スイッチの入る時
菅江真弓
第1話
久しぶりに銭湯に行った。 もちろん家にも風呂はあるのだが、ワンルームのトイレと一緒になった狭い湯船ではなく、広い風呂に入りたいこともある。 銭湯と言っても昔ながらのタイル絵があるようなものではなく、カプセルホテルが一緒になったタイプのものだ。 男湯と女湯が別の階にあり、エレベーターで行くようになっている。 フロントで受付を済ませ、ホテルの利用者用の休憩室の前を抜けて脱衣場へ。 廊下には昔の映画の一場面なのだろう、名前を知らない女優の写真が飾ってある。 この建物は5階建てで、4階が大浴場、5階が露天風呂になっている。 僕は服を脱いでロッカーに入れると、露天風呂に向かった。
露天風呂には親子連れ(だと思う)が入っていた。 恰幅のいい中年のお父さんと、中学生ぐらいの、少しやんちゃそうな少年。 やんちゃそうな、というのは中学時代の同級生に少し似ていることから受けるイメージだ。
「部活ってなんでやるんやろうな」少年が尋ねる。
「ん」父親が答える。
「どこかの大学でな、実験で刑務所の役割をやったんやて、看守と囚人な。 そうしたら長いことしてるうちに看守役のやつは囚人役のやつをいじめるようになったんやて。 役割に染まってしまうんやな。 部活でもそうやろ。 先輩は先輩らしく、後輩は後輩らしく。 部活の種類でもそうやん、野球部のやつは野球部らしく、科学部のやつは科学部らしく。 そんなふうになるのに、なんで部活なんてやるんやろうな」
「そうやな…」めんどくさそうに、父親は頷いた。 私はその後を聞かずに湯船を出た。 後ろで父親のほうがゴニョゴニョと何か少年に答えていた。
ああ、そうだなぁ、中学生の頃って、そんなこといろいろ考えてたな。 抑圧とか、束縛とか学校側が大変厳しいものに感じていたものだ。 4階の大浴場の方に入ろうと、階段をおりて行くときに、ふと、大学の基礎教養の講義を思い出していた。
「…そこで、ナチスドイツに加担してしまった、という反省からあるテストを考案しました。 アドルノF尺度といいます。 今日はこれを紹介しましょう。 あれ、どこに書いたかな」講義ノートをひっくり返しながら板書し、板書しながら読み上げていった。
「1権威に対する尊敬と従属は、子供が学ぶべき最も重要な美徳である。 2しつけやマナーの良くない人間は社会人として不適格である。 3人々がもう少し口を慎み…」
なんだか”良いこと”のような気がするけどな、秩序が守られるならいいじゃないか、思いながら聞いていると、先生が板書を終えて言った。
「なんだかいい事みたいですね。 しかし、この尺度が高いほど全体主義的な傾向が見られる、とアドルノは言っています。 私が思うには、このテストの項目だけではなく、どんな綺麗事でも突き詰めていくと、全体主義的な傾向を見せるようになるのではないでしょうか…」
どんな綺麗事でも、か、現実に戻り、大浴場の風呂に浸かりながら僕は思い出していた。
2年ほど前、金沢に旅行に行ったときのことだ。 ある冬の日、当時の彼女と特急に乗り、金沢の兼六園を見に行ったのだ。 観光案内のサイトを頼りに、美術館、寺町とまわり、兼六園に付いたのは3時過ぎのことだった。 まだ冬のはじめだったからか、その年はあいにくあまり寒くはなくて有名な雪の兼六園という感じではなく、紅葉も終わっていたので少し残念な感じではあったがしかし作り込まれた庭園は十分に美しいものであった。
そして夕方になって近江町市場によってブリの寿司を食べ、ホテルに戻った。 僕は非常に満足していたが、彼女はホテルに帰るなり、
「美味しかったけど、ちょっと寒すぎたよね」とつぶやいたのだった。 あの兼六園は綺麗だった、でも、どんな綺麗事でも、ならどんな綺麗でも、なんだろうか。
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