからは、明らかに自分へ向けられた問いかけだけに、曖昧にうなずいていれば良かった。

 すると大人たちからの評価も「気味の悪い子ども」から「何を考えているかわからない、物静かで引っ込み思案な子」へと変化する。

 忌まわしい能力が失われたという報告は、穏やかな家庭を繕うのに必死だった家族にとって、願ってもいない吉報だったはずだ。それでも彼らは、私に対してある種の恐怖心を抱き続けていた。ひょっとしたら嘘をついているのかもしれない。本当はまだ聞こえているんだろう? と、何度もが、その全てに無反応を貫く。数年も続けていると、私の能力についての話題は、内心にすら上がらなくなっていった。とはいえ、待遇が良くなるとか、印象が上がるということもなく、依然として腫れ物扱いのままだった。

 家族にとっての私は、服を着た透明人間だった。


 心の声を見分ける方法はいくつか存在する。いちばん簡単なのものは、発言をやり方だ。口の動きに合った音声を選び取ることで、言葉にがついて見えるようになる。口の動きに心の声は表れないので、発した言葉に応じて適切な返答を用意できる。とはいえ、多重音声を聞き取りながらリアルタイムに判別するというのはかなりの集中力を要する。そのため、必要な時にだけ意識して読むことにしていた。

 せわしなく新聞をめくっていた父親が、ゆっくりと視線だけを上に移動させ、私の鼻先あたりをねめつける。これは「返事をしなさい」という合図だ。


本当に行くつもりなのか果ての二十日予報では大雪になるそうだが余程おあつらえむきだな

「はい。今までお世話になりました」


 十二月二十日、午前七時三十分。果ての二十日と呼ばれる忌日。どこへ行くことも許されないこの日。出発するなら今日をおいて他にはない。

 今生の別れを告げる言葉に鼻白んだ彼らは、ばつの悪そうな顔で目を伏せ、けれども本気で留めることもなかった。

 私はそのまま家を飛び出し、へと向かうことにした。

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